004 風邪は胡椒とウォトカで治す
仕事が段落がつき、ほっとしたらサンクトペテルブルグの広場の空に、半月がぽっかり浮かんでいた。寒気がする。どこでもらってきたか、風邪をひいたかもしれない。
ぷぅっと煙草のけむりを吐くと寒さで白くなった息が立ち上って湯気のように月を包む。あれに似てる。東京の中華料理屋で食食ったことがある、あの、ほらなんだっけ。小麦粉をこねた皮の中に肉やらねぎやらを入れて……焼いたのと茹でたのがあって。
「なんだっけ」
あの味、あの匂い、形。頭の中にはっきりと浮かんでいるのにどうしても名前が出てこない。思い出そうとして記憶をなんべんもたどるので、もう頭はそれでいっぱいだ。
――腹が、減った。どうしてもあれが食いたい。
「ギェスティアの親父ならなんとかしてくれるだろう」
嫌な顔しながらも確実にこちらの要望に応える。それがあの親父だ。行きつけの店というのはいいものだなあ、と思う。
階段を降り、ずずっと鼻をすすりながら扉を開ける。親父は無愛想で首をぴくりとも動かさず、浜に打ち上げられた鯨みたいに目だけでぎょろりとこちらを見る。態度には出さないがその瞬間、親父はすべてを掴み取る。客がどれほど腹が減っているのか、どれくらい酒に飢えているのか(つまり、どれくらい金をこの店に落とすか)。酒癖はなにか、泣くのか殴るのか。我が軍のスパイにでもしたいくらいの観察力。それが飲み屋の親父。そしてなにも言わずにおもむろに、親父はウォトカのボトルとリュムカという小さなグラス、それに胡椒の瓶を取りカウンターに置いた。
「これで治る」
ウォトカがリュムカに注がれるとすっと蒸留酒特有のさわやかなにおいがした。
「二杯は飲め」
金を払うのは僕なんだが――どうせ飲むからいいけれど。と、進められるままに立て続け飲む。
「おいおい!久し振りだな、アバズレーエフ!」
粗雑な声の聞こえる方を向くと、まず一番に大きな腹が目に入った。ボレアスだ。
「ああちょっとやることが多くてな」
「お久しぶりです!」
その腹の後ろから若い男の子犬の鳴くような――イアソンの声が聞こえた。何度か会ったことのある、きさくな良い青年だった。日本人に興味があるらしく、初対面からよくしゃべる印象があった。ロシア人には珍しいかもしれない。彼に向かって柄にもなくほほえみ返し言った。
ボレアスはいつも通りウォトカを、イアソンはクワスを飲んでいる。テーブルには、おなじみのシチーやウハー、それと黒パン、サーロが並んでいた。店の親父のおかげで体があたたまってきた。喉の痛みも消えていて、風邪菌もアルコールで消毒されたようだ。
「どうだ、最近仕事は」
挨拶がわりにカチンとグラスをぶつける。
「まあまあだ。忙しくてもやることはかわらん」
他の飲み屋で活動家から聞いた話だが、レーニンという男が鍵になりそうな気がしている。彼はマルクス主義革命党に参加し労働解放団と手を結ぶと扇動罪で捕まった。東シベリアでの刑期を終えて今はスイスに亡命したとか。シベリアか――天も凍るほどの雪の中、ヘラジカの角が白い冷たい太陽を包む。
が、瞬間、南天ごとく赤い血の粒が雪の上に飛び散るのだ。そして彼は神の御使いでなく、人間を生かす糧になる。焼ける鹿に染み込む焚き火の匂い。脂が落ちるたびに木が爆ぜて火の粉を散らす。頃合いになるまでじりじりとほおを炎に照らしながら酒を飲む。ごくり。
「忙しいのは結構だけどよ、体大事にしろよ」
妄想にぼうっとしていた僕を心配したらしい。ボレアスがシチーに黒パンを浸しながら言った。
「イアソンは?」
「俺は転職してからやっと落ち着いたって感じです。これからこの国がどうなるか、わかんないですけどね。生きてゆかないと」
「うん、そうか」
グラスに口をつけながら僕は言った。ここではただの人でありたかった。諜報員でもない、ただの飲み屋好きの親父でいたかった。
「そういえば…」
イアソンが黒パンに伸ばした手を止めて、話を始めた。
「昨日かな?日本人がここにきたよ。誰かを探しているみたいだったけれど…」
「日本人が?どんな?」
軍の関係者だろうか…。でもそうしたら、必ず先に連絡があるはずだ…。
「白いひげを蓄えた、鼻の横にほくろのある男だったよ。アバズレーエフ、知ってる?」
そんな適当な説明では、似たような人物ならごまんといるだろう。でも……
「うぅん、知り合いに似てる気もするが、」
その説明で思い当たる人物が確かにひとりはいる。
「へえ、探してたのって君だったのかな。会えたらいいね。きっとまたここに来るよ」イアソンはにっこりと笑い、
「うん、そうだな」
と僕は返した。
『我々の友情のために』
数えきれぬほどグラスを鳴らし、今宵も締めくくったのはその言葉だった。しあわせだ。小さな、いつ消えるともしれない。
それは思ったよりも早くに消えた。ひどい頭痛で目が覚めた。治ったつもりだった風邪が悪化したらしい。店から部屋に戻るまでの記憶がうろ覚えである。もはや二日酔いなのかなんなのか。
「しまったなあ…」
今日とて歩き回らんわけにいはいかぬ。重い体を起こし、ぐしゃぐしゃとそこにあったシャツで汗かいた顔をこすった。
コンコン
と、誰かが戸を叩いた。
「はい」
「あんたに手紙だよ」
同じ建物に暮らす家政婦の老婆の声だ。
「扉の下にでも置いておいてくれ。今、すぐ出られないから」
「ほらよ」
すっと、床と扉の隙間から手紙が差し込まれる。
「一体誰からだ…」
頭をぽりぽりと書きながら手紙を拾い、封を開ける。
『先日訪ねたが居られなかったので、今度は会う約束をしたい。本日、ギェスティアにて夜八時頃待つ。 伊藤』
「!」
思わず目が点になる。昨晩の酒場での話と伊藤という苗字が完全に合致した。 白いひげに鼻の横にほくろ、そしてこの手紙。
「間違いなく、伊藤博文……」
我に返って時計を見る。さすがにまだ朝の十時だ。窓の外も明るい。
「そうか、ついに来られたか……」
頭痛は吹き飛んだ。さっき手ぬぐいにしたシャツを着て、今日の用事を早々に片付けるため外に出た。
途中で他の酒場の飲み仲間、ゲルミエスから飲みに誘われたが、また今度と断った。彼はこの町の情報屋で、エスエル党―社会革命党にも詳しい人物だ。それだけでなくフィンランドやポーランドのやつらともつながっている。いつもなら食いつくところだが、今日は最後に一番の大仕事が待っていのだ。
あらかた用事を済ますと一旦部屋にもどり、気持ちを落ち着けるために筆を取る。この時間が一番、僕を僕自身に戻す大事な時間だ。二、三歌ができた頃ふと見た窓の外には菫色の空と濃藍の真ん中、夜と昼のはざまに白い道ができていた。透き通って空の裏側まで見えそうで、とても寒そうだった。
そして 帽子を目深に被り、コートを羽織ると俺は大衆酒場ギェスティアへと向かった。
扉を開けてすぐその人――伊藤博文を見つけた。あんまりにも見慣れない景色でまぼろしかと何回も目をしばたたかせた。
洋服を少し着崩していて、普段の軍服姿とも着物とも違う雰囲気である。彼も僕と同じで格好に頓着する方ではなかったが、どんな格好をしていてもそこそこ綺麗に見えるタイプだった。その軟派とも硬派ともない魅力が女にもてる所以だろう。
「おう、明石。会えてよかったよ。手紙を読んだか?」
「はい」
彼はカウンターを背に寄りかかり、俺の方を向いた。
「相談があってロシアまでお前に会いに来たんだよ。まあ、まず、飲むか。この店で一番強い酒をくれ」
彼は僕以上に酒を飲む。そして無類の女好きでその激しさには明治天皇すら口を出す。『英雄色を好む』というのは、本当らしい。
ウォトカを二杯と、あとつまみをいくつか見繕ってくれと店の親父に頼んだ。
「相談なんて、珍しいですね。まして僕に」
ワンマンであるわけではないけれど、どちらかというと自分で決めてどんどん動いていくのが伊藤のやり方だ。 彼はコトッと持ち上げかけたグラスを、テーブルに置き直した。
山縣有朋との交流の方が深い僕に相談とは、よほど行き詰まっているのかもしれない。山縣さんは天皇主体の君主政治にこだわり、彼が目指しているのは政党政治だ。今までロシアと交渉を続けてきた彼を差し置いて山懸さんが日英同盟を集結したのはつい一年前のことである。
「うん…」
それ以上は何も喋らず、彼はじっとテーブルの木目を見つめている。
「はい、お待ち」
親父が前菜のザクースキを持ってきた。神妙な空気を感じ取ったのか、今日は軽めに、キャベツの酢漬けとウハー―魚のスープと、それからいつもの黒パンを数切れ。馳走というわけでもないが、ロシアの酒場を味わうにはとてもよい。 腹一杯過ぎても頭が重くなりそうだしちょうどいい。
しかし伊藤は置いたリュムカに手をかけたまま微動だにしない。
「伊藤さん、せっかくの暖かいスープが冷めてしまう。今夜は時間があるから、ゆっくり飲み食いしながら話しませんか。なんの相談事かはわからないけれど、でも、まず体を温めた方がいい。ロシアは寒いでしょう」
「うん、そうだな。そうしよう」
彼が一番に酒を飲まないなんて、どうしたのだろう。なんて思いながら彼のグラスをぶつけた。我々の友情に、は、心でつぶやいた。ぐいっと日本酒を飲むように伊藤はウォトカを飲み干した。飲み方としては正しいが、度数が違うのではらはらしてしまう。
「あぁ…これがウォトカか。『火酒』なんて言うだけある。ぐっと、胃の底が熱くなる。こりゃあいい」
伊藤の声が一段高くなる。
「これはなんだ、キャベツの漬物か。これは…魚のスープか?おお、出汁がよく出ていてうまいな」
ウハーが気に入ったようで、にこにこしながら追加したウォトカをくいっと飲んだ。伊藤は独り言のように料理の感想を話し切ると突然黙り、
「私は、ロシアとの仲に先に手を打った方がいいと思う」
急に本題に入った。はっとして身を乗り出す。いくら日本語で話されているとはいえ、どこで誰が聞いているかわからない。
「山縣くんの言っていることも重々承知だし、気持ちもわかる。しかし、むやみやたらに相手を煽るような作戦はいかがなものかと。もう少しやり方があるんじゃないかと。力での押し合いは、そこで勝ったとしても、いずれ同じことでやり返されてしまう」
伊藤は、酒に酔った赤ら顔で揚々語る。
「ふむ……」
つまみをつつく彼から店の奥に目を移し、僕はグラスに残った酒を空けた。視線を戻すと、まだ同じ体勢でため息まじりにテーブルの木目を見つめていた。
僕はこの男のことも嫌いではない。立場をさて置くことができるならば、彼の話をただ「うん、うん」と聞いてやりたいところだ。
―けれども、そうもいかないのだよな…。
どう返事をしようか考えている途中で、注文していた残りの料理がやってきた。
「む、なんだ、これは。すいとんみたいだが、中に何か入っているのか?」
満月のように丸く、ぷりっとした見た目のそれは、ゆでたてでほかほかと湯気を出している。あれ、これって。あれに似てる。
「親父、これは?」
「ペリメニ」
親父は無愛想に新聞から顔を上げずに言った。僕はひょいっと一つ口に放り込んだ。
「あふ、あふ…」
思ったより熱く口の中で冷ましながらやわやわと歯で少しずつ噛んでいくと、もっちりとした生地の中から肉汁がじゅわっと溢れ、口の中に広がった。
『うまか!』
脳天に雷が落ちたようだった。叫びたいくらいだが、熱いやら味わいたいやら複雑に想いが交錯して言葉にできない。
伊藤も生唾を飲み込み、たまらない様子で俺に続いた。
「ど、どれ。腹が減ってはなんとやら…いただきます」
自分の皿に三つほど取り分けると、ふうふう、と冷ましながら、一つ口に運ぶ。
熱さに警戒し、伊藤はすこし顔をしかめながらゆっくり咀嚼する。
「うまい!ああ、餃子に味がそっくりだな」
――それだ!餃子!
形こそ違うが僕が昨日食いたかったのはそれだ。ペリメニって言うのか。ズボンのポケットから紙切れと鉛筆を出して急いで覚え書いた。伊藤は夢中で二、三つと口に放り込んでゆく。
「うんうん。すばらしい。親父もう一杯だ!」
ご満悦らしい。伊藤はにこにこしながら、ウォトカを一気に飲み干し、おかわりを注文した。
「ロシア料理に温かいものは数が少ないんですよ。温かい料理というのは、ここでは特別なんです」
ロシアではペチカという暖炉のようなものが、なにかを煮炊きするための調理器具としても使われている。日本でいう囲炉裏や火鉢みたいなものだ。ペチカの余熱でじっくりと煮込まれたスープは、胸の内側からあたたまるから好きだ。
いつのまに頼んだのか、ウォトカと一緒にペリメニがもう一皿やってきた。今度は、添えられたスメタナ――これは牛の乳を発酵させたクリィムで、ハーブのディルを少し乗せて食べる。ほろ苦いディルのさわやかさで一気に多国籍感が増した。
スメタナの酸味と乳製品のまろやかさが肉汁と相まってコクが出てディルがそれを引き締める。今まで食ったことがなかったなんて驚きだ。店主が無言でもう一皿なにか運んできた。
「これ頼んでないぞ」
「サービスだ。コトレータだよ」
親父はギョロ目のまま口元だけで笑った。
彼にとっては満面の笑みなのだ。たぶん。
コトレータ。それは丸く、揚げ焼きしたような狐色の焼き色がついていてぐっとくる。「こりゃ”ころっけ”に似てるな」
「確かに」
伊藤に完全同意。
ナイフで半分に切るとさくっと音がした。中は赤身肉のようだ。サーロのような塩漬け肉ばかりをつまみにしていたので、調理された肉はなんだか新鮮だった。
――なんの肉だろう。
小さく切って口に運ぶ。
「む」
味は赤みの上品な味がする。しかし、しっかりと脂身の旨味も同時にある。家畜の肉とは違う、ジビエのような癖のあるいい味わいでである。かりっとした表面の食感もたまらない。ウォトカがすすむ。
「コトレータ食うの初めてか?」
うんうん唸りながら食う男二人が面白かったのか、珍しく親父が話しかけてきた。
「ああ、初めてだ」
「トナカイの肉が手に入ったから久しぶりに作ったんだ!うまいだろう」
「トナカイなのか!」
驚きの声をあげたのは伊藤だった。
「どうりで鹿に似てるはずだ!でも赤身肉にしては脂身も多く感じるがなぜだ?」
彼が質問を投げかけると、さらに店主は得意顔になった。馬が合うらしい。
「ラードを混ぜたのよ!トナカイの肉はそのままでもうまいけれど、赤身であっさりしすぎる。そこで、ラードを混ぜてミンチにして、それでパン粉をつけて揚げ焼きにする。そうすれば火をしっかり通してもパサつかないし噛んだ時の食感も、口に広がる肉汁の旨味も増すんだ」
トナカイは安全だとは聞くけれど、やはり用心するに越したことはない。よほど新鮮出ない限り、もし、食べるとすれば入念に加熱をするべきだ。しかしそうすると、どうしても肉の水分と旨味が蒸発し、ぱさぱさとした食感になる。それでラードを足すのか。もともとの素材の味とは変わってしまうだろうれど、また新たな味わいが生まれる。まさにメインディッシュ!大満足だ。
「明石くん!これはうまいぞ。鹿でなくトナカイとは。初めて食った!こんな食い方もあるのだな。ロシア料理も奥が深い」
伊藤は食い盛りの青年のように、よく食べ、よく飲んだ。コトレータ、ウォトカ、コトレータ。口休めにウハーをすする。黒パンを浸して食って、そしてまたウォトカ…。
いままでゲスティアで食べた中で一番豪華な食事かもしれない。
「明石くんよ、食い過ぎたよ。もう、大満足だ」
「俺もです…」
「ロシア料理は味付けがシンプルだと聞いたが日本人に合うな。その分長くゆっくりと酒と食事を楽しめる。その分、長く、仲間と話ができる」
「確かに」
張り裂けそうな腹にウォトカを流し込む。するとぼっと胃に火が点いていくらでも食えてしまう気がする。まいったな。
黒パンに手が伸びかけた時だった。
「私は、操り人形だよ」
ぼそっと、伊藤がつぶいた。最初なんのことかと思った。
「今の内閣は、山縣くんのものだ。どう私が外遊で目立っていたとしても、蓋をあければ隅々まで彼の手が行き届いている。君だってそうだろう。明石くん」
僕はどう答えていいか分からず黙った。
「はは、知っていてここに来たんだ。黙ることはないよ。操り人形にも意地があるし、俺は好きにやらせてもらうよ。同朋の邪魔をしたいわけじゃな。公平でありたいだけだ。だから、言いたいことも言わせてもらう」
ああ、彼は山縣・ロマノフ協定のこと言っているのだ。
「山縣くんは外国語ができないからなあ」
伊藤は気さくに笑った。諸問題、特に女絡みのものには閉口するが、実は付き合いやすい男なのだ。
もうなにも入らないはずだったのに、更にたらふく食って、たらふく飲み、僕たちは店を出てそれぞれの寝床へと戻った。
――時代や立場が違えば――。
と、さまざまな場面で思うことがある。
もし、時代が違えば、伊藤博文とも、レーニンとも、留学生の上田くんとだって、もっと気兼ねなくわいわいと、ああでもこうでも適当に議論を吹っかけ合いながら酒を飲めたに違いない。軍のやつらだけではない、ここ、ペテルブルクで出会った、ボレアスやイアソン、ライリーとだって。
ただ、時代が、我々を引き合わせた。それに変わりはない。
僕は諜報員、明石元二郎だ。
なによりも忘れてはいけないのは、どこにいても誰といても、きちんと目の前に立つその人に向かい合うこと。それが明日の友であれ、敵であれ。
大事なことはすべて母が教えてくれた。
そんなことを胸の内で反芻していると、いつのまにか眠りに落ちていた。
目を開けると、またまぶしい朝がいつのまにかやってきていた。
さあ、今日はなにして楽しもう。
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