安楽死と自死と、その選択肢を含む意志

芸能人の自死ニュースはショックだ。

自死そのものがショックな出来事なのに、芸能人と限定するとは、さらに不謹慎極まりない。
この記事は、タイトルの通り、かなりセンシティブな事柄に触れる上、私個人の偏見に満ちた(だが、正直な)内容だ。私の短慮や不躾な表現で、気分を害された方には大変申し訳なく思う。


個人的な好感度とは無関係に、芸能人の自死ニュースに茫然とする。
私より容姿も稼ぎも良く、結婚もできて、子供も持てて、仕事で世間から評価された人間が、何らかの理由で自死を選んだ。私より優れた人間が絶望した世の中で、格段にスペックの劣る私が、なぜ絶望せずに生きていられるのか。何ともいたたまれない心地になる。

●【強者】の理想を内在化する危険性

上記のような居心地の悪さを感じるのは、「優れた個体の生存が優先されるべき」という、強者の論理が私たちに内在しているからである。
(心が弱っている時ほど正しく見える)この論理は間違いだ。我々が進化論をイメージして考える「優れた個体」とは「最終的に生き残ったもの」を指している。であるならば、今現在、生きているものに、優劣を付けることは不可能である(何かが死に絶え、何かが生き残った、時点でなければ、「優れた個体」認定はできない)。
というわけで、私たちに内在化するこの論理は、最後に生き残るつもりの者が、後に勝者としての正当性を主張するために、己以外を任意に排除しようとする、結果論的な暴力的思考でしかない。

●安楽死と選民思想

優れた個体の生存が優先されるべきという、強者の理想が内在化された時に、「生きる価値があるもの」と「生きる価値のないもの」を傲慢に分別する選民思想が湧き出す。そして、その選民思想が、安楽死を社会的弱者への不当な圧力に変える
安楽死が存在することで(主に弱者が)その選択を強要される、という危惧の正体は、強者の理想を内在化する選民思想だ。

●【誰か】の理想を内在化する危険性

あなたの人生の責任を、あなた以外の人間が負うことは不可能だ。だから、個人的な幸福の実現を、誰かの理想や利害と擦り合わせる必要はない。周囲がどうあろうとも、あなたの幸福は、最終的にあなた自身の問題であり、決定権はあなたに在る。
「自分のために生きる」という選択をする場合はもとより、「誰かのために生きる」という選択をする場合は特に、誰かの理想を(無意識にでも)内在化させるべきではない。
どんな選択にせよ、その決定権を純粋な個人意志の元に確保し、いかに選択の自由を保証するかが問題である。

●安易な死、という危険性

安楽死は、安易な死を選択することになりかねない、との危惧を抱くのはもっともだ。厳格な規制の下でも、「安易な死」と「そうでない死」を厳密に判別するのは容易ではない。また、その判断を一度下し、安楽死を実現してしまえば、やり直しは決してきかない。しかし、「判別が容易ではないから」「やり直しがきかないから」という懸念で、安楽死という制度を否定することは、現時点では不可能だと考える。全く同じ懸念がある「死刑制度」がこの国には存在し、今もなお継続しているからだ。
懸念が100%払拭できないという理由で、安楽死という選択肢の存在自体を、完全否定することはできない。

●ただ純粋に選択肢を求める

人間が意志を持つ時、必ずそこに選択肢が生まれる。意志が存在する限り、それに伴う選択肢は、原則制限されるべきではない(加虐性を含むものは制限されるべきだが)。離婚や中絶など、例え、一般的にネガティブ側に分類されうるものであろうとも、その選択肢が排除された世界は、地獄以外の何物でもない。私たちが希望と名付けるものは、ある一方向にのみ存在するのではなく、あらゆる選択肢の先に点在すると信じたい。

また、私は、画一的で絶対的な概念を否定する立場だ。生きることでさえ絶対的な善ではない、と考える。よって、選択肢としての安楽死は必要である、と私は主張する。

●安楽死のリアル

今まさに、安楽死を実行しようとする、その一瞬を捉えた静止画像を見た。
安楽死を望んだ本人がベッドに横たわり、その傍らには寄り添う人がひとり。寄り添うその人は、上半身を大きく傾け、ベッドの方へ突っ伏している。安楽死を迎えようとする本人の手に、すがりついているように見えた。最期の最後まで、生きる時間を共有しようとする強い意思を感じる。

どれほど息を深く吸ったとしても、息苦しさから逃れられない現実を前に、傍観者が感じるのは、安楽死を望んだ人の絶望もしくは安堵だろうか。寄り添う人の背中に見る、強烈な悲しみだろうか。それとも、安楽死の当事者の境遇への、行き場のない同情だろうか。安楽死に対する純粋なやるせなさだろうか。

●安楽死と机上の空論

リアルな現場を目の前にした時、また、その当事者になった時、それまで描いてた理想や思想は、思った以上に使い物にならない、と想像できる。現実とその当事者としての立場は、正論をいとも簡単に蹂躙するからだ。

「正常な思考で、熟考の末、後悔のない選択肢だと判断して、安楽死を選びました」と断言できる人間は、果たして本当にまともな精神状態なのか。そんな疑問も残る。

安楽死という現実の前では、ほとんど全ての思考と判断が不明瞭になるだろう。

それでも、私個人は、安楽死という選択肢に手を伸ばさずにはいられないし、その自己決定権を放棄したいとは、どうしても思えない。

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