見出し画像

シャリの記憶

その握りを頬張った時、無性に懐かしくなった



個人的にお鮨は一口で食べる物だと思っている

その方が粋だとか、嚙み切ったら汚いとか
細かいことをうだうだ言うつもりはないが
とにかくそう思っているのだ

よって握りも軍艦ものも巻物もを1口で食べている


この10年、鮨業界は幅広くそして深くなった

わかりにくい書き方をしてしまったけど
幅とは『値段』のことで
深くとはその値段で食べることができる種類が増えた
と捉えてもらえればありがたい


例えば10年前の回転寿司ってもっと
値段も種類も限定的だった

100円 200円 500円くらいで
種類もさほど変わり映えなく
『回転寿司』としてひとくくりにできるものだった

それが『回転寿司』の中でも大きく
ジャンル分けが進み
少なくとも『回転寿司=安かろう』
ではなくなった。

特に値段設定も10円単位で小刻みになったし
その中でも1皿150-300円のお店の変化が激しい
ネタの種類が増えたし

それはハンバーグ軍艦があるとか
うどんやラーメンが食べられるってことではなく
(それもそれで大ごとだけど)

鮨そのものの質も間違いなく美味しくなっている


その一方で
『リーズナブルな高級鮨』
なお店が増えた 


って、リーズナブルな高級鮨って矛盾してる?


まぁいいか


最初は東京ではない立地、地方で見かけた


東京のお店で修業した人が
地元だったり食材に惚れこんだり
東京からでたかったり
はたまた単純に家賃と原価が安いとかで
地方で開店したようなお店
これが2008-2010年あたりかな

都内だと2-3万近くするおまかせが
7000円-1,5万で頂けた


ちなみにこんな文書いているが
鮨の変遷にはまったく詳しくない(笑)

あくまで勝手に感じたことをツラツラ書いている


はじめは地方でみかけた
『リーズナブルな高級店』

それがだんだん『東京』との距離が
少しずつ縮まってきて
気が付けば都内にも普通に存在するようになった

その結果鮨はもちろん
提供スタイルだったり
お酒だったり
カウンターデザインとかを
お鮨の伝統を土台にして
それぞれのお店が創意工夫を凝らしはじめ
値段も5000円しないお店もでるようになった


このあたりのことをひっくるめて
『鮨業界は幅広くそして深くなった』
と表現したのだ



その変遷でひっそりと少なくなったものがある

それが『街のお寿司屋さん』


飲食はどこかのタイミングで
値段の両極化が起こる業態だ

例えばラーメン業界だったら
醤油ラーメン380円しない日高屋さんが安い方で
こだわりの個人店で一杯800円からのお店が高い方だし

コーヒー業界だったら
ベローチェやドトールが安い方で
自家焙煎して一杯ずつ淹れるお店が高い方になるかもしれない


その『両極』の間に位置するのが
街のラーメン屋さんだったり
街の喫茶店といった
昭和からある『街の~』なお店なのだが
これが『両極』に挟まれて少なくなっている


そしてこれは鮨業界にも言えることで

リーズナブルでエンターテイメント性に強い回転寿司
確かな技術に創意工夫を凝らした表現が魅力の鮨が台頭する中
『街のお寿司屋さん』が減ったと思う


この昔からある街のお寿司やさん
いろんな定義があると思うけど
個人的には

『頬ばれるほどのシャリの大きさ』

であることをあげたい


そこで冒頭の一文

『その握りを頬張った時、無性に懐かしくなった』

に繋がる


そこでいただいたお鮨は
『頬張った』
という食感があったのだ

そこで気づく

『最近お鮨で頬張ってなかったなぁ』

と。


細かいことを言えば
大きいネタが売りのお鮨やさんに行けば
それはそれで『頬張る』けど
それってなんか違うじゃない?


回転寿司も高級鮨も多種多様になったけど
『シャリが大きい』
お店って無かったと思う。

頬張ったことがなかったもの。



原価の問題だったり
オペレーションの機械化によるものだったり
ネタとのバランスを考えて
握りを突き詰めた結果自然とそうなったり
理由はそれぞれなのだろう
それはそれで美味しいしね


ただ『シャリが大きい街のお鮨』
ってのも1つの文化なので
無くなってしまうのはちと寂しいし心配

 

 

 

この帰り際に

『こちらのお店いつからあるのですか』

と聞いたら

『平成元年からでですよ』

との答えが返ってきて
その開店年数の長さに驚く


当たり前のことだが
良いお店はスタイルがどうであろうが続くのだ

無くなってしまうなどと心配するのは
お店にも文化に対して失礼だったかもしれない


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?