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CACAノオトvol.1 「書の線と空間」

〜書と線の意味するところ~ 岡本光平

 書を構成するのは線と字形、そして余白と空間性が最大の特徴です。
 なかでも東洋が誇る伝統の書画は線が命です。西洋絵画は長らく面をもって描いてきましたが、ゴッホたちがたまたま日本の線で描かれている浮世絵に衝撃を受け、線に目覚めたことはよく知られています。以後、マティスのように東洋的なワンストロークの一回性の線に目覚めた作家たちが輩出し、20世紀半ば以降の現代美術のなかにも線を主体とした表現が多く見られるようになりました。
 東洋の書は極め尽くした線そのものの表現です。自然をモデルとし、時代の精神性と人間との関わりのなかで育まれてきた多様で長い歴史があります。
 自然は広大な海や山、森を大いなる地球上の余白として世界をかたちづくっています。ひとつとして同じ木の姿はなく、木々の枝は1本の線であり、石はひとつの点として同じかたちはなく、流れる雲の千変万化する姿を文字を借りて投影してきたのが書の世界でもありました。
 有為転変、生成流転する自然を畏敬し、己れの生き方を見つめること、それは森羅万象のエネルギーを紙上の小宇宙として顕現させ、「無」や「空」の精神と一体化することを理想としていたことが背後にありました。単なる書芸ではなかったのです。

 仮に文字を書かなくても線と余白、さらには三次元的な空間性を創出できたとしたら、線の官能美の隠れたメタファーを現代に蘇生して、遥かなるイメージや無限想像への起爆剤となり得るでしょう。
 そのような日本人のドメスティックな美意識や感性、哲学に裏打ちされた表現は、現代においては逆にインターナショナルな意味を持つであろうと考えます。
 新しいことを切り開くには古いことをよくよく知らねばなりません。書の原点、線の本質に立ち戻ることが大切だと考えます。
 書表現の道具材料はすべて自然素材が基本です。それらは不確定要素が多いことから想定内と、不測の想定外とが起きて矛盾合一する変異が起きる、それが書表現や線の醍醐味となります。まさに線は一瞬にして、刹那の一期一会の精神性が核となります。
 白い紙に、黒い墨線を筆で引き出す不測の行為は、陰陽世界をかたちづくることにもなります。
 
 書そのものは現代においては極めてアナログですが、プリミティブでフィジカルでもあり、書の伝統である古典とは化石のような存在ではあります。しかしながら無尽蔵と言えるほどの線と造形美術の原理が埋もれており、表現のための情報のタイムカプセルです。そして、書が書であるためのもっとも大事な情意と品性の何たるかを内包しています。
 四角い紙と丸い筆の組み合わせは、相撲の土俵と同じで、中国古代の宇宙哲学である「天円地方説」そのものを具体化しています。
 書はかつては小宇宙を具現化して、融合の境地を目指すことで至高の芸術になりました。

 筆で線を引くのは三拍子が基本です。音楽のワルツと共通します。「三」は最小素数として、たくさんの水が流れる「川」が三本の線で書かれているように”無限”を意味します。
 一本の線は最初の起筆、途中の送筆、最後の収筆へと連続する三拍子で引かれます。収筆は終筆ではなく、終わりの始めを意味します。奥深いことに、それぞれのポイントにはさらに三拍子の微細な運筆原理があり、三×三の合計九つの筆の働ききの呼吸が含まれて成立しています。
 この「九」の原理は、中国哲学においては陰陽の”陽”の最大数として、密教の「金剛界曼荼羅」と同じ構造を示す普遍性があります。

 この一例だけでも、書の古典には深遠な法則性が隠されています。理屈は知らずとも、あるいはわからずとも、それらがしっかり内包されてさえいれば、見る側である人間は、生きものとしてのDNA的なアンテナが共鳴する、つまり琴線に触れてこころが揺さぶられます。
 書の本領は、瞬時にして線質の自然体による深さと、造形の均整あるいは均衡バランス、紙面の余白から昇華した空間性を引き出して凝縮させる、三位一体のとてつもない鍛練行です。おいそれとなし得るものではないからこそ百尺竿頭、探求努力の甲斐があります。
 また大作になるほど、体さばきも含めて古式の武術との共通点が多くあると考えます。
 古典に立ち戻ることは、剣道と剣術の違いと同じように、今のような書道以前の筆技の書術と、神妙な造形術の深さを識らねば意味がありません。技を通して、まさに一撃必殺ならぬ一筆必中の世界の深さがあることを理解し、体得精進しなければなりません。
 その精神性は、一切を引き算化して、刹那の無に至る禅のこころにも通じるのではないかと思います。

 しかしながら線の美は書に限ったものではありません。書は至高の芸術ではありますが、線を書だけの専売特許だと思うことは驕慢です。
 例えば、焼きもので言えば近世の唐津焼や九谷焼、織部焼の絵付けの線も同じ筆で描かれた脱俗超凡のすばらしい線の世界があります。李氏朝鮮時代の焼きものには、さらに恬淡とした無心の線に加えて、圧倒的な無作為の余白の美を備えています。これらの線そのものは時代を超えて今なおコンテンポラリーだと言えます。
 水墨画における雪舟や長谷川等伯、海北友松らの線の気韻や風韻たるや、普遍的なコンテンポラリーと言わずして何をコンテンポラリーと言うのでしょうか?
 古いもののほうにむしろ新しさを感じるのはなぜでしょうか?新しいものがアッという間に古くさく見えるのはなぜでしょうか?書の世界にも、同様同格の素晴らしい線の行者たちがあまた存在しており、学ぶべき先人がいることは至福の誇りです。

 芸術は、時代と風土と人間がクロスオーバーします。現代は書の本質が見失われ、小手先の技術至上に翻弄されて形骸化してしまったことは、さながら仏つくって魂入れずの感があります。それゆえに残念ながら大衆の心から遊離して支持を得られていない現実があります。
 だからと言って支持を得るために、安易にアートを名乗る大衆に媚びた薄っぺらな表現は、品位を落とした軽佻浮薄な俗物のそしりを免れることはできません。
 本来の書は漢字を基盤としますが、漢字そのもの造形と漢字を書の表現にした美の根底には、幾何学が必然にしろ偶然にしろ働いていることは確実です。幾何学は数値と数理に置き換えることができます。今で言うデザインですが、機能美や販売目的を追及した現代の商業デザインとは異なります。
 アートもデザインも便利な用語です。そのような表層的な表現があたかも現代の先端芸術だとしたら、果たしてそ本当にそうでしょうか?文字を書かないことが、短絡的に新しいアートの表現につながるのならこんな楽な仕事はありません。いくら理屈をつけようが、結局は単細胞的発想ではないかと思います。ジャッジメントは、それを手元に置いてくれるだけの商品価値があるか否かの、良識ある一般大衆に任せるしか手だてはないようです。

 書の本質とは何か、書が書であるためには文字のあるなしに関わらず、ベクトルのある線が生命線であることは不変不朽です。ないものはデザインです。
生きた線が空間性を醸成します。さまざまな線の世界を多角的にとらえ、多様多質な線の表現に特化した、説得力のある現代作品の待望論を呼び起こす作品努力が必要です。

 コンテンポラリーとは現代性を標榜することですが、普遍的な美の本質や原理は過去から現在までを貫くものだと思います。流行としての表現スタイルや様式化されたパターン、方法論を超えた不易の本質や原理の探求こそが、書と線の新しい地平を切り拓くと考えています。

 それは、書がアートに近づくことではなく、アートが書に近づくことでもあります。

 欧米スタイルのアートに追随したり、日本書道の戦後スタイルを踏襲する時代はすでに終わりました。墨のイージーアートも雨後の筍のようで淘汰も時間の問題でしょう。
 模倣やスタイルではなく、書にしろ焼きものにしろ、日本人の伝統が伝えてきた線の美や造形性に根拠を持たないものはいくらアートだ、デザインだと呼ぼうが、ただの泡沫的な流行に終わることでしょう。
 受け継がれてきた伝統の自覚の元に、書の本質を象徴する一期一会の線は、すでに余白や空間性を標榜するコンテンポラリーそのものであると考えます。

 今回展は、言わば交響曲「線」という楽曲をオーケストラとして、全員のそれぞれが、それぞれの楽器で線を奏でていると解釈していただければ幸いです。
 古代からの経糸と、現代の緯糸で織り成す現代の線の広角作品群をLINE =【書】として発表いたします。
 線も書も目で見る音楽として、ご高覧くだされば幸甚です。

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