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僕の中のthe verveを回顧してみる


昨日ある友人から、

「リアルタイムで聴けなかった人に、
 リアルタイムで聴いていた人の体験談を共有して欲しい」

との依頼を受け、ザ・ヴァーヴ(the verve)についての回顧記事を書くことにした。

ブリットポップど真ん中に間に合わなかった学生時代、そしてバンドとの邂逅

1996年、僕は高校に入学した。
世間は、アトランタオリンピック前のサッカー五輪代表の前園というスターに夢中で、小倉隆史というもう1人のスターの喪失感に包まれながらも、
28年ぶりの世界大会への切符を手にしたチームへの期待感で溢れかえっていた。

僕はというと、3月に中学生なのにローリングストーンズの来日公演を見に行ってみたりと、ニュースで見聞きするスポーツのリアルタイムへの熱狂とは裏腹に、遠く30年前のブルースや、ビートバンドに夢中だった。

海外ではすでにロックバンドが何周も巡り巡っていたというのに。

高校の入学初日、気になる女の子がいた。
彼女は、自己紹介で唐突に「好きなものはoasis」と言った。

ただの60年代の音楽が好きなだけの僕は、数日間話をするきっかけを掴めずにいたのだけど、15歳なりの天才的な発想をしてしまう。

「oasisを聴けばこの子と話せる」のではないかと。

自転車で遠くの外資系CDショップまで足を運び、oasisの1stアルバムを手にして2時間かけて家に帰り、CDの再生ボタンを押した。
大きく鳴り響く、高らかに鳴り出すイントロ。これまで聴いていたハードロックバンドとは少し聴こえ方が違う厚めのギターリフ。
そしてがなり声で「ロックンロールスター」だと歌い上げる単純な音楽。

「そのギタリストって速く弾ける?」という先輩に囲まれていた中で育った僕は、技術論ではなく、精神と文化論で語り出す音楽に夢中になった。

イギリスの今というものに。

すでに、オルタナティブロックが終焉を迎え、oasisはネブワーズに12万人を集め、フージーズが大ヒットし、プロディジーがレイヴを飛び越えてロックファンに認知され、イギリスの90年代の若者を象徴しながらも総括しそうな空気になっていた映画、トレインスポッティングが公開された年に、僕は「カルチャー」というものを初めて意識した。

夢中で深夜ラジオやテレビから情報を得て、雑誌を読み耽り、大型外資系CDショップや中古レコード店で「その時代」のロックバンドからクラブミュージックまでをとにかく聴いた。
想像でしかないイギリスの同世代の生活。映画や歌詞の中での姿は幻のようで、本当に同じ地球に生きている人間とは思えないような遠い世界だった。

翌年の冬、状況は一変する。
1997年の冬。僕は高校の修学旅行でイギリスに2週間旅立った。

すでにblurがブリットポップに別れを告げるかのような音楽を発信し、ストーンローゼズはほとんどいなくて、oasisの音楽は少し難しくなろうとしていた。
文化に追いつくかのように、政治が「クールブリタニア」と言い出し、僕たちの掌の中にある形のない文化は、世間へと変わって行っていた。

古いブリティッシュビートのレコードをたくさん買って帰ろうと思っていたイギリスで、タワーレコードでも、田舎のスーパーでもどこでも変わらず並べられているCDがあった。

それは、ケミカルブラザーズでも、blurでも、Be Here Nowでもレディオヘッドでもなく、草の上に5人の細身の男性が座っている、やけに緑色がかったジャケットのCDだった。

視聴なんて出来ないし、スマホで調べることもできないので、とりあえずトイレ休憩に立ち寄ったスーパーマーケットでお菓子を買うついでにそのCDを手にとった。
だけど、僕はなんとなくblurばかり聴いていて、ロイヤルアルバートホールの前でCreamなんか聴いてみたりして、帰国後もこのCDは放って置かれたままだった。

状況が変わったのはその後だった。

1998年に入り、1月9日の夜(なはず)のこと。衛星放送でBrit Awardsの中継が放送されていた。
レポーターが会場に入るや否や「こんな風に歌いたい!」と言ってカメラが向いた先には、ギターをかき鳴らしながら歌い上げる見覚えのある姿。

そうだ!あのスーパーで買ったCDの人だ!とっさに思い出した僕は、そのままテレビに夢中になった。

男が憧れるロックスターの姿そのものだった彼の名前はリチャード・アシュクロフト。夢の中でのLucky Man。

その時初めて封を開けた1枚が、その後の人生についてまわるUrban Hymns。

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その日からどれだけ聴いたことだろうか。どれだけあのテレビで見た裸足で歌い上げる姿をこの目で生で見たいと思っただろうか。

会うことができない相手には思いこがれるのが世の常だけど、彼は日本武道館でないと日本では歌ってくれないらしかった。

日本武道館いっぱいの観客分の署名が集められていた。そして、その署名が集まった頃、バンドは消えた。

署名さえ渡れば、彼はきっと日本に来ると思っていた。だけど、バンドの代わりに僕に手に入ったのは、署名のお礼のステッカーだけだった。

大学生になり、東京に出てくると、僕は同じような趣味を持つ友達や恋人ができる。
だいたいがUrban Hymnsを持っていて、おかしいくらいに聴いていた。

みんな、どんどん丸くなる自分たちのスターや、社会に吸収される文化の流れを見ながらも、最後の手の届かなそうな存在として、Urban HymnsとA Northern Soulという宝物のようなレコードと触れ合っていたのだろう。

初来日、たった10曲に表れていたバンドの存在価値

その日は突然だった。全てが嘘みたいな出来事だった。

会社で仕事をしていて、誰かが叫んだ。
「サマソニ!verve!」

オフィスは騒然となった。たった20人以下の会社に、この話題を語るためにその日を喫煙所で丸一日過ごす人間が5人いたからだ。

「休ませなかったら辞める」と全員がスケジュール会議で言った。そして、意味がわからない上役たちに理由を5人の男は説明し、
多分伝わらないまま、僕らのシフトはサマソニの日から全員外された。

2008年の夏だった。

もう、絶対にこのタイミングを逃したくない僕たちは、朝からマリンスタジアムには行かずに、the verveのための時間割で行動した。

NEXT the verveと電光掲示板に映し出されてセットチェンジが行われる。
まだ嘘だと思っていた。

そして、客電が落ちて、サイケデリックバンド、The Electric Prunesの「Holy Are You」が流れ、僕はこのバンドが本当に実在していることを初めて信じることができた。

「全て」が「全て」で「全部」が「全部」だった。
僕だけではない、このたった60分程度の時間を10年近く待っていた人たちの叫びだけがそこにあった。

“This Is Music”
“Sonnet”
“Space and Time”
“Sit and Wonder”
“Life's an Ocean”
“The Rolling People”
“The Drugs Don't Work”
“Lucky Man”
“Bitter Sweet Symphony”
“Love Is Noise”

僕は、生でこのバンドのステージを見る日を想像しながら、2007年まで生きていた。それは本当に本当だ。
ステッカーを見ても、リチャードのソロを最前列で見ても、それは全て本当ではなかった。

「きっと生で見た日には、取り返しがつかないくらい取り乱すから」と親友たちに伝えて臨んだサマソニのマリンスタジアム。

だけど、泣かなかった。会社の先輩と肩を組んで、Sonnetを歌って、Space and Timeでもみくちゃになりみんなと逸れた後、
僕は泣くどころか、笑うしかなかった。

感傷的になる間もなく、ただ、嬉しかったんだ。って気がついた。

終わって放心状態のままみんなで集まって、プロディジーの出音が聴こえるマリンスタジアムを、僕らは全員で後にした。
みんなこの時間を大切に残したかったんだ。

それ以来、僕は彼らのライブ映像を見たりしていない。

たまにレコードは聴くけれど、このマリンスタジアムに全てを置いてくることができて、新しいレコードに素直に向き合うことができるようになった。

何かをみんなに伝えたくって喋ろうとするんだけど、からからに乾いた喉のせいで誰も声が出ない帰り道。

どっかで見たミュージックビデオのように、向いから歩いてくる人の肩がぶつかっていても気にしない僕ら。

そんな10年間の出来事です。

参考


新しいzine作るか、旅行行きます。