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rivise 〜マスター タケルの場合〜【短編小説・前編】

※前編だけで10000字あります.....

「手術は成功しました。順調に行けば、このまま問題無く、普通に生活が出来るでしょう

坂崎碧(サカザキ アオイ)は3歳の時、心臓の手術を受けた。症状が出ていれば1歳までに済ませる事の多い手術だが、碧は明確な症状が見られなかったことで見過ごされ、3歳の時に病気が発覚し、急遽手術を受けることになった。

「良かったわ。本当に良かった…」

手術そのものはそれほど難しいものではないと医師から言われたが、初めての子どもであり、まだ3歳の長男が心臓の手術を受けるのだ。母の春子(ハルコ)は『自分の命と引き換えでも良いから、必ず成功してほしい』と、真剣に神に祈る思いだった。

父の洋輔(ヨウスケ)はその日、出張で海外に行っていて、帰って来ることは出来なかった。前日に電話はあったが「すまん。大事な商談があって、スケジュールを変えられないんだ」と言い、「先生も心配無いって言ってるんだろ」とそれほど心配している様子も無かった。洋輔が仕事最優先なのは結婚前からわかっていたが、初めての自分の子供が、命に関わる手術を受けるとなっても変わらないスタンスに、酷く温度差を感じていた。

春子が手術の成功に安堵して、そのことを泣きながら電話で伝えた時も、洋輔の反応は薄く、「そうか、良かったな。すまん、今移動中だから後で掛け直す」と言って、結局そのまま電話は掛かって来なかった。

そうしてだんだんと夫への不信が募り、その分碧に対する春子の愛情は少しずつ過剰なものになって行った。

手術の影響はほとんど無く、碧は順調に成長して行く。夫婦揃って早大卒の優秀な遺伝子により、勉強はよく出来たし、心配していた運動も何不自由無く行えていた。夫婦の関係には隙間風が吹いていたが、洋輔も家にいれば碧を可愛いがった。仕事を最優先にするのは家庭の為だと洋輔は考えていて、碧を愛する気持ちは本人なりに持っていたのだ。

碧の初恋は小学3年生になって間もない頃、相手はクラスメイトの男子だった。健康診断で上半身裸になった時に、碧の胸の傷痕を見た別の男子が「何それ、お前超気持ち悪い」と言ったのを見て、「やめろよ、可哀想だろ」と言って庇ってくれた。名前は石原優斗(イシハラ ユウト)。身長はクラスで一番高く、どちらかと言うと素行が悪くて先生からは目をつけられている生徒だった。

それ以来、碧は優斗に対して密かに恋心を抱くようになった。優斗の方は勿論そんな気は無かったが、成績が良く顔立ちの整った碧が自分と仲良くしてくれるのは、決して嫌な気はしなかった。先生や他の生徒から見ると不思議なコンビであったが、学校では常に二人一緒に行動するようになった。碧は放課後や休日もピアノや学習塾などで忙しかったが、少しでも時間があれば約束をして遊んでいた。

一緒にいる内に引っ張られていたのは、むしろ優斗の方だった。落ち着きのない優斗を碧が叱り、勉強に興味が無い優斗を教えた。先生の見る目が変わり、褒められることも増え、優斗もそれを喜んだ。

5年生になっても同じクラスになり、変わらず二人は一緒の時間過ごした。

ある日「俺ら親友だよな」と優斗に言われた時、碧は酷く複雑な気持ちになった。男子が男子を好きになることが普通じゃないことぐらい、ずいぶん前からわかっていた。だからこそ、優斗の前でそんな素振りを見せたことは一度もなかった。けれど、改めて「親友」という言葉を直接言われたことで、碧は感情の整理が出来なくなってしまった。

ただでさえ小学生だから恋愛のことなんてわからない。しかも相手は男子だ。普通にしていればバレることはないが、優斗にも自分がどう思っているのかは伝わらない。このまま卒業までの期間、ずっと複雑な感情を抱いて過ごさないとならないのか。ずいぶんと悩んで、碧は決心した。どんな結果になるかはわからないけど、きっと優斗なら受け止めてくれるはずだ。だから、正直に話してみよう。そう心を決めた。

しかし、現実は残酷なものだった。「俺、親友じゃなくて、優斗のことが好きなんだ」碧がそう言うと、勘の良い優斗はそれがどういう意味なのかを理解した。その上で、「そんなこと言われたら、俺、どうしたら良いかわからないよ」と言って、碧の前から立ち去った。それからは優斗は碧を避けるようになり、卒業まで一切会話をすることは無かった。他のクラスメイトにそのことを話したりせず、自分の中だけで収めたのは、碧を親友だと思っていた優斗の優しさだったのだろう。悲しみに暮れて、傷付き、涙を流したけれど、悲しかったのは自分だけじゃなかったんだと理解することが出来たのは、碧が大人になってからのことだった。

小学校を卒業し、中学生になり、本格的に思春期を迎えた時に碧の悩みはより大きく、そして深いものになった。他の男子が女子を性の対象として見るようになるのと同じように、男子に性欲を感じるようになって来たのだ。優斗は私立中学に進学したから、自分がゲイであることを知る生徒はいない。男子にも女子にも友達はいるし、誰もまさか身近にゲイがいるなんて思っていないから、話だけ上手く合わせていれば気付かれることはない。でも、それでは自分と同じ属性の者との出会い自体が得られない。現実的で具体的な問題として、鮮明に碧の前に立ちはだかるようになった。

悶々と悩む日々が続いた。最近ではインターネットを使って出会いを求めることも難しくは無いが、そこには大きなリスクを孕んでいる。社会的にはゲイに対する理解も進み始めていて、限定的ではあるが居場所も用意され始めている。だが、中学生の自分が公言出来るほどの環境は無く、そういう若者を騙す輩も少なからずいる。ゲイ同士だって、必ずしも味方ではないのだ。

碧をそんな悩みから一時的に解放してくれるのが、本とピアノだった。

海外の児童文学やファンタジー小説、それ以外にも哲学書は好きだった。何れも自分を違う世界へ連れて行ってくれる存在だ。日本の小説も悪くはないが、海外の方が描かれ方もより遠く感じられ、非現実的に空想出来るのが良い。哲学書は、そこに書いてある難しい表現や知らない言葉を調べたりしている内に、気がつけば時間が過ぎている。それらは碧の知識レベルや精神年齢を向上させる意味合いも持っていた。

幼い頃から続けているピアノも、現実から自分を遠ざけてくれる。好きなのはモーツァルトやワーグナーだ。譜面を目で追いながら、一心不乱に指を動かす。コンテストで入賞するような才能は無かったが、学校で弾くことがあれば、聴く生徒達を静まり返らせることぐらいは出来る。メトロノームの安定した、永久的なリズムに心を委ねるのも、心地良くて好きだった。

一度現実に帰れば悩みから逃れることは出来ないが、その一点を除けば、客観的に見れば順調な学生生活を送ることが出来ていた。

両親の関係はすっかり冷め切ってしまっていた。どちらかと言うと避けているのは春子の方で、洋輔は変わっていなかった。変わらない洋輔に対して春子が苛立っていたとも言える。それでも離婚の話が出なかったのは、碧の存在があったからだ。春子は碧に愛情を注ぐことで心のバランスを保っていたし、碧は春子の思いに応えるように頑張った。勉強も習い事も。洋輔もまた、碧が望むことを出来るようにと、少しでも上の役職に付き、収入を増やしたいと考え、仕事に時間を捧げたのだった。

碧が中学2年生の時、洋輔がシンガポールへ単身赴任することになった。新しく立ち上げる海外支部の支部長を任され、運営が安定するまでの当面の間は、余程の事情が無い限り帰国が許されない。会社から話があった時、洋輔は家族での移住を提案した。高校受験を考え始める微妙な時期ではあったが、海外での生活は碧にも良い経験になるだろうと思ったからだ。生活面は全て会社が面倒を見てくれるし、決して悪い条件ではない。しかし春子の方には全くその気が無く、碧も不安を訴えたことで、最終的に単身赴任という結論になった。

「碧、お母さんのこと、頼むな」
洋輔は日本を経つ少し前に、碧に対してそう告げた。春子が精神的に不安定になっていることを、洋輔はわかっていた。その原因が少なからず自分にあることも。だからこそ、家族全員異国の地で、環境を変えてやり直したいという想いもあった。結果としてそれは叶わなかったが、妻への愛情を全く失ったわけではなかったから、後ろ髪を引かれる思いで、碧に春子のことを託すしか無かったのだ。

洋輔がいなくなったことで、春子の心が良い方向に行くのかと碧は思っていたが、その予想は大きく外れた。冷め切っているようでいて、心の深い部分では夫との繋がりを求めていたのかも知れない。春子の碧への愛情は、徐々に依存へと変化して行った。過剰に期待をされ、上手く行かないとガッカリされる。時には強く叱責されることもあった。一日の行動は全て管理されている。碧自身も一般的な思春期の若者以上に大きな悩みを抱える中で、それはあまりにも酷な負担であった。心優しく、春子の愛情に応え続けてきた碧だったが、青い精神には、既に限界が近づいていた。

ギリギリの状態で何とか踏ん張りながら3年生になり、受験シーズンを迎えた。碧は自分で志望校を選び、そして合格した。都内でもトップクラスの私立の男子校だ。男子だけであれば、自分がゲイであることがバレにくく、同じような悩みを持つ者もいるのではないか。そう考え、男子校を選んだ。春子も女子はいない方が良いと思っていたから、碧の選択を尊重し、合格を喜んだ。

「坂崎、何かあったのか」
高校生活も慣れてきたある日の放課後、担任の西川が声を掛けた。碧が時折見せる暗い表情に、西川は気がついていた。
「いえ、別に何も」
悩んではいるが、人には話づらい内容ばかりだ。相談するのも気が引ける。
「悩みを一人で抱えるな。お前らはまだ若いんだから、わかる人間に相談しろ。踏み出さないと、沼から抜け出せなくなるぞ」
ぶっきらぼうな話し方をする西川だが、教え方は上手く、生徒一人一人をしっかり見てくれる教師で、碧にとって数少ない信頼出来る大人だった。

「話、聞いてもらっても良いですか」
そう言って、今抱えている悩みを全て…自身が同性愛者であることや、家庭の問題についても詳しく話した。
「坂崎、お前は本当にすごいよ」
碧には、その言葉の意味がわからなかった。
「それだけの悩みを抱えながら、よく今まで1人で頑張って来たな。普通ならとっくに勉強なんて投げ出して、現実から逃げて、下手したら引きこもっても仕方がないくらいだよ。それなのに…」
西川は目を潤ませていた。
「だけどな、坂崎、世の中には同じように悩んでいる人間がたくさんいる。もしかしたら、もっともっと深く悩んで、命を絶つ奴らだっているんだ。お前には、お前じゃなければ出来ないことがあるんじゃねえかな」
涙を拭いながら、西川が言った。そして、西川は碧を抱きしめた。西川は結婚して、子供もいる。自分がゲイだと言う話をしたばかりなのに、気にすることなくハグしてくれた西川に、人の温かみを感じた。僅かながら、心の痛みが和らいだ気がした。

部活は国語研究会を選んだ。小説が好きだったことと、大会などに縛られることが無い部活が良かった。そして、部活の無い日の放課後は校内にあるトレーニング施設を利用して体づくりをするようになった。直接的な経験は無かったが、自分はゲイとしては『リバ』になるのだろうと感じていた。攻めたいし、攻められたい。多様な趣向があるようだが、比較的筋肉質な男が好まれることを知り、以前から自宅で軽い筋トレはしていたが、無料で使える施設があるならとその環境を活用した。高校を卒業する頃には、服を着ていればわからないが、脱げば男でも触れたくなるような、美しいカットの体に仕上がっていた。

「君、文系の子じゃないの?」
2年生の夏、トレーニングルームで声を掛けられた。男は新田亮(ニッタ リョウ)と名乗った。3年生で、同じクラスの国研部員から「部活サボって筋トレやってる奴がいる」と聞いていて、碧のことを知っていたらしい。
「俺も軽音部なんだけどさ、メンバー集まらない日とか、気が向かない日はここに来るんだ。君は?」
「文系マッチョ目指してるんです。ギャップ萌えで、モテそうじゃないですか」
碧は適当に返事を返し、はぐらかそうとした。
「ふーん。君、こっち側の人でしょ?」
「え、こっち側、ですか?」
誤魔化してはみたが、新田の言った言葉の意味は、碧にも伝わっていた。
「トレーニングしながら結構見てるじゃん、他の生徒のこと。その時の目がね、やっぱり違うんだよね」
「そういうものなんですね。恥ずかしいです。初めて言われました、他の人から」
「まぁ、それほど多くはいないから、当たり前っちゃ当たり前だよな。でも、俺の場合は公認だから」
「公認?」
「うん、少なくとも仲の良い奴らはみんな知ってる。家族も、先生も」
「そんなことってあるんですか」
碧は率直に驚いた。
「運が良かっただけだと思うよ。たまたま身内や仲間が理解者ばかりだったってだけで、たぶんレアケースだろうね。友達信じてカミングアウトして、結果自殺しちゃう子もいるんだから」
それが現実なのだろうと碧も思っていた。だからこそ、公認という言葉に驚きを隠せなかったのだ。

その日から、碧がトレーニングルームに通う目的は、新田に会う為になった。新田と話している碧に対して「食われちゃうぞ」と冗談めかして新田の友人に言われることからも、『公認』という言葉が事実なのだとわかる。そして、碧がそちら側であることは、誰にも言わずに守ってくれていることも。

世界が全て、新田の周りのようであれば良いのに。碧はそう心から思うのだった。

新田との交流は筋トレに留まらず、趣味なども語り合うようになった。軽音部の部室で弾いたピアノの腕前に新田は驚き、新田のバンドの演奏を聴いて碧はロックに興味を持った。碧はファンタジー小説の良さを力説し、新田は太宰治や夢野久作について熱く語った。碧はスピルバーグが好きで、新田はキューブリックが好きだった。微妙にポイントは違うが互いの好きな物に興味を持ち、互いに世界が広がることを楽しんだ。

休みの日も行動を共にするようになり、その流れの中で体の関係に至るのも、ごく自然な事だった。男女のそれと、何ら変わりはしない。新田がリードする形でぺッティングをし始め、キスをして、濃密に交わい、射精した。行為の際中に「始めから体が目当てだったんですか」とふざけて言った碧に、新田も「まぁな」と笑って返す。その時間は誰に邪魔されることもなく、心も体も全てを解放出来た。勿論初めての経験で、肉体的には言葉で表現することすら困難な、現実的でありながら非現実的でもある、快楽とは少し違った感覚が残っていた。それでも、「少しずつな」という新田の言葉に、まだ先があることに喜びを感じ、感情を抑えることは出来なくなっていった。

新田と過ごす時間が増えて行く中で、本当の自分を解放する環境を得た碧は、自分を偽り続けることが正しいのかどうかと、新たな悩みを抱えるようになった。人生の全てを碧に注いでいるような春子に対し、現実を伝えるべきなのではないかとも思い始めていた。このまま自分に依存していたら、いつか父が帰国したとしても、きっと家族として上手くいかないだろうと。何日も悩んで考えた末に、母にカミングアウトすることを決意した。その時は、そこに少なからず若さ故のエゴイズムが含まれているとは、碧は自分で気づくことが出来なかった。

碧は春子に伝えるタイミングを探っていた。伝えることを決意しても、実際にはなかなか言い出せずに時間が経過していった。そのまま時は流れ、結局伝えたのは受験勉強で疲弊気味だった、3年生の11月末である。

後になって振り返れば、タイミングとしては最悪だったと理解は出来た。碧に依存することで、ギリギリで精神的なバランスを保っていた春子には、碧のカミングアウトを受け止める余裕などあるはずも無かったのだ。碧自身にとっても大きな覚悟のいることであったが、幼い頃に一命を取り留めた、愛する一人息子からの告白により、ヒビの入っていた春子の心は呆気なく瓦解した。声を発する事なく泣き崩れ、それ以降、会話もままならない状態になってしまった。

どうすれば良いか迷った碧は、まず新田に連絡した。話を聞いた新田は「なんで言う前に相談しないんだよ」と碧を叱った。そして「俺には話を聞くことと、お前を慰めることぐらいしか出来ねぇよ」と言った。「お父さん、海外にいるんだろ。まず最初に伝えるべきはお父さんだ。後は、西川はお前のこと知ってるんだろ。相談するとしたらその辺りじゃないか」碧は「ありがとう」と伝えて電話を切り、今度はシンガポールの洋輔に電話をした。

普段なら一度着信を残し、洋輔の都合で折り返して来るのだが、今回は2コールで電話がつながった。「どうした」と言った洋輔に、碧は母の状態を話した。しかし、自身のカミングアウトについて話すことは、その時の碧には出来なかった。目の前で崩れ落ちた母の姿を見てしまった碧は、父まで壊れてしまうことを恐れた。「わかった。後で掛け直す」そう言って洋輔は一度電話を切った。碧は期待半分諦め半分といった思いで待った。今までずっと仕事最優先だった父だが、さすがに助けてくれるだろうという希望と、今回も「すまん」の一言で片付けられるのではないかという疑念。

1時間も経たない内に電話が鳴った。
「これから準備して、一番早く乗れる飛行機で帰る。しばらく頑張ってくれ」
洋輔の以外な言葉に安堵し、碧は泣いた。翌日の午前中には帰れるとのことだったが、表情を失った母を前にして、落ち着いて眠ることなど出来るわけもなく、父の帰りを起きて待った。

深夜1時頃、新田から電話が掛かって来た。
「落ち着かなくてな」と新田は言った。そしてそのまま朝まで電話を切らず、眠れない碧に付き合った。ほとんどの時間は沈黙だったし、何を話したかはあまり覚えていない。だが、新田と…、誰かとつながっていることが、今の碧には必要だった。そうしないと、自分も壊れてしまうと感じていた。

洋輔は午前11時頃に帰宅した。帰るなり、玄関で待っていた碧を抱きしめて「すまん、心細かったよな。本当にすまん」と詫びた。そして早足で春子の下に行き、春子を同じように抱きしめ、同じように詫びた。しかし春子から反応らしい反応は無かった。辛うじて「おかえり」と発しはしたが、視線は宙を泳ぎ、感情を何処かに置き去りにしてしまったような、単なる言葉だった。
「父さんごめん、俺、母さんのこと守れなかった。俺のせいなんだ。本当にごめんなさい」
止めどなく溢れる涙を拭うことも忘れ、碧は洋輔に謝った。俺のせいという言葉には、酷く重い意味合いが込められていた。
「お前は何も悪くない。ここまでなる前に、父さんが無理にでも帰って来るべきだったんだ。これからは、俺が母さんの側にいるから、お前は何も心配するな。辛い思いをさせちまって、本当にすまなかったな」
「仕事は…」と碧が言い掛けると洋輔は「シンガポールの方はある程度任せられる環境が出来たから、家の事を話して休職させてもらえることになった。復帰するとしても、東京本社に戻してもらえる」と説明した。

洋輔の帰国により家族が揃ったが、久しぶりの3人の生活は、あまりに歪なものであった。これまでほとんど家にいなかった洋輔が家事の大半を行い、春子はなんとなく、そこにいる。ただ、いるのだ。そして碧はいつも通りに学校に通う。罪悪感を感じながらも、家にいるのも辛くて、学校という存在に救われているようでもあった。

帰国した翌日、洋輔は知人に紹介してもらった精神科に春子を連れて行った。何年かぶりの2人でのドライブがこんな形になってしまったことを、悲しみ、そして悔やんだ。後戻り出来ないことはわかっているが、それでもやはり、あの日あの時…と考える。話し掛けても春子からは薄い反応しか返って来ないが、失った時間を少しでも取り戻すように、助手席の春子に声を掛け続けた。

鬱と統合失調症の併発。記憶障害もあるようだと、精神科の担当医は言った。投薬と定期的な通院が必要になり、春子に合った治療を模索するが、治るとも治らないとも現時点では言えないとのことだった。覚悟はしていたが、医師から直接言われた言葉は洋輔に心に重く響いた。もしかしたら仕事を辞めることになるかも知れないなと思考を巡らせ、最後には、それでも出来る限りを尽くそうと決意を新たにした。

大学病院の側には大きな公園があった。春子の手を引き、公園を散歩しながら、時折頷く程度の妻に対して、洋輔はシンガポールでのことを話した。ベンチに腰掛け、2人でソフトクリームを食べた。春子は食欲も無かったからほとんど食べなかったが、それでも良かった。付き合い始めた頃を思い出して泣きそうになったが、その涙は自分が流すべき涙ではないと思い、拳を握り、必死で堪えた。

同じ日の放課後、碧は西川に時間を作ってもらい、全てを包み隠さず話した。話が終わった時、西川はすぅっと大きく深呼吸をした。
「内容が濃過ぎて、呼吸するの忘れちまったよ」
意図して、くだけた感じで西川が言った。
「新田に一票だな。もっと早く相談してほしかった。今となっては手の打ちようがねえよなぁ。ご両親の事はご両親に任せるしかない。何より、とにかくお前は自分を責めるな。タイミングは間違ったかも知れないが、だとしても、お前が悪いわけじゃないんだ。お前が選んだわけでも望んだわけでもない。お前の意思で決めたこと以外、お前が責任感じる必要なんかあるわけねぇんだ」
心から頷くことは出来ないが、第三者からそう言ってもらえるだけでも、少し救われる。
「前にも言ったろ。お前には、お前にしか出来ないことがある。俺はそう思う。でもそれはな、自分で気がつかないとダメなんだ。お前の意思で決めて、選択しないとダメなんだ。辛いだろうけどな、宿命みたいなものなのかも知れんな」
宿命なんて、そんなもの、存在するのだろうか。碧には、よくわからなかった。
「いつでも相談に来い。次は遅れるなよ」
西川の力強い言葉に、碧は感謝を伝えてその場を辞した。

新田は高校卒業後、進学せずにアルバイトをしながらバンド活動に専念していた。学校から出た後、新田のバンドが練習しているスタジオに碧は向かった。

スタジオの中で、練習を見学させてもらった碧は、その音量に驚いた。ボーカルのアカペラから演奏が始まった瞬間に、鼓膜にビリビリと響き、全身に震えが走った。激しい演奏に乗せて歌われている歌詞は、純粋なのに天邪鬼で、真っ直ぐな反骨心に溢れている。ザ・ブルーハーツの『リンダリンダ』という曲だと新田が教えてくれた。何処かで耳にしたことはあったかも知れないが、ちゃんと聴いたのは初めてで、碧の傷だらけの心に激しく突き刺さった。たったの一曲だったのに、しばらく全身に余韻が残っていた。

「普段はオリジナルとコピー半々でやってるんだ。今の碧にはたぶんコレだろうと思って、来る前から練習してたんだよ」
新田がそう言うと、ボーカルの天田が「新田から君へのラブソングだって言われたから、めっちゃ真剣に歌ったよ。っつか、歌ってんの俺じゃん」と新田を茶化した。

スタジオを出た後、他のメンバーと別れ、新田の家で2人は過ごした。いつものように話し、いつものように交わった。碧もだんだんセックスに慣れて来て、新田にリードしてもらうばかりでは無くなっていた。相手の反応を喜び、それは探究心や、ある種の自主性だったり、自立心にもつながって行った。
「俺も西川と同じように思う」
新田が言った。
「お前じゃなきゃ出来ないこと、あると思うな。自分だってもうとっくにボロボロで、全部誰かのせいにしたり、逃避してもおかしくないはずなのに、いつも自分を責めて、誰にも刃を向けない。それって、普通に出来ることじゃないよな」
碧は黙って、新田の言葉を聞いていた。
「頭も良いし、ルックスも良い。何かわからないけど、惹きつけられる感じがあるしな。ハッキリ何とは言えないけど…お前ももう、何か気づき始めてるんじゃないか」
新田はそう言ったが、碧自身はそれが何なのか、まだわからなかった。  

父がいて、新田や西川がいる。音楽や小説もある。そして何より、母がいなければ自分は存在していないし、ここまで育ってもいない。多くに支えられて、自分は生きている。新田の家からの帰り道、そんな思考を巡らせながら、「俺、恵まれてるじゃん」と碧は呟いた。

〈後編に続く〉

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