泳ぎ


あなたの身体から力が抜けるのを見た

そのときわたしは
人が死ぬ瞬間を見た日のことを
ぼんやり思い出していた


そんなにも気を張って
わたしの目に映るあいだ
あなたはあなたでいてくれた

寒い寒い水曜日の朝
雲がやたら多く浮かんだ日
扉がついにからからと閉まった

永久に 永遠に 未来永劫

二度とわたしが開けることのできない扉が
からからと乾いた音を立てて閉まった


扉の前に立つあなたの姿勢の美しさも
爪の清潔さも 腰の丸みも

いつかは見れなくなると
ただ思いながら

立ち止まってあなたの腕や肩や
毛糸のねじれをながめていたとき

あなたの身体から力が抜けた


そのことがわたしには
叫びたいほど嬉しくて
それ以上に悲しかった

あなたは人間だったから



わたしはあなたの上に流れる一秒を
心の底から惜しく思うのに

あなたはそんなことは
まるでどうでもいいような顔をして

いつも花のようにそばにいて

手折っても手折っても凛として


あなたは強すぎる

時々思い出して 泣きます

いつかもう一度世界がひとつにつながったら

そんな世界にも寒い水曜日と
雲がやたら多く浮かぶ青空があれば

薄氷の下を大きな魚になって泳ぎます



割れそうな薄い氷の下で
人間だったころのことを思い出して

泣きます


はっとしてふりむくと
あなたの横顔があった日のこと

忘れません

さようなら


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