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芋虫の糸
標高1000mの峠にある、木の香り漂う日帰り温泉施設がわたしのお気に入りの温泉。
ある日、青空の下の野趣あふれる露天風呂にてゆっくりと疲れを癒したあと、内湯に移動して「さて、そろそろ上がるかなー」と腰を上げながら傍に置いていた手ぬぐいを掴んだ瞬間、ピタリと手が止まった。
真っ白な手ぬぐいに、1センチほどの黒っぽい筋が付いている。そして動いている‥‥‥。
げげげ。芋虫! どうやら露天風呂から連れてきてしまったらしい。
芋虫毛虫が苦手なわたしはとっさにそのまま浴槽脇の床へ払い落としてしまった。小さな黒い生き物は、湿った床の上でもぞもぞともがいている。
(どうしよう。このまま放っておくと湯船に入っちゃう可能性もあるし、誰かが踏むかも‥‥。小さいとはいえ自分だったら知らずに裸足でコイツを踏むのは絶対にイヤ。だけど気持ち悪くてできればもう関わりたくない。よし、お湯をかけて流してしまおう! 後は知らない!)
と思ったその時、目の前を浴槽に入ろうとする人影が横切った。
見ると、ずいぶん腰の曲がった色の白いふくよかなおばあさん。皺だらけなのに福々しい白い顔、赤みがさした頬、そして菩薩のように穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。
湯気の立ち込める薄暗い浴場で、おばあさんに小さな芋虫が見えるわけはなく、おそらく浴槽の縁から妙な体勢で床を凝視しているわたしのことを「この人は何をしているんだろう」と見ていたのだと思うけれど、その表情があまりに菩薩的慈愛に満ちていて、まさにこれから芋虫を抹殺&放置しようとしていたわたしは急に罪悪感にかられる。
大いなる善の存在に見られている気分になってしまったのだ。
おばあさんはそのまま通り過ぎるとすぐに湯船へと入っていったけれど、心改めたわたしはさっそく芋虫救出作戦に出る。
芋虫を手ぬぐいに乗せて露天風呂の植え込みへ連れ出そう。
さながら『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)でカンダタを助けようとする釈迦のような気分。
ところが、床で迷いあぐねるように這う芋虫の前に手ぬぐいを置いて登らせようと試みるも、芋虫は眼前の手ぬぐいを察知すると避けてしまう。何度やっても同じ。そうやってグルグルと同じところを回り続ける芋虫の後を追って、わたしも湯船の縁で繰り返し芋虫の前に手ぬぐいを置き直す。
湯に浸かったまま、苦手な虫の動きを見つめ続ける不快感を押し殺して助けようとしているので、さすがに疲れるしのぼせそうになり、(もういいや、流してしまえ!)と諦めて投げ出そうとした時、近くに視線を感じてふと顔を上げた。
すると、さきほどのおばあさんが、わたしのすぐ左後ろ約1mの至近距離で、湯に浸かりながらじっとこちらを見つめている。近い!
そしてその表情は、どこを見ているのかわからない、貼りついたようにピクリとも動かないアルカイックスマイル。
え、もしかしてさっきからずっとそこで見ていたの?
間近でしっかりとこちらを捕らえているその何やら尊い空気をまとった存在に気圧され、わたしは再び心を入れ替えて芋虫を救うことにした。
芋虫の前に手ぬぐいを立ちはだからせ、「おい芋虫! この壁を避け続ける限り、君に希望は無いんだよ。目の前の壁から逃げるな。乗り越えようとしてみたまえ」と念じる。
すると驚いたことに、ついに芋虫は手ぬぐいに頭をひっかけ登り出した。すかさず拾い上げるように手ぬぐいを持ち上げたわたしは、そのまま静かに素早く浴槽を出ると、芋虫を落とさないように気を配りながら露天風呂コーナーへ移動し、草木の植えられている土の上へと芋虫を落とした。ハイ、救出成功。
やれやれ、と思いながら内湯に戻ったわたしは、さきほどの菩薩おばあさんを探した。
ところが、内湯にも洗い場にも、おばあさんの姿はない。露天風呂から戻る際にもすれ違わなかったし、すぐに脱衣所に行ったけれど、そこにも居なかった。
お風呂はかなり空いていたし、何よりおばあさんは腰が曲がって足が悪そうだったから、見つからないはずはないのに。
あのおばあさん、やはり何か不思議な存在なのか、もしくは実はものすごく俊敏なのか?
おばあさんについては謎のままだけれど、「小さな芋虫を見殺しにせず逃がした」というこの行いのおかげで、もしわたしが地獄に行った時に助けてもらえるといいなあ。
その時は必ず、カンダタのように自分だけが助かろうなんて、思わないようにしなくては。
だけど地獄に差し伸べられる救いの糸が、「芋虫の糸」だったらちょっと嫌かも、などと一抹の不安を抱きつつ、湯船にてあの世への思いを巡らすわたしです。
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