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愛はじゃがいもではないから、窓から投げ捨てることはできない【明石さんの諜報飯大作戦】

  俺、明石元二郎のモットーはひとつしかない。

 ”働きながら遊び、働きながら飲む”
 
 飲み屋のあたりはずれ?そんなのはどうでもいい。まずくてもうまくても話のネタにはなる。けれど、どんな店でもひとり床に着いたとき、にやにやできるものがいい。ひとりさむい布団の中でも、群像にまじり飲み屋の卓子でつっぷし眠る夜でも、目を閉じたまぼろしとうつつのはざまで、希望に満ちた明日を夢見られるものがいい。
 諜報というのはどれだけその街に溶け込めるかが問題だ。飲み屋で酒を飲み交わして美味い飯を食う。それ以上にうってつけの場所がどこにあると思う?他にあったら教えて欲しい。

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006 愛はじゃがいもではないから、窓から投げ捨てることはできない

 実は革命志士(!)であった老夫婦も若い独り身だと僕を気遣い、食うに困るこの時勢だというのに彼らのじゃがいもを分けてくれた。
「転売用に仕入れたのだが、だめになりそうだからお前にやろう」
 ちょうど雇っているばあさんを帰らせたのと入れ違いに奴は来た。コサック帽にだぼっとした外套にくわえ煙草。素性を知らなければどこのやからかと追い出すのだが、この男は指先ひとつにも気をぬかない。これも彼の仕事の”制服”のひとつなのだろう。こいつは
「自分で食えばいいじゃないか。お前ポテトのサラダ好きだろう」
「それにしたって窓から投げ捨ててもいいくらいあるんだ」
 だ、そうだ。考えてることはよくわからんが、とにかくさっさと立ち去りたそうだったので押し付けられるままに受け取った。雇っている老婆に少しやろうか、あと世話になってるギェスティアのおやじにも——
 鉄枠の錆びた窓のそと、明るい夜に負けずと団子みたいなまんまるの月が浮かんでた。よい月夜だ。
「ほんじゃあ、飲みに行くか」
 じゃがいもを上着のポケットに入れてみたが、ふたつと入らない。仕方ないので床に落ちていたシャツに五つばかりつつんで部屋を出た。
 センナヤ広場のほうに歩いてゆくと人が増えて、仕事を終えた職人の酒飲みどもに五歩進んではぶつかった。シャツのしばりがゆるかったのか拍子にじゃがいもがころりと転げてゆく。拾って顔をあげた所には屋台やその前に出されたテーブルでは白い息を吐き吐き正月と葬式がいっぺんにきたみたいに泣いたり笑ったりしている。なんだかいいなあ、と思いつつ気になるのは食事の内容。文字通りウォトカをがばがば水のように飲む男の間から覗き見えたのは黄色っぽくて丸いパンだかドーナツみたいなものがあった。それがうまいのかまずいのかわからん顔つきの髭男たちにむしゃむしゃ食われてゆくのだ。あんまりつまらなそうに、けれどものすごい勢いで食べてゆくので気になって仕方ない。うまくてもまずくても、食べたことのないものは試さなくてならない。
 近づくと縄張りを荒らすなとばかりに鉄仮面たちが商人の親父と僕の間に分厚い壁をつくる。そんなものでめげるわけがない。こちとら福岡生まれたい。燃える酒飲み魂をさらに焚き上げた。何食わぬ顔で空いてるところに肩を入れる。そして何も言わずに男たちの食べているものに指さした。”こいつ、金持ってるんだろうな。”商人は怪訝な顔をしているが知ったことじゃない。どうせこっちはじゃがいも片手で現れた妙な日本人だ。なにをしたって今更事実は変わらないのだ。
「うちのカミさんにこっぴどく叱られてよう」
 僕のことを何人だと思ってるか知らないが言葉が通じないのだと決め込んだらしく、彼らは話を続けた。先に出てきたウォトカを一気に飲み干す。ウォトカだ。よかった、変な酒じゃなくて。
「おうおう。出てきゃいいんだそんな家」
「なんでったってそんなんになったんだよ」
「金ちょろまかして酒飲んでたのばれてさ。子供達はどうするんだいって言って怒って皿やらじゃがいもやら手当たり次第に窓から放り投げてさ。おっかなくて逃げてきたわけよ」
「捨てられたのがじゃがいもでよかったな。お前さんはまだ愛されるじゃねえか」
「さあ、どうだか」
 もうひとりの男が言う。どういうことだ。
「おい、今日は終いだ。帰った帰った」
 商人が鳩でも散らすように酔っ払いたちを払っていった。
「まださっき頼んだのがこないんだが」
「ああ、すまん。売り切れだった。ほれ、金は返す」
 コペイカ硬貨がばちんとテーブルに叩きつけられる。
 売り切れなら仕方ない、と思えるのは頭だけであって腹はそうはいかない。酒でつねくりあげられる胃の底から胃液が起こされた八岐大蛇のようにうねりあばれまくっている。
 逃げるように必死で酔った足を前に出し前に出し、街の至る所にある獅子の石像を横目に手近に食えるものがないかを探した。しかし時間が時間だけに屋台はすっかり道を去り淡い夜が街を亡霊のように浮かび上がらせて、ひとびとは溶け込むようにどことも知れずに消えてゆく。
 ふと、首に籠を下げた取手パン——カラーチ売りを見つけた。これにありつけなければ僕はロシアの淋しい仄暗い街角でじゃがいもをかじることになるかもしれない。生で。
「ひとつ、くれ……」
 ものをしまいきった商人は面倒くさそうにひとつカラーチを出すと、ずいぶんぬるくなってしまったタオルを巻いて凍ったそれをあたため……いや、かろうじて噛めるくらいにぬるくなっただけだった。まだ冷たい”取手”をつかんで受け取り、金を払う。ああ、やっとものが食える。口に運ぼうとした瞬間、すかっと手元が軽くなった。見れば残ったのは取手ばかり。肝心な部分はちぎり取られている。
 走り去ってゆくのは年端もゆかぬ指師の子だった。じゃがいもの次はパンにまで逃げられた。彼の手業は見事なもので、カラーチと僕の心までその子は奪い去っていった。しかし感動では腹は満たされない。どこかで野良犬が鳴いている。いや、男どもの喧嘩の声か。風が強い。枯葉が砂埃と一緒に巻き上がり、灰色の街をかすませている。
「ひもじい…」
 だが立ち止まっても天からにぎりめしが降ってきたりはしないのだ。なまりのように重い足をまた一歩出す。もうだめかもしれない。寝るな、寝たら死ぬぞ。一体なんでふところにじゃがいもなんて抱いてるのかわからなくなりながらやっと店に着き、扉に手をかけるとちょうど親父が立っていた。
「驚いた、アバズレーエフか。残念だが今日は終わりだよ。なんだか知らんが妙に忙しくてな。店は空っぽだ」
 なんという運のない日!
「親父、そこをなんとか」
「そうは言ってもなあ、明日どうするかこっちも困ってるんだ。ただでさえ食材が少ないってのに——なにかあまりもんで作れるかな。お前さん何持ってるんだ?」
「そうだ!いもだ!じゃがいも!これをくれてやりに来たんだよ!」
 たぶん、ロシアに来て一番大きな声を腹の底から出したと思う。空きっ腹に声がよく響いた。
「なんだこれ、汚ねぇシャツだな」
 ぶつぶつ親父は汗染みのついたシャツをひらきじゃがいもを出し、親指で撫でたりにおいを嗅いだりした。
「ふん、仕方ねぇな。入れ。ただ、時間はかかるぞ」
 急にこのひげづらだんまりぼてっ腹親父が可愛く見えて、ほおずりさえしてやりたくなった。
「気持ち悪い顔してねえで入れ。寒いから閉めるぞ」
 言うより早く閉じてゆく扉の隙間を急いですり抜け、カウンターのそばの椅子にすわった。マッチの燃えるにおいがつんとして、さっきよりも申し訳ていどに明るくなった店内に、地下だというのにごうごう風の吹く音が聞こえた。炭をにじませたような壁のすみっこでなにかが動く。ねずみだろうか。じゃがいもを煮てる間手持ち無沙汰になったらしく、ウォトカを持った親父がやってきて同じテーブルについた。いつもはほとんどカウンター越しにいるからものすごく奇妙な感じがする。
「アバズレーエフ、お前さんこれからのロシアはどうなると思う」
「……さあ、どうだろうな」
「どこもかしこも革命家たちの集まりばっかさ。けど、烏合の衆になにができるってんだろうねえ。猫にはおもちゃ、ネズミには涙。強いものたちの楽しみに弱いものたちは苦しむだけだよ」
「そうだなあ」
 知識階級の引っ張るナロードニキにポーランド系、党派はいくつもできている。
「誰が上に立ったっておんなじだがよ、にっちもさっちもならんのが一番居心地が悪いやな。さっさと爆発しちまえばいいのよ。どうせめちゃくちゃになるなら早ければ早いほどいい。そのほうが見通しがつく」
「だが、タイミングってのが肝心なんだよ」
「そうだな。ま、”必要は法など知らん”」
「なんだそれ」
「必要があれば誰が止めてもなんでも起こるってことさ。よし、そろそろ煮えたかな」
 親父は台所に入っていった。泣き言は絶対言わないという彼は根っからのモスクワっこだという。
「くっせ」
 ひますぎて魔がさして、シャツを嗅いで後悔していると親父がもどってきてがつっと皿を置きどかっと椅子にすわった。
「食ったらさっさと帰れ。俺も休む」
 と彼が出してきたのはちょうど屋台で食べそこねたパンだった。
「これ!これはなんだ!」
「じゃがいも団子だよ。コロボークのおとぎばなし知らないのか?小麦粉がない時にお袋に作ってもらったもんさ。転がっていかねえうちに食え」
「う、うむぅ」
  今日はよくわからない話をよく聞くな。腑に落ちないながらひとくち食うともちっとした団子のなかからじゅわっと肉汁がでてきた。この豚の脂身の甘さ、そして塩気。サーロだ!
「これ、ただの団子じゃない!サーロが入ってるじゃないか!」
「ああ、くずになったサーロがあったから包丁でミンチにして適当にまぜこんだんだ。うまいだろう」
「なんで適当でこんなにうまいものが作れるんだ」
「そりゃあモスクワの樹皮小屋広場あたりでたらふくうまいもん食ってきたからな。俺の舌に聞けば目をつむったってモスクワまでいけるぜ」
 親父、あなどりがたし。
「そのあたりと言ったら金持ちモソロフの土地じゃないか」
「別に金持ちだからとかそんなことに興味ねえよ。グルジアのジプシー向けの酒場にもよく行ったもんさ。モスクワのことで俺に知らないことはないぜ」
「そのモスクワっこがなんでペテルブルグに来たんだよ」
「うまいもんがねぇからさ」
 そんなこともないと思うが、まあいい。話を聞こう。
「店開いて、本当の料理ってのを食わしてやろうってやってきたんだ。ここはお行儀はいいが面白みがねえからな」
 ふむ。大阪人と東京人の戦いみたいなものだろうか、と想像する。
「よく嫁さんついてきたな。ロシア人は恐妻家だと聞くが」
「はは、喧嘩は腐るほどしたさ。けどな、じゃがいもじゃねえから窓から捨てるわけにもいかねえんだよ。愛ってやつはさ」
「そんなこと、他の場所でも聞いた」
「他にもあるぞ、”愛は過ぎ去り、トマトはしなびてしまった”とかな。はは」
 早く帰るとか言っていた割にはやたら上機嫌である。
「まあトマトだろうがじゃがいもだろうが、窓から放り投げようがしなびてようが食っちゃえばいいのよ。ウォトカがあって腹いっぱい食えたらみんな円満よ。そうもいかねえのがこの時世だが——ま、なんとかなるだろう」
「今度、故郷のモスクワのこともっと聞かせてくれよ。親父」
「おい、いいかげん親父なんてやめてくれよ。ギャリィって呼べ。俺とお前の中だ」
 モスクワっこは他人に厳しく冷たいと聞くが、どうやらその壁を打ち破ったらしい。
「ギャリィ、店じまいのとこ邪魔して悪かったな」
「いいのよ。久しぶりにモスクワの話ができて嬉しかった。こんな適当なもんだしたのはみんなには内緒にしろよ。評判が落ちる」
 対して変わらない気もするが、彼にもこだわりがあるんだろう。
「うまかったよ。また来る」
 どんなに離れても故郷の話ってのはいいもんだ。俺も明石元二郎として福岡の話をすることもあるんだろうか。
 この街に”壊し屋”を叩き込んでもギャリィの店、ギェスティアはきっと残ってくれるだろう。
「あふ……早く帰って寝よ」
 安心ついでに眠くなった。灰色の街に淡い月の光が染み渡る中ふらふら歩く。モスクワ、行ってみるか。ギャリィにおすすめの店を聞いておこう。
 壊し屋に会いにロシアを離れる前に。


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