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下北沢『燻製レコード』 【短編:約1400文字】

いつものように下北沢の街をぶらぶらしていると、古めかしい店構えなのに、初めて目にする店があった。

看板には『燻製レコード』と書いてある。これが店名なのだろう。レコード好きの僕は迷わず店に入った。

ドアを開け、一歩踏み入れた瞬間に、独特な匂いに気圧され慄いた。

「お客さん、初めてかい」

ピシッと整ったオールバックに黒いサングラスの、店主らしき人物が言った。60歳は越えているだろうか。

「これって…」
「あぁ、燻製の匂いだよ。表に書いてあったろう。音源を燻すと音色が変わるんだ。燻製の方法によっても違った味わいになる」

そう言うと店主は2枚のレコードを続けてかけた。スピーカーから流れたのはTHE BEATLESSの『Yesterday』だった。

確かに一方は寂寥感が強調され、一方は温かみが強調されているように感じられた。

「不思議なもんだろ?レコードだけじゃなくて、奥の棚にカセットテープもあるよ」
話好きな店主のうんちくをいろいろと聴いて、僕は1枚のレコードを購入した。1957年発表の名曲、Paul Anka『Diana』。

「また来てな」と言った店主に会釈をして、店を出た。

帰宅した僕はインスタントコーヒーを淹れ、買ってきたレコードをプレーヤーにかけた。
黒く光沢のある盤面に針を下ろすと、静かなワンルームの部屋に、軽快なリズムと、若々しくて人懐っこいポールの歌声が鳴り響く。

それと同時に燻製の香りが仄かに漂い、その香りと名曲に浸りながら、ソファに腰掛け、コーヒーを口に含み、そして目を閉じた。

脳裏に浮かんだのは、祖母との思い出。

幼少期、両親が共働きだった僕は、父方の祖母の家に預けられることが多かった。祖父は既に亡くなっていて、祖母と二人で過ごす時間が長かったから、自然とおばあちゃん子として僕は育った。

優しく快活な祖母の趣味はレコード集めで、その中でも一番のお気に入りがポール・アンカだった。僕の相手をしながら陽気に『Diana』を口ずさむ祖母の姿は、今でも忘れることが無く、心の中に刻まれている。

祖母と最後に会ったのは小学校の卒業式だった。両親の離婚が決まり、母と暮らすことになった僕は、母方の実家がある東京に引っ越すことになった。必然的に祖母とは疎遠になり、祖母が亡くなったことも喪中葉書で知らされた。

気がつけば、閉じていた目から涙が流れていた。疎遠になったまま何も行動しなかった、後悔の涙だった。

曲が終わる頃には、一つの誓いを立てていた。優しかった祖母にお礼を言う為に、墓参りに行く。そして、このレコードを墓前に捧げる。その為には苦手だった父に連絡を取らないといけないけれど、それでも必ず祖母に会いに行く。そう、心に決めた。

それからしばらくして、僕はまた下北沢を訪れた。

数年ぶりに父に連絡を取り、話をした。生まれ故郷に帰り、祖母の墓参りをすることが出来た。墓石を丁寧に洗い、墓前に『Diana』を捧げた。なんとなく、天国の祖母に喜んでもらえたような気がした。雲の向こうで、陽気に『Diana』を口ずさんでいるのだろう。

どうしてもあの店主にお礼を言いたくて、『燻製レコード』を探して歩いた。

けれど、『燻製レコード』があるはずの場所には全く別の雑貨屋があり、茶髪にピアスの若い女性店員にその話をすると、怪訝な表情を浮かべながら「もう何年も前から此処はこのお店ですよ」と言われた。

何かの間違いだと思い、下北沢の街を歩き回ったが、どれだけ探してみても、やはりあの店を見つけることは出来なかった。

下北沢『燻製レコード』

そこは訪れる者の人生に、風味を加える幻の店。

おしまい

元々は“毎週ショートショートnote”用に描き始めたのですが、全く400字で収まらず、結果としてテーマだけお借りする形になりました。たらはかに様、誠に申し訳ありませんm(_ _)m


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