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自分軸の作り方#133 姑との距離。〜堪忍袋の役割〜

新年ですね!
今年もよろしくお願い致します。

喪中のため、おめでたい挨拶はできないので、
ご了承ください。

現在、絶賛帰省中!
夫の実家に来ています。
超手抜きのおせちを重箱に詰めて、
紅白も見て
ほっと一息です。


全国のお嫁さんたち、
奮闘していらっしゃることと思います〜!
応援の気持ちを込めて
今日は、義母のことを書いてみますね❣️


夫と結婚した当時、
隣の家に夫の両親と寝たきりの義祖母が住んでいました。

 ほぼ同居に近い状態でしたが
フルタイムで働いていた私にとって、家事育児を手伝ってくれる存在はありがたい意外のなにものでもありませんでした。

そして、
マイノリティ宗教家の両親に育てられた私にとって

「サラリーマン家庭」ということがすごく魅力的でした。

「普通の日本人」を経験してみたい!!という気持ちが強く、なんの抵抗もなく結婚に至りました。

私の新婚当時
義母は、すでに8年間ほど自分の姑の介護をしていました。

義母がお嫁入りした時には、
姑と、義理の姉に相当いびられたそうです。
なので
今も義母は、
時々私の前でフラッシュバックを起こし、
40年以上前のことを
まるでさっき起こったできことのように
怒り散らすことがあります。

 寝たきりの義祖母が90歳を前に食欲が落ちて来た時に、
私の出産が近いからと言う理由で
義父が不幸を遠ざける為に
反対する家族に
有無を言わさず、経管栄養を選んだ時のこと。

最初は「お父さんが決めたことだから仕方ない」と言っていましたが

その後、堪忍袋の緒がきれた状態になりました。

「もう私は知らん。
お父さんがお婆さんの面倒見たらよろしいわ」

介護の第一線から身を引きました。
それから二年間、曽祖母が亡くなる時まで
ケアマネさんとのやりとりなどは
義母が引き続き行っていましたが
メインの介護者は義父になりました。

義祖母の最期について、記事にしたのがこちらです。



義母は他の人の世話を好んでします。

一時期、
義母の兄嫁が入退院を繰り返していたとき
頻繁に病院に通い、お世話をしていました。

兄嫁さんには、実の娘さんがいます。
息子のお嫁さんもお向かいに住んでいます。

でも娘さんは仕事で忙しい、
お嫁さんとは絶縁に近いくらい仲が悪かったそうで、

義理の妹である義母に
洗濯物を頼むようになってきました。

兄嫁さんから段ボールに入った洗剤が1ダース送られて来ました。

 しばらくは せっせと洗濯して家と病院を往復していましたが

ある日

「なんで私ばっかり世話せなあかんの?!
娘も嫁もいるのに!!」と

突然怒り出して、
ピッタリと病院通いをやめました。

そして、その後は兄嫁さんの悪口を言い続け
お葬式までは、兄嫁さんに近づきませんでした。

この時も堪忍袋の緒が切れた状態でした。

よっぽど我慢していたんだと思います。

すっごく頑張って頑張って、
急に怒り出してやめる。

ゼロか100。やることがとっても極端なのです。




家族が病気になる時。

それって、家族の絆が深まるチャンスです。

何年も疎遠だった子供が戻って来たり
不仲だった家族が和解できるのは
病気になったタイミングが多いのです。

人生最期のときだとわかると、
それまで強かった人も、
急に弱くなります。

それまで怖い親から逃げていた子どもは
圧倒的に弱った親に
近づきやすくなったり。

そして病気になると
親子や嫁姑の間柄にも、
パワーバランスの変化が訪れます。


嫁「お身体、大丈夫ですか?」
姑「申し訳ないけど、頼むわ」

と、歩み寄ることができるようになったり…。

なので、
義母がしゃしゃり出ない方が
家族の絆再構築につながりそうなのになーと
思っていましたが、
その時は頑張っている義母に
言えませんでした。



私の義母と兄嫁の関係もずっと
「上下関係」が厳しかったようです。

親戚から文句を言われたくないから、
と言って
義母は親戚同士の冠婚葬祭のしきたりを
ものすごく丁寧に守っていました。

兄嫁さんは特に、しきたりにうるさい人だったのです。



洗濯物を頼まれて 兄嫁に
「ごめんな、ありがとうな」と言ってもらい
立場が逆転したみたいで
義母は最初、とっても喜んでいました。
そして
当たり前のように頼んでくるようになった頃
初めて兄嫁に「拒否」をしたのです。

堪忍袋の緒が切れる現象は、
自律神経の高ぶりだと言われます。


それまで
自分の思いを
我慢して我慢して、
指示されたことに従うしかなかったことへの
怒りが噴出したのです。

思考停止状態だった義母が
怒りをきっかけに
自分を取り戻しました。

堪忍袋。

怒りが爆発する現象は
自分の心を守る為に必要なことなんだなーと
しみじみ思いました。

その義母は
結婚したばかりの私に対しては
マウンティングを欠かしませんでした。

料理については
「下手くそやなぁ」というダメ出し。
味を見ては「足りひんなぁ」
フライパンさばきを見て「下手くそやなぁ」

友達を家に呼んで食事をしている時に、
卵焼きを山ほど届けに来て、
(私の作った料理を見て)
「あんな量じゃ足りひんわ」と、後日夫に言っていたそうです。

それを聞いた私は
つらくて悔しくて、夫の前で泣きました。

それからは友達を家に呼ぶのも嫌になりました。



人の悪口と噂話が大好きな義母。


それでも、義母を嫌いにはなれない私です。

義母については
人に愚痴ることもなく
過ごしていました。

6年前に夫の転勤が決まった時のこと。

義父母の元に私と子どもたちを置いて
東京に単身赴任しようとしていた夫。

私は恐怖を感じ、

「絶対無理!
あのお母さんと子どもたちの面倒見るのは絶対無理!!!」と訴えました。

嫁姑が仲良しだと信じていた夫は、かなり驚いたようです。

私もその時、堪忍袋の緒が切れたのでしょうね。


私たちが転居して2年後。
義母は癌の手術を受けました。

その時私は子どもたちを連れて夏休み中の40日間実家に帰り、
義父母の食事と洗濯、
通院介助をしました。

それからのち

義母はとにかく、心身共に小さくなりました。

私がリビングをウロウロしていると
「ごめんな、邪魔になるな」と言って、
寝室に戻りますし
食卓でも、一緒に食べよう、と誘っても
「邪魔になるやろ」と時間をずらして食べようとします。
私が料理や掃除をしていると、
「やることあったら言ってや」と何度も言います。


私が洗い物や洗濯物の取り込みをしていると
「私がやる!このくらいのことはできる!!」
と、言って来るので、
「わぁ💕ありがとうございまーす😊」と、
全く遠慮せずにお任せします。

(以前は、いえ私がやります!と、仕事の取り合いをしていました)

食器洗いはヒィヒィ言いながらやっていて
すごく大変そうなのですが
やりたいことはやってもらう方が達成感があるみたいなので、
頑張ってもらいます。


義母はこの家に来てからずっと、交感神経優位の
闘争逃走状態、緊張感の中で生活して来たのでしょう。人の役に立つことをアピールして頑張って来たのでしょう。

「何もできなくなった」と言って
落ち込むこともあり
病気になって体が弱った自分を受け入れることが
すごく難しそうに見えます。

「誰かの役に立つこと」

それは人生で、大切なことなのだけれど

「誰かの役に立てなくなったこと」
は、
その人の価値を失うことではないと私は思うのです。

それを理解してもらうには、
話を聞くことと
やりたいようにやってもらうことしか
思いつかないので、
やらせて!と言われたことは
やってもらっています。



大晦日も、義母のフラッシュバックは訪れ

私は結婚してから 300回は聞いて来たと思う
姑や親戚への怒りのストーリーを
また聞きました。

義母が怒りをぶつけることができるのは、
安心できる環境になって
消化しようといているからだ、と
理解できたことで
受け止め方は変わりました。

そして、私も
「子どもたちに聞かせたくない話ので
もーちょっと小声で話してもらえますか?」
と、義母に伝えることができました〜!

思ったことが言えるって、
幸せですねー😆

だんだん、義母は申し訳なさそうな雰囲気が薄れて来て、みんなで食事をするようになって来ました。

私も遠慮せずに行動出来るようになり
なんかもう、
夫の実家にいても、気楽にテレビを見て
オヤツをボリボリ食べています(笑)


新たな年がはじまりました。
今年も、ゆるりと過ごしていきたいと思います。


みなさまにとって、2022年が
幸せな一年でありますように。


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