Cadd9 #30 「ふれてはいけないやせ我慢」


クリスマスが過ぎ、年越しを迎え、新年の慌ただしさがようやく落ち着く頃になっても、その冬は雪があまり降らなかった。刺すような冷たい雨ばかりが続き、厳しい寒さがまるで幽霊のようにじっと街に居着いていた。


昼休みに音楽室で樹とギターの練習をするのが、その頃の直の日課だった。樹はたびたび、直の上達具合を褒めた。


「俺よりずっとうまいよ。直には音楽の才能があるんだな。俺なんか二年近く本気で練習して、やっと今くらい弾けるようになったのにさ」

と、樹は驚きつつも悔しそうな顔で言った。

「でも、樹はピアノも弾けるし、歌もうまいし」

「ピアノはちょっとしか弾けないよ。それだって、もしかしたらお前のほうがすぐに上達するかもしれない。ピアノもちょっとやってみるか?」

「ううん。俺はギターのほうが好きだから」


樹とふたりで練習するうちに、直は一曲、また一曲と、演奏できる曲が増えていった。シャンテルズのメイビーや、コモドアーズのイージー、イーグルスのデスペラード。いずれも知らない曲ばかりだったが、樹から教わるうちに好きになった。


さだまさしの「雨やどり」を、ふたりはよく演奏した。ふたりでギターを弾き、樹が歌う。一度、ミナミを音楽室に呼び出して聞いてもらったこともあった。

直はミナミの前でギターを弾きながら、「雨やどり」の歌に登場するふたりを、空想の中で樹とミナミに置き換えた。その情景は、過去の記憶のように鮮明に頭のなかに浮かんできた。そして空想すればするほど、直の胸は痛んだ。


樹とミナミは恋人同士だ。ふたりはそのことを進んでまわりに明かしているわけではなかったが、隠そうともしていなかった。どちらにしても、大人びた雰囲気を漂わせ、校内で何かと一緒にいることの多いふたりの関係は、誰が見ても明らかだった。樹とミナミは美男美女で、成績優秀で、スポーツ万能で、性格もふたりそろって竹を割ったような正直者だ。ほかの生徒にとっては憧れの的にちがいない。もちろん直もそのひとりだった。


でも、ミナミは知っているんだろうか。直はギターを弾きながらそう思う。

樹が毎朝、決まってなぜか裸足で庭先に出て、太陽の光を浴びながら歯を磨くことを? 眠る前、布団の中で本を読み、しょっちゅう本を片手に持ったまま朝を迎えていることを? 本棚にある、一番分厚い本の後ろに、蛙の形をしたかわいい小さな貯金箱を隠していることを?


数週間、ナスノ家で一緒に暮らしている間に、直は樹の無防備な姿をたくさん見てきた。その姿のうち、いったいいくつを、ミナミは知っているんだろう。たぶん、まだ知らないことも多いはずだ。

俺しか知らない樹がいて、ミナミしか知らない樹がいる。そう思うと、ただ憧れているだけの自分でいるより、ほんの少しだけ、ふたりに近い場所にいられるような、そんな気がした。



二月の、ある日のことだった。直はいつものように樹と音楽室でギターを弾いていた。シャンテルズのメイビーを弾き終わり、寒さにかじかむ指に息をふきかけて温めていると、そこへ樹のクラスの担任がやってきた。


「月森、話がある。急いでくれ」

彼は樹を音楽室の外へ呼び出した。扉の外で教師と話し合う樹の背中を、直は見つめた。しばらくして戻ってきた樹の顔は、固く強ばっていた。

「ナスノさんが倒れた」

「何があったの?」

「わからない。道で倒れてたらしい」

「こんなに寒いのに? ナスノさん、今どこにいるの」

「病院だって。俺、行ってくる」

樹は駆け足で音楽室を出ていった。

一週間前に、ミナミやテルジと一緒に、ナスノさんの八十三歳の誕生日を祝ったばかりだった。



放課後に直も急いで病院へ向かい、ロビーで小さくなっている樹を見つけて声をかけた。

ナスノさんが畑へ続く道の途中で倒れているのを、近所の人が見つけてくれたこと。今は意識がはっきりしていて、会話もできること。倒れた原因は不明で、まだ検査の途中ではあるが幸い怪我はなく、本人と話をする限り、体調に普段と大きな変わりはないことを、樹は話してくれた。樹に連れられて病室へ行くと、ナスノさんはぱっちりと目を開けてベッドに横たわっていた。


大丈夫? と、直はナスノさんの手を握って言った。世話ないわよ、と、ナスノさんは直の手をぽんぽんと叩いた。いつもと同じ、温かな手のひらだった。


しばらく様子を見れば退院できると聞いていたが、それから一週間経っても、二週間経っても、ナスノさんは病院から出られなかった。寒空の下で倒れていたせいか、ナスノさんは肺炎を起こしてしまったのだ。

きちんと治療を受け続ければ、家に帰ることができる。医者はナスノさんにそう話したそうだが、樹には、もう自宅療養は見込めないだろうと伝えられたらしかった。樹とナスノさんの生活は、あっけなく一変した。家が近いため、樹は中学を卒業するまで、テルジの家から学校に通うことになった。


人前では普段と変わらない様子でふるまっていた樹だが、それが空元気であることはすぐにわかった。樹は以前より少しばかり痩せていたし、顔色も悪かった。そんな樹の姿を見ているのはつらかったが、直は気づいていないふりをした。いつも通りに話をし、誘われれば一緒にギターを弾いた。樹の必死の痩せ我慢に触れるのは、彼をなおさら追いつめてしまいそうで、とてもできなかった。だから、樹から地元の高校の内定を取りやめ、新たな進学先として多川夫妻が勧める高校を受験することにしたという話を聞いたときも、大して気にしていないふりをした。

樹は多川夫妻と、妹と暮らすことにしたのだ。そうするべきだと思うと直は言ったし、それは本心だった。

樹はナスノさんの介病に手を尽くそうとぎりぎりまで寮のある近隣の高校や就職先を探していたが、樹の進むべき道は、その学力や能力に見合った学校へ進学し、家族と呼べる人たちと共に生活することだった。樹は一度どこかで、本当の意味で落ち着いた暮らしをするべきだと、直も思っていた。



卒業式の日、学校に多川夫妻がやってきた。彼らは樹の保護者として式に出席し、式が終わったあとには、校庭のわきにある桜の木の下で、ほかの親子に交じって樹と写真を撮っていた。


直はそのときはじめて夫妻の姿を見た。遠くから眺めていると、三人は本当の親子のように見えた。容姿は似ていないけれど、同じ家で暮らし、同じ時を過ごしてきた人たちのような、そういう特別な一体感が、彼らにはあった。


「あの人たちと一緒にいるツキモリを見ているとね、なぜかいつも、ツキモリを遠く感じるの」


直とミナミは校庭に面した小さな段差で膝を抱えて座りながら、多川夫妻と樹の姿を見ていた。

ミナミは卒業証書の入った筒をどうでもよさそうに地面に置き、胸と太ももをぴったりとくっつけて身体を小さく折りたたんでいた。

ミナミは、この春から洋裁学校へ進学することになっている。学校の近くには大きな縫製工場もあり、卒業後はそこへ就職することも、すでに考えているらしかった。


「でも、不思議だよね。ツキモリがそばにいたことなんてないのに」

膝に顎をのせて、ミナミは言った。春の透明な光が、ミナミの真っ直ぐな黒髪を輝かせている。


「でも、ナスノさんのお見舞いで、こまめに帰ってくるって言ってたよ。手紙も書くって」

「うん。それだけじゃないよ。帰ってきたときには、ちゃんと私とデートしてくれるって約束したんだから」

「じゃあ、いいじゃない。そんなに寂しがらなくてもさ」

「でも、なにかで繋ぎとめておかないと、どこまでも行っちゃいそうだから。ツキモリは」

「そうかもね」

と、直はつぶやいた。


「あのね、私、小さいころに両親と家電屋さんに行ったとき、そこで風船をもらったことがあったの」

ミナミは空を見上げながら言った。


「大きくて、真っ赤な風船。でも駐車場で車に乗ろうとしたときに、私、紐から手を離してしまったのよね。私も両親もぴょんぴょん跳ねながら手を伸ばすんだけど、風船はまっすぐに空へ昇っていったわ。さようなら、って感じにね。なんだか今、それを思い出したの。ツキモリの姿を見ていたら」


おーい、と樹がこちらに向かって手を振った。写真撮ろうぜ、と大きな声で叫んでいる。

行こう、と直は言った。ミナミは立ち上がるとスカートについた砂埃を払った。


これから多川夫妻と一緒に、みんなそろってナスノさんのお見舞いに行く予定だ。


これまでも樹やミナミと一緒に何度か病院へ行ったことはあったが、三人そろって行くのは、これで最後にしようと決めていた。病室を訪れてもナスノさんは眠っていることが多かったし、呼吸器を装着する時間も長くなりつつあり、あまり大勢で行って疲れさせるのもよくないと、樹が言い出したのだ。

ナスノさんは目を覚ましていても、樹が誰なのか、段々とわからなくなっているみたいだった。


「寝たきりだからな。仕方ないよ」

と、樹はさびしげな横顔で小さくつぶやいた。





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