Cadd9 #31「どんな形を借りてもいい」
その日の夜、樹が家を訪ねてきた。
見舞いのあと、直とミナミは多川夫妻の車でそれぞれの家へ送ってもらい、樹とはその際にしっかりと別れの言葉を交わしたはずだったから、樹が家を訪ねてきたことに、直は少なからず驚いた。
インターホンが鳴り、直が出るまで少し時間がかかった。玄関を開けると、樹は軽く俯いたまま、視線だけをそっと上げて直を見た。
「樹。今晩は多川さんたちと一緒じゃないの」
「いや。あの人たちには一足先に帰ってもらったよ。沙耶が向こうで留守番してるしな。まあ、留守番と言っても旅館で面倒見てもらってるんだけど」
「樹はいつ行くの?」
「俺は明日、始発に乗って行く。今夜はナスノさんの家にいたいんだ」
「ひとりで?」
「うん。ひとりで」
ひとりで何をするの、と、直は心の中でたずねた。ひとりで何を考えるの。こんな夜に、最後の夜に、ひとりきりで。
「それでさ、ちょっとお前に頼みがあるんだけど。これを預かっておいてくれないかな」
樹は背中に隠していたギターケースを肩から外し、差し出した。ソフトケースにしまわれたギターは、樹の腕の中で、おくるみに巻かれて眠る赤ん坊のように見えた。
「そのうち取りに来るから、それまで直に持っていてほしいんだ」
「それはいいけど、樹も向こうで弾きたいんじゃないの?」
「しばらくはやめておく。俺、学校に行っているあいだにバイトして、金を貯めておこうと思うんだ。多川さんには反対されるだろうけど、あんまり世話になりたくないから。俺はこれから忙しくなるだろうし、直もギター欲しがってただろ?」
うん、と直はうなずいてギターを受け取った。
「それで、いつまで?」
「うん?」
「いつまで預かっておけばいいの」
「さあ……わからないな。でも、それまでしっかり弾きこんでおいてくれ」
「わかった」
それから、樹は上着のポケットに手を入れ、中から手帳を取り出した。そしてぱらぱらとページを捲って目を通してから、ためらいがちに直に手渡した。
「あと、これも。中身はなんか、その、詩みたいなもんだよ。曲にしようと思って何度も試してみたんだけど、俺は作曲は向いてないみたいだ。もしかしたら、お前のほうが得意かもしれない。俺よりギターもうまいし。気が向いたら作ってみてくれよ」
「わかった。やってみる」
「真面目に書いたんだから、笑うなよ。前に、お前に俺の歌が変だって言われたの、今でも恥ずかしいんだからな」
もごもごとした話し方をする樹を見て、直はおかしくなって少し笑った。樹も頭をかきながら、くすんと笑い返した。しかしその笑みは、すぐに力なくほどかれていった。
樹は頭をかいていた手を下ろし、行き場のなくなった手のひらで、自分の太ももをさすった。どことなく緊張しているように見える。きっと、これからの生活が不安なのだろう。当然だ。
「大丈夫?」
「ああ」
冷たい風が、細く、長く吹いた。その風は樹に触れてから、直の頬を冷やした。風が通り過ぎるまで、ふたりは黙っていた。
「俺は、大丈夫だ」
細長い葉のような睫毛をふせ、かすれた声で樹は言った。
「でも、時々、ふっと思うんだ。俺の本当の家は、どこにあるんだろうって。帰りたい家はあるよ。でも、もうないんだ。そこに戻っても、もう誰もいないんだ。たとえ話じゃない。本当にそうなんだよ」
その声は、少し震えていた。
片目を失ってからというものの、直はあらゆるものがやたら小さく見えて仕方がないことがあったが、その時の樹は、指先でつまむことができそうなくらい小さかった。直は樹が泣くのではないかと思った。でも泣いていなかった。
「俺も、家に帰りたくてたまらないときがあるよ。絶対に安全で、何にも汚される心配のない、自分の本当の家に。でも、それはたとえ話なんだ。俺にそんな家はなかったから。一度も。俺は樹がこの街に来るまでのことをほとんど知らない。でも、樹には帰りたいと思える家があっていいなって、俺は思うよ。今はもう、居場所にはならないとしても」
「そう、なのかな」
樹はしばらく思案顔で地面を見つめていたが、やがて「そうなのかもしれないな」とふたたびつぶやいた。
唯一の居場所を失ってしまうことと、一度も手に入らないことの、どちらが悲しいのだろう?
「直、ありがとう。俺、弱気になってたよな。このところ」
「まあ、少しだけね」
「だめだな。俺らしくない。もう大丈夫だ。本当に」
樹は両手でぴしぴしと自分の頬を叩くと、深呼吸をして背筋を伸ばした。その姿を見ていると、何の根拠もないが、直も自分は大丈夫だと思えた。
「じゃあ、そのギターをよろしく。帰ってくるときは知らせるよ。それから、頼み事ばかりで悪いけど、ミナミやテルジたちとの付き合いを絶やさずにいてくれると、俺は嬉しい」
「わかってるよ。心配しないで」
「ああ」
「じゃあ、またね。樹」
「ああ。元気でな」
そう言ったあとも、樹はなかなかその場から動かなかった。直は、樹の考えていることがよくわかるような気がした。俺のことが心配なのだ、と。
「もう行っていいよ」
と、直は言った。
樹はもう一度くすん、と鼻をならして微笑むと、背中を向けて歩き出した。樹は一度もふり返らなかったが、その背中が闇に消えていくまで、直は見守っていた。
直は樹の背中が好きだった。手のひらをかざせば、いつでもその体温や肌の湿り気が伝わってくるような、あたたかな背中。でも、そんな気がするだけだ。本当に樹の背中に手をかざしたことはない。樹の身体にそんなふうに触れられる人がいるとしたら、それはきっとミナミなのだ。
直の手のひらが樹の背中に触れたのは、一度だけだった。
十一月のあの夜、直は樹と抱き合った。まるで大切な女性を抱きしめるかのように、樹は抱きしめてくれた。
あの夜に起こった出来事に対して、直は決して混乱などしていなかった。胸にしまい続けてきた報われない思いを、かき乱されたように感じたか? 決してそうじゃない。むしろ、何かが腑に落ちて、ほっとした。罪悪感はあったとしても。
樹を見送ったあとも、直は玄関に立ちつくしていた。空を見上げる。星が出ていた。吸い込まれそうな、懐かしい夜空だった。
樹が遠くへ行ってしまっても、不思議と寂しくはなかった。俺はもう、ひとりでいられる。とても静かな気持ちで、そう思った。
直はその夜、幾千の星を見上げながら覚悟を決めた。
どんな形を借りてもいい。友達でも何でもいい。どんなに苦しくてもいいから、樹を好きでいたい。その気持ちから、逃げないでいよう。
愛し抜く覚悟を、幼い心に、直は誓った。
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