生と死の狭間で思うこと
2019-11-10
こんなタイトルを付けちゃうと、重い話?なんて引かせてしまうかもですが、もっとライトな話です。
今日は、乳飲み子を連れた若いご夫婦が来店。
たまに元気な声を上げる子どもに対し、周りのお客さんに気を遣っている雰囲気のご夫婦だったけれど、割といつも、キートスのお客さんはそんな子どもにも優しいお客さんばかりで、本日も終始穏やかな時間が流れていた。
子どもを見てて思い出したのが、以前、乳児を持つ友人言っていたこと。
こんなことが出来るようになったとか、あんなことが出来るようになったと次々嬉しそうに教えてくれて、毎日出来ることが増えていく、子どもに対して日々発見があって、面倒を見ていて飽きないと。
そうだろう。乳児は希望や可能性に満ち満ちている。今は歩くことも話すことも一人でごはんを食べることも何もできないが、これからどんどん出来ることが増えていく。
そして考えたのが、その真逆の人々。つまり老後を迎える(た)人々。自分の親などの世代がこれにあたる。
いろんなことが出来なくなっていく。
今現在は健康で健在であるが、確実にそういった老後はやってくる。そして自分にも。
しかし、それは定めであって理り。
多くの人は、このように尻すぼみになっていくことに対して、悲しみ、暗い気持ちになってしまうのかもしれないけど、年をとること自体は先の乳児と変わらないのだから、もっといい感情で捉えるようにしてはどうだろう。
例えば卒業とか。
■ 洗濯物がたためなくなった→洗濯物をたたむことから卒業
■ 歯が無くなった→歯を使うことから卒業
■ 字が読みづらい(目が見えにくい)→目を使うことから卒業→もう目で見る必要はないのだ!
■ 耳が遠くなった→耳を使うことから卒業→もう耳で聞く必要はないのだ!人の話も誰の話も。
■ 歩くのが困難になった→足を使うことから卒業
→もう歩く必要はないのだ!
数々のやるべき事からの卒業。なんと晴れがましいことだろうか。
こう書くと、だんだん悟りとか解脱とかのほうへ向かっているような気がする。
はっ、これは仏教。
仏教ってすごいな。今さらながら気づいてしまった。。
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