アンダンテ
皐月の風が吹き抜ける日、私は友人の結婚式に来ていた。爽やかな空気とは裏腹、気分はそんなに軽くない。新婦が私の高校時代の友人なのだが、実はそんなに仲の良い友人ではなかったのだ。ただその時に同じグループにいたというだけの関係。学生時代の、特に女子の間に見られるあの“グループ“というのは、一体なんなのだろうと思う。今日の式でもかつてのグループの友人達が同じテーブルに配置されている。その人達と顔を合わすのも、気が重いというか、今更何を話すの? という感じだ。それぞれ違う道に進んでいる。高校の頃は「学校」という共通の話題があったので話す事柄には困らなかったが、今や共通の話題がない。とにかく気が重かった。
「はぁ…」
無駄に綺麗な式場のトイレで用を済ませ、手を洗いながら気持ちを整える。会場までは一人で来て、受付をした後に真っ先にこのトイレに来たが、ここを出たら、友人の誰かには会うだろう。鏡には、今日のために無駄にめかし込んだ自分がいる。よし、と笑顔を貼り付ける準備をして、トイレのドアを開いた。
「………あれ?」
なにか妙に静かだ。トイレ前のロビーは人でごった返していたはずなのに。そしてそもそも、目の前には見覚えのない廊下が続いている。出口を間違えたのか? そう思いトイレに引き返すが、どう見てもトイレの出入り口はただひとつだった。
(とにかく、進んでみるか)
自分は何か記憶違いをしていて、どこか奥まった廊下の先のトイレに入ってしまっていたかもしれない。そう思い、とにかく足を進めた。ビロードの絨毯がひかれた廊下を道なりに歩く。それはいずれどこかの部屋へ続くと思われたが、何かがおかしい。静かすぎるのだ。視界もボヤけてきて、今いる廊下が、西洋の古びたお城のような、はたまた近未来のゲームセンターのようなものにも感じる。
「…っ!」
その瞬間、身体に緊張が走った。追われている。何にかは分からないが、何かが迫ってくる感覚。絶対に捕まってはいけない、捕まったら殺されると、瞬時に理解した。
私は走り出す。
だが、足は鉛のように重くて、上手く走れなかった。どういう道順を辿ったのか、とにかく必死で、どうにか玄関まで辿り着いた。そこは自分の家の玄関のようで、ふと足元を見ると、さっきまで履いていたはずのヒールを履いていなかった。外へ出るために、靴を履かなければならない。玄関にはいろいろな靴が乱雑に散らばっていて、何度履き直しても、左右ちぐはぐな靴を選んでしまう。サイズも合っていないので、これでは到底走れない。
(もう…!裸足でいいや!)
後で履けばいいと、1組の黒いローファーをひっつかんで、そのまま玄関を出て駆け出した。ベージュのストッキングは履いているが、破けてしまうかもしれないし、痛いかもしれない。だがそんなことは構わず、ただ逃げることだけ考えた。
(誰かっ…助けて……!)
外は中世のヨーロッパのような、石畳の街並みだった。人影はなくとても静かだ。でも家の中には人がいるかもしれないので、助けを呼ぶために叫ぼうか。でも、もし追ってきているものに気付かれたら…。
葛藤しながら走っているうちに、いつしか森の中へ入ってしまっていた。そして、薄暗いなだらかな山道の途中、誰かが立っているのを発見する。赤黒いマントを羽織った、軍服姿の青年だった。瞬間で、悪い人ではないと分かった。寧ろ、何処かで会ったことがあるような懐かしさと親近感がある。私はもう息が絶え絶えで、走ってるんだか歩いてるんだか分からないスピードで、青年の方へ進む。助けを求めようか。だが少しおこがましいようにも感じて、言葉が出てこなかった。ただ心の中で(助けてくれないかなぁ…助けてくれないかなぁ…)と訴えて、青年の青い瞳を必死に見つめながら通り過ぎる。すると青年のマントがバッと翻った。腕がスッと伸びてきて、肩を抱き寄せられる。
「こっちだ」
私は青年のマントの中にすっぽりと収まった。頭の上で「今のうちに靴を履け」と聞こえたので、持っていた黒いローファーを地面に投げ、青年に寄りかかりながら慌てて履いた。密着する身体に、少しドキドキする。しかしそんなことを思ってる暇もなく、マントの外で何かが横切るような気配がして、全身に緊張が走った。私は青年にしがみつきながら、必死に息を殺す。
「行ったな」
どれだけ時間が経っただろう。とても長かった気がするし、一瞬だった気もする。私を覆っていたマントがバサッと音を立てて空を舞い、視界が明るさを取り戻す。私はまだ彼に抱きついたままで、顔だけを上に向けた。
「ありがとう……ございました…」
漆黒の髪に、吸い込まれそうな青い瞳。一秒も目を逸らせなくて、お互いに見つめ合う。またもやその時間は、一瞬のようにも、永遠のようにも感じた。
「あっ……すみません、離れますね」
先に視線を外したのは私の方で、ずっと掴んでいたままだった彼の腕から離れようとする。だがそのまま流れるように右手を取られ、彼の手に絡め取られてしまった。
「こっちだ」
「えっ?」
導かれるまま、獣道を進む。木々は鬱蒼としていて、夜のようだ。いや、夜そのものだった。確か結婚式の開始が12時だったから、本当ならまだ全然明るいはずだ。だけど、もうここがあの式場の外だとは思っていないので、時間が違うことなんて、今更そんなに問題ではない。すべてが問題なんだから。おかしいんだから。自分は今、とんでもなくリアルな夢を見ているのかもしれない。たまにある、夢の中で夢だと気付く感じ。ただ余りにもリアルで、寧ろ日本の結婚式場にいた自分の方が夢だったのかもしれないと思えてくる。あれ? 本当にそう思えてきた。こっちの世界が、本当の自分の世界のような。
私は、斜め右前を歩く彼を見上げる。出逢ってからずっと無表情だ。必要最低限の会話しかしていない。ただ顔が恐ろしく美形で、纏う空気はフワッとしていて、なんだか落ち着く。謎の親近感。なんでも許してくれそうな、もうすでに愛してくれているような。たまらず、繋いでいる右手に力を込めて、ぎゅうっと握ってしまった。そうすると彼も、私よりも強い力で握り返してくれる。前を向いて、無表情のまま。それはとてつもなく嬉しいことで、心がくすぐったくて、この瞬間だけで生きていけると思えるほどだった。
「見えた」
木々を抜けると、目の前が開けて夜空が広がる。私達は崖の上に立っていて、眼下に古びた大きい西洋のお屋敷があった。陳腐な言い方をすれば、お伽話に出てくるドラキュラの館のような。お屋敷は後ろに大きな月を背負って佇んでいる。ほんとに大きくて、日本に生まれて、こんなに大きい月は見たことがない。まんまるで、山吹色で、とても綺麗だ。
「月がすごく大きくて、綺麗」
「…そうか」
ところで、多分私達はあのお屋敷に向かっているらしいのだが、ここからどうやって行くのだろうか。ここは切り立った崖の上。お屋敷は崖の下で、ここから降りたとしても、少し距離がありそうだ。目的地があそこなら、山を登らない方が良かったのでは? と思う。手は繋いだまま。大きい月から、お屋敷に視線を移すと、玄関のドアが開いた気がした。重そうなドアが、ギギギッと音を立てて少しずつ開いていく。中はどうなっているんだろう、どんな人が出てくるんだろう、ふとそんなことを思った瞬間。
「あれっ?」
明るい空間。私は建物の中にいた。さっきまでは暗闇の中、崖の上に立っていたのに。広いフロアの上には大きいシャンデリア。ここへは初めて来たはずだが、今私は、あの崖の下のお屋敷の中にいるんだと分かった。すごい、瞬間移動だ。
ふと足元を見ると、レッドカーペットが敷かれていて、それを辿ると、百段くらいありそうな階段があった。百段とはいったが、正確に何段かは数えられない。この階段は、自分じゃ登れないと思った。
『アリシャ』
階段の上から、声が降ってきた。すると目の前に玉座が現れた。そう、目の前に。どれだけ続くのかと思われていた階段が、3段で終わっている。私がいるこのフロアから、1段30cmくらいの段差を、3段上がったところ。
「よく来たね。待っていたんだよ。ずっと、ずっと」
玉座を立ち上がり、銀の綺麗な長髪をした男性が、こちらへ降りてきた。そして私の前に跪き、私の左手を取った。
「あ、あの…」
私の困惑など気にもせず、男性は私の左手の甲に口付けを落とした。私は更に驚いて、固まってしまう。そんなこと、生まれてこの方やってもらったことはないし、映画や漫画の中以外では見たこともなかった。
「アリシャ、儀式はいつにしようか。今すぐでも、準備はできているよ?」
「いや、あの、さっきから訳が分からなくて……それに、アリシャって?」
「君の本当の名前だよ」
なんということだ。そんな可愛らしい名前だったなんて。でも、妙にしっくりくる響きだった。
「儀式というのは?」
「君の血を、この世界の捧げるのさ」
そうか、捧げるのか……。そう、私は自分でここへやってきた。戻ってきたのだ。この世界に捕まるために。血の一滴まで、“貴方”に捧げるためにーーーーー
「夢、か………」
私はもう一度まぶたを閉じる。カーテンから差し込む朝日のせいで、部屋の中は薄明るかった。鳥の声が、遠くで囁く。
その日私は、結婚式へは行かなかった。
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