地続きのロシア
まず、まったく関係のないことだけれど、スクリアビンという名前(SCRiaBin)はスカルボ(SCaRBo)とおそらく語源が同じだ。5番ソナタが作曲された1907年はディアギレフがパリでロシア音楽のコンサートシリーズを始めた年でもある。ということは、スクリアビンはこの年にパリにいた可能性があるのだけれど、そのあたりはモヤモヤしたままだ。その翌年、ラヴェルは「夜のガスパール」を作曲した。
ロシア音楽について書く、ということが自分にはとりわけ難しいことのように感じている。
まず、国の形がわからない。
ドイツやフランスだと分かっているのかと言われると、それはもう何とも言えなくなってしまうけれど、ロシアの場合は距離の感覚が自分には圧倒的に足りない。ワーグナーとの距離、リストとの近さ、ポーランドとの溝、スペインとの懸け橋…。ロシアっぽい音楽と思って口ずさんでみると、なぜかスペインの音楽になってしまう現象、名前はまだない。何かがおかしい。
でも、文章を読むと、ロシアという文字にピントがすぐに合う。
例えば、サバネーエフ著「スクリャービン」(森松晧子訳)の中にある、スクリアビン(S)とその先生タネーエフ(T)との以下のような会話の中にも、「ロシア」がそれ以外にはあり得ないイメージで立ち上がってくる感覚がある。
入り口のドアに警告が記されていた―「タネーエフは不在」
しかし我々はこれが一般客のためのもので、我々には無関係だと知っていた。タネーエフは我々を迎えた。
タネーエフとスクリャービンは繰り返し頭を下げ、向き合って長い間立っていた。やがてきまり悪げに、タネーエフが宣言した。
T:ところで、私は確かにあなたの音楽が好きではない。
S:知ってますよ、先生。
T:違います。嫌いなのではなく、耐えられないのです。
S:ええ、知ってますとも、先生!あなたがお嫌いで、耐えがたいと思っていらっしゃることを。
T:ええ、耐えられないだけではなく、あなたの音楽を聴くと吐き気がします。
S:ですが、先生、それはちょっと思いやりがおありでない。
T:どのように世界の終わりを準備するのです?
S:どんなことを申し上げようとも、決して同調しては下さらないでしょう。
T:同調したいが、まだ自分の頭は健全だ… 世の末を望まないとすれば、どうすべきなのですか?どこかで身を守る必要がありますね?
S:先生には、それは存在しないでしょう。
T:さっぱりわからん。これは騙しだ。だが…発光装置を作ったのですか?
S:いいえ、初演には光線を用いません。装置は高価だと分かったので。
T:すると光も世も終わりですな!!
スクリャービンがどんなにタネーエフを愛していても、彼と会って、音楽や自分の理念について話をするのを避けた。スクリャービンはタネーエフ同席の場では自分のからに閉じこもり、魅力のない普通の人間に変わった。
ドストエフスキーと地続きのロシアが、たちどころに目の前にあらわれる。
ヨーロッパにおいてはとっくに終わってしまった何かが、ロシアではつい最近までまだうごめいていたのではないかと感じている。今と切り離された過去ではない、地続きの大陸が深い響きの奥から姿を現すのではないかと、その時間の到来を待ち望んで、耳を澄ませている。
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「A.スクリアビン」
2021年7月13日(火) 20:00開演
ピアノ:松本和将
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