うつ&適応障害 vs サイコパス優遇社会

◼️「マゾヒスト」生産社会

うつは「病気」ではなく、
環境に対する反応だ。

誰かが、そう言っていた。

環境が変われば、
感情も思考も価値観も
大きく変わる可能性がある。

だが、
今の社会が大きく変化するとは
到底思えない。

仮に変化するとしても、
社会は強者に都合の良い方向にのみ転ぶ。

コロナ禍において、
一部の限られた人のみが実現可能な、
「在宅勤務」という労働形態が誕生し、
その後、それが〈普通〉となったように。

変わることが(ほとんど)ない社会で、
生きる(働く)場所を変えることが
(ほぼ)不可能な多くの人は、
自らが属する社会のルールや常識を
(意識的に)疑うことなく遵守し、
全身全霊で社会(強者)側の意向に沿う。

環境に対する拒絶反応の結果として、
うつや適応障害を発症した人でさえ、
その治療(回復手段)として、
〈社会に合わせて自分自身を変える〉
ことに必死である。

冷静に考えてみると、
かなりマゾ全開の治療方針ではないか。

まるで、
何らかのアレルギーを持つ人が、
アレルギー反応が出なくなるまで、
アレルゲンを摂取しまくる、

もしくは、
一昔前の正しいセクハラ対処法
「セクハラは笑顔で受け流しましょう。
それが一人前の社会人の対応です。」

のようだ。

ちなみに、
セクハラ被害を受けた場合、
例え演技であっても、
好意的な態度を示してはいけない。

セクハラ加害者が
「相手が嫌がらなかった(=喜んだ)」
と一度でも学習すれば、
以後、同様のことを繰り返す。

よって、
「セクハラを笑って受け流す」は
一番してはいけない対応なのである。

難しく考える必要は全くない。
犬のしつけ(調教)と同じだ。


◼️「無敵の人」量産社会

うつや適応障害は、
アレルギー反応やセクハラ嫌悪と同様、
特定の環境に対する拒絶反応である。

その解決方法として、
当事者(拒絶者)自身に変化を求めるとは
不当であるどころか、
その問題点をすり替え、解決を保留に
(問題を助長)する行為ではないか。


アレルギー反応を完全放置(無視)すれば、
アレルギー保持者は最悪、死に至る。

社会全体が、
セクハラ行為を受け流し続けた結果、

何がセクハラで
何がセクハラでないかが
全く分からない、

完全無知で、無敵の
セクハラ加害者が誕生し、

セクハラ問題を更にこじらせている。


うつや適応障害を「病気」と見なし、
サディスティックな〈治療〉を促すことは、
生産性と効率のみを頂点とする
能力主義的バトル・ロワイヤル
社会全体で開催することになりはしないか。


◼️「使えない人」製造バトル

何のアレルギーも持たず、
セクハラは余裕であしらえて、
(何なら、セクハラをする側に属し)

サイコパス的な状況対処能力を持ち、
(↑褒め称えています)

能力主義的バトル・ロワイヤルやる気満々の
現在における勝ち組の皆さん


今、自分のしている顔を、
鏡でよ~く見て、覚えていてほしい。

今の貴方と全く同じ表情の、
眼と口の端を(ニヤニヤ)美しく歪めた、
もしくは、「我関せず」と視線で語る、
そんな誰かが、いつか必ず、
貴方の視界のどこかに現れる。

世界は広大で、時間は残酷だからだ。

貴方以上の能力を持つ存在はざらにいて、
肌のハリの如く、生物の能力は
衰えることが約束されている。


負け組所属の、
私の言葉だから反論できるのだ。

貴方より優秀な者からの言葉であれば、
果たして反論できるだろうか。

「お前、使えない…」



◼️ハイスペックBUG

どうしても受け入れられない状況に、
心の底から全力で拒絶すること
(=うつや適応障害)とは、
至極真っ当な反応だ。

極限の嫌悪感を
徹底的な好意(的態度)に変換し、
アウトプットし続けられる人は、
普通〉に考えて、
生物的に危険極まりない。

今の世の中は、おそらく、
その〈普通〉がバグっている。

ハイスペックの人が設定する
普通〉が基準となり、
それ以下を切り捨てることを前提とした
制度設計が何故か〈普通〉になされている。


外交的で、
言語コミュニケーション能力に優れ、
人並み以上の能力や体力、
思考力や行動力がなければ、
社会では(ほとんど)必要とされない。

我々はいつの間にか、
そんなハイスペックな〈普通〉を
社会から刷り込まれている。


◼️うつ「病」という認識

うつや適応障害になった者は、
世界の主軸たる者の価値観・思考回路
(=どんな職場環境でも仕事をこなせ)
に拒絶で反応した者だ。

そして、

社会の成熟とは、
世界の主軸たる者の理想に叶う
単一規格の者のみで構成される世界
ではなく、
あらゆる人間の受け皿が存在する世界
で実現されるものである。

私は、そう考える。


病んでいるのは、
人ではなく、社会(構造)で、

変わるべきは、
人ではなく、社会(的価値観)だ。


私のこの主張が正しいのか、
ただの弱者の戯れ言なのか、
現時点で、私には判断できない。

何故なら、私はかつて
「セクハラを笑顔で受け流す」ことを
心のどこかで肯定していたからだ。



〈正義〉や〈普通〉は、
強者の主張・定義に依存する。

だが、

〈正しさ〉や〈モラル〉は、
強者の思想と異なる次元に存在する。

私には、そう思えてならないのだ。


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