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悔しさ、悔しくて、悔しむ

「悔しい」という気持ちをどこかに忘れてきていたような、もしくは思い違いをしていたような、そんな気がする。

今は会社員をしているが、「悔しい」と思うことは殆ど無い。

だけど、ダイエットをしだして、そして、ヨガを再開しだして、改めて思い出してきた気がする。


わたしの中の「悔しい」のイメージは、誰か他人と比べて自分が劣っているとか、負けたとか、そういうイメージだった。

多分このイメージは、わたしの中にある「悔しい」の半分から来ていると思う。
それは、4人兄妹の末っ子だった父親の感情なんだと感じている。
兄妹の中で比べられたり、贔屓されたり、そういことから生まれてきた気持ちを引き継いでいた。
一方わたしは一人っ子で、同じ年代の誰かと家庭内で比べられることはなかった。
家庭外でも、学生時代は順位がつくものというと勉強で、それは人並みか人並み以上にできた。
だから、他人に負けたとか勝ったとかが少なくて、そういうことにあまり興味がなかった。
だから、こっちが間違えていた方

「悔しい」のもう半分は、女性として、人間として、選ばれるか選ばれないか
こちらは、もっと奥の深いところにある感情だと思うし、まだぼんやりとしか見えてきていない。
思い出して、また書く。
今は漠然と「何をしても選ばれなかった」ように思ってることが根にあると思うし、それをまるっと自分のせいにして、もがいて、諦めて、やり場がないから自分を下げて納得させていた、ようなことを思い出している。
これは、また今度、必ず。


前者の、他人と比べての「悔しい」は、わたしのものとちょっとズレている。
それを、少しずつ思い出してきた。

悔しいのは、理想の自分と比べるから。
他人を見て悔しがる、他人に映した自分の姿と比べるからなんだと思う。
そして羨ましがって、なのに言い訳をして動かないと、妬みや僻みになっちゃうんだと思う。

話を戻すと、今までは、ただ何となくこなすだけ、その場を取り繕うだけで、「悔しい」という気持ちを持てるというか、実感するほど思入れを持たなかった。いや、持つことを避けていたんだと思う。

やりたいことをせず、してみたいことをせず、与えられたことをこなしてきたから。

そうすれば、それが普通の幸せを呼んでくれる、それが、普通の幸せだと勘違いしてたから。


ダイエット、ヨガって取り組んできて、やっぱり思うようにいかないことも、思ったよりできないことも、できなさすぎて恥ずかしくて人前には出せないことも、今後もできるようになるのかな、と思うことが沢山でてくる。

だけど、少しでも、昨日の自分より1cmでも前に進むように、「悔しい」から頑張る。

「悔しい」から、できないのを認めて、何ならできるか探すし、
「悔しい」から、できるコツ、できるまでのステップを考えて、実践する。

これが今思う、わたしにとって正しいベクトルの「悔しい」の気持ち。

もっと動いて、もっと、思い出していく。

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