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【ピリカ文庫】「卒業」

春というのは教職に従事する私にとって、複雑な気持ちにさせられる季節だ。

1年間を共に過ごした生徒と別れ、時に見送り、時に見送られて、喜びと悲しさが同居するような、そういう季節なのだ。

小学校を卒業して大人の階段を上り始める中学生の1年間は、どの学年であっても大人が思うよりも遥かに濃く、そして長い。多様な個性を持つ生徒たちと格闘しながら過ごした1年は、私にはどれ一つとっても大切な思い出だ。

「今度同窓会をしたいと思っているのですが、葛城先生もゲストで参加して頂けないでしょうか」

電話をかけてきたのは、7年前に卒業生として見送った宮村慎太郎だ。成績優秀でスポーツ万能で見た目も良く、いつもクラスの中心的な生徒だった。

私立鳳翔中学校3年1組、生徒数は32名。卒業アルバムを見なくても明瞭な記憶として思い出せる、特別な卒業生たちだ。それは卒業を間際に控えて起こった、春になると必ず思い出すある出来事と共に。

もうすぐ卒業という2月下旬、クラスは一つの話題で持ちきりだった。それまでどちらかというと日陰の存在だった河野駿という男子生徒が、全国ネットのヴォーカルオーディション番組で最終選考まで残ったのだ。テレビの影響力は強く、まだ最終選考に残ったというだけなのに、日陰の雑草が突如としてクラスの、そして学校の中心で開花した。私も自分のクラスに明るい話題をもたらしてくれた河野を誇らしく感じ、「能ある鷹は爪を隠すだな」と言ってみんなの前で称えた。今になれば、担任教師という立場を忘れて浮き足立ってしまったという思いもある。

残念ながら、最終的に河野は優勝することは出来なかった。個性的な声質を持つ河野への審査員評価は軒並み高かっただけに、本人も涙を流して悔しがっていた。私もテレビの前で心底悔しい気持ちになった。何千人という参加者の中で、優勝し、デビュー出来るのはたった1人の狭き門なのだ。残酷な結果だが、決勝のステージで、想像を絶する緊張の中、本当よく頑張ったと思う。

その放送の翌日、3月9日のこと。ホームルームに向かうよりも前に、学級委員の棚村莉子が教員室に私を呼びに来た。普段は常に冷静沈着な印象の棚村の慌てた表情と雰囲気から、何かがあったことはすぐに伝わってきた。
「葛城先生、あの、河野くんの机の上にマジックでザマーミロって書かれてるんです」
それを聞いて急いで教室に向かうと、デスク全面に、赤い油性マジックで大きくザマーミロという文字が書かれていた。動揺したが、幸いだったのはクラスメイトの皆が河野を励ましていて、本人もそれほど気に留めていないようだったこと。
「僕はもう終わったことだと思ってたし、今までこんなに声を掛けてもらうこともなかったから。中にはそういう人もいるかなっていうぐらいにしか思わなくて」
放送前に自分の中では整理がついていたのだと淡々と話す河野に、私はすまないと伝えた。こういった事があった時、問題の大小は被害者生徒の反応に大きく委ねられる。卒業前に騒ぎになるのは、私としても怖かった。だから、河野の言葉に私は心から安堵した。保身と言われればそうかも知れないが、やはり自分のクラスで、卒業目前に事件なんて考えたくもない、それが正直な気持ちだ。

それにしても、やはり見過ごすことは出来ない。美術の先生に溶剤を借りてデスクの落書きを消した後、一時限目の授業を中止して緊急のホームルームの時間にした。

「なぁみんな、先生は本当に残念でならない。まさか卒業目前にこんなことがあるなんてな、思いもしなかったよ」
偽らざる気持ちを話し始めると、生徒たちは皆一様に沈黙し、真剣な目で私の方を見た。この中に犯人がいるとは思いたくなかった。
「最初に見つけたのは誰なんだ」
ただ事実が知りたくて、問うた。
「始めに教室に着いたのは、アタシと杏奈です」
そう言ったのは、クラスのムードメーカー椎名梓だ。羽村杏奈との仲良しコンビで、登校から下校までいつも一緒に行動していた。二人の周りにはいつも笑いに溢れている。
「でも、アタシたちが着いた時にはもう落書きされてて。その後に莉子が来て、それから少しずつみんなが来て…、ね、杏奈」
椎名が呼び掛けると羽村は大きく頷いて「マジです先生、アタシたち河野っちのことめっちゃ喜んでたし。絶対嘘じゃないです、信じて下さい」と言った。普段の屈託のない笑顔とは違う、真剣な顔で。
「ああ、信じてるよ。誰のことも疑いたくないから、だから事実確認をしてるんだ」
取り繕って言ったが、実際は半信半疑だった。矛盾もわかった上だ。彼らはまだ中学生だし、衝動的な思いを行動に移してしまうことは珍しくはない。過去の経験から、全てを信じることは出来なかった。
「みんな済まない、念の為だ。全員目を瞑ってくれ」
私が言うと、「うーわ、マジで」とか「ドラマで観たやつじゃん」などとざわざわしながらも、生徒全員が目を閉じた。勿論被害者の河野も含めてだ。
「もしこの中にやった人間がいるなら、素直に手を挙げてほしい」
自分の口からこんな台詞を言う日が来るとは夢にも思っていなかった。何か動きがないか一人一人に目を配る。静寂に包まれた教室に、校庭や隣のクラスの声が漏れ伝わって来る。沈黙のまま30秒待った。動きはない。それ以上待つことに意味があるとは思えなかった。
「ありがとう、みんな目を開けて」
それぞれのタイミングで目を開けて、光に慣らすようにまばたきをする。
「誰も手を挙げなかった。このクラスには犯人はいない。他のクラスの先生にもちゃんと調べてもらう。河野、それで良いか」
私の呼びかけに対し、河野は無言で頷いた。異論があるような表情ではなかった。

その後は通常通りに授業を行った。校長に報告し、その日の夕方には緊急で教員会議が開かれた。結果として、全学年全クラス個別で生徒への確認と目撃情報を募ることになったが、結局犯人はわからないままだった。担任として河野の自宅に伺い保護者への説明と謝罪をしたが、本人同様の反応で「本人も気にしていないから、必要以上に引きずるのは関係ない子どもたちの為にも良くないと思います」と逆に嗜められてしまい、お礼を伝えて面談は終了した。

河野自身もそうだったが、子どもたちの切り替えは早く、表立って落書きの件を引きずる者はいなかった。そうしてそのまま卒業を迎えたわけだが、私としては何処かすっきりとしない曇天の空のような、そんな気持ちで彼らを送り出すことになってしまったのだった。

その夜はテレビで観た晴天の予報に反して小降りの雨が降っていた。傘を持つべきか否かの判断を強いられるような、曖昧な空模様だ。暦の上では春とは言え三寒四温、まだまだ夜の雨は冷たい。
「今年大学卒業して就職する人も多いし、一回みんなで集まろうぜって話になって、せっかくだから葛城先生にも来てほしいよねって」
文化祭実行委員ではなく、一部の生徒による発案で決まったのだと宮村は説明した。
「3月9日を予定しているんですが、先生のご予定は如何でしょうか」
3月9日。その日を設定したのが偶然じゃないことは直ぐにわかったが、敢えて口には出さなかった。そこには彼らなりの意図があるのだろうと感じたからだ。
「ああ、その日なら予定を空けられると思う。私も是非参加させてほしい」
嘘偽りの無い本音だった。

あれから7年が経ち、その間に二度学校を移った。年数分の新しい生徒との出会いと別れがあった。時間は現実的に流れている。それなのに、喉元に刺さった小骨が毎年春先になると疼くのだ。その記憶に触れた瞬間、時間は巻き戻され、私は鳳翔中学校3年1組の教室にいる。彼らは今でも中学生のままだった。学生服を着た生徒たち。記憶の中の彼らに会う度に、犯人は誰なのかと幾つかの憶測を繰り返し反芻した。
一番に疑ったのは、第一発見者の椎名と羽村だ。口裏を合わせれば、互いが目撃者となりアリバイが成立する。しかしながら、あの日の二人の反応は嘘をついているとは思えなかったし、何より理由が見つからない。
次は宮村だ。いつもクラスの主役だった宮村も、最後の最後で河野に主役の座を奪われたのだ。気高くも青いプライドが傷つけられたと考えても無理はないだろう。
そして学級委員の棚村も。クールな彼女だが、一番の得意科目は音楽だった。吹奏楽部の部長も務め、歌が上手いと言えば真っ先に棚村の名前が挙がる。宮村同様、嫉妬心から生じた一時の衝動でやってしまうことも有り得る。
そしてひとしきり想像を巡らせた後、心を支配するのは罪悪感だった。何回考えたところで答えに辿り着くことはできず、霧の中を彷徨うだけなのだ。それは邪推でしかない。なのに、想像の中で容疑者を作り上げてしまう自分への罪悪感。もしかしたら、毎年春になると心を覆う陰鬱な雲が晴れるのではないか。そんなことを考えながら、同窓会の会場がある日本橋に向かった。

念の為に鞄に入れておいた折りたたみ傘が役に立った。地下鉄日本橋駅を外に出ると、雨足は強まっていた。駅から会場の飲食店までは歩いて5分程度だったが、久しぶりに会う生徒たちとずぶ濡れの再会は遠慮したいところだ。そうならずに済んで良かった。
少し迷いながら目的地まで歩いて行くと、店の前で宮村と棚村が出迎えてくれた。記憶の中の彼らからは想像できないほど大人になっていた。当たり前かも知れないが、きっと街ですれ違っても気づくことはないだろう。
「もう参加者は揃ってるんです。先生がサプライズで登場して、盛り上がったところで乾杯しようと思って」
店に入る前に、宮村がそう説明してくれた。
「そういうことなら先に言ってほしいもんだな。こっちにも心の準備があるんだから。これでシーンってなったら目も当てられないだろう」
そう私が言うと「考えてなかったっす」と言って宮村と棚村が笑った。
二人にアテンドされて貸し切られた大部屋に入ると、3年1組の生徒たちが歓声で迎えてくれた。

乾杯の音頭は男子の学級委員だった小川智也が取った。当時はどちらかと言うと渋々学級委員になったこともあり、大半を棚村任せにしていた印象だったが、今目の前にいる小川の立ち振る舞いは堂々としたもので、しっかりと前口上を話してから乾杯をした。後で聞くと、春からコンサル系の企業に勤めることになっていて、人前で話すことをかなり練習したらしい。「すごいな、尊敬するよ」と私が言うと「先生に褒められたの、初めてかも。ありがとうございます」と照れくさそうな表情を浮かべた。「そうかぁ」などと返したが、確かに小川を褒めた記憶はなかった。
乾杯のビールを軽くあおり、生徒たちに視線を送る。記憶の中では中学生のままの彼らだが、実際にはすっかり大人だ。当時の面影をそのまま残している者もいれば、垢抜け過ぎて一致しない者もいた。それぞれの事情で参加できない者を除き、25名程揃った教え子たち。一人一人と話す都度、時間は正しく流れているのだと、改めて感じさせてくれた。

楽しい時間はいつもあっという間に過ぎていく。みんなアルコールが入り各席で盛り上がる最中、棚村と椎名、そして河野の三人が私のところにやってきた。
「お話したいことがあります」
今この場には不似合いなほど真剣な表情の棚村が切り出した。私はわかっているという意味を込めて「ああ、聞かせてくれ」と返した。
「7年前の3月9日、先生は何があったか覚えてらっしゃいますか」
「うん、よく覚えているよ。最後まで犯人がわからないまま、うやむやになっちまったんだ。忘れられるはずがない」
「やっぱりそうですよね。アタシたちも卒業後、たまに顔を合わせるとどうしてもその話になりました」
それは意外だった。彼らはすっかり切り替えているように私には見えていたからだ。
「そうか、そんな気持ちで卒業させてしまったんだな。私の力不足で申し訳なかった」
私の言葉に棚村が首を振り、引き継ぐように椎名が話し始めた。
「話しても結局いつも答えは出なくて。だけど、最近になってわかったんです」
「誰がやったかが…、かい?」
私が尋ねると椎名は頷いて、「実は…」と続けた。瞬間、7年の間繰り返してきたあの幾つかの邪推が脳裏を駆け巡った。そして、その思考は思いがけない形で断ち切られる。
「あの…」
話そうとした椎名を遮り、今まで黙っていた河野が口を開いた。
「あれは…、あの落書きは俺が自分でやったんです」
思わず「えっ」と吃驚の声を漏らしてしまった。まさか河野自身の仕業だとは、ゆめゆめ考えもしなかった。
「俺、ずっと目立ちたかったんです。ずっと。だけど引っ込み思案だったし、何も特技なんてなかったし…」
一息間を置いて、河野が言葉を絞り出す。
「3年生で宮村と同じクラスになって、一回何人かでカラオケに行ったことがあって。その時に「お前めちゃくちゃ上手いな」って褒められて。自分じゃよくわからなかったけど、その言葉のおかげで生まれて初めて挑戦してみようと思って、それであのオーディションに応募したんです」
涙をこらえながら、時に声を詰まらせながら、それでも目を私からそらさずに話し続ける。河野はすっかり垢抜けて、当時の素朴な印象からは想像もつかないほどだった。しかし、真っ直ぐこちらを見るその眼差しは、中学生の、学生服を着ていた少年のままだ。
「まさか自分が決勝まで行けるなんて、全然思ってなくて。最終選考までのことがテレビで放送された次の日、いつも通り学校に来たらすごいみんなから声をかけられました。学年も男女も関係なく、今まで話したことのない人からもめちゃくちゃ褒められたんです」
「そりゃあ先生だって驚いたよ。河野にそんな才能があるなんて知らなかったからさ。音楽の先生も驚いていたくらいだ」
私が冗談めかして言うと、河野の口元が少し緩んだ。
「はい。だけど結局優勝は出来なかった。俺、怖くなっちゃって。初めてみんなに注目されたのに優勝出来なくて、きっとみんなガッカリするだろうし、また元の何もない自分に戻っちゃうって。優勝出来なかった悔しさよりも、それが怖くて」
「それでやったのか」私の問いに河野は頷いた。
「今になれば、本当に馬鹿げてるって自分でも思います。でも、あの時は衝動的にやってしまって、悲劇のヒーローになればまた注目してもらえるかもって。でも実際にやってから、みんなから励まされている内に少しずつ、俺は何やってんだろうって思い始めたんだけど、今度はもっと怖くなって来て。本当は自分でやったんだなんて…、言い出せなくなってしまったんです」
それが7年前のあの出来事の顛末だった。
前の日の下校前、誰もいなくなった後に書いて帰ったから、翌朝まで誰も気がつかなかったというのが事の真相だったらしい。自作自演。話を聞きながら、若く脆い心の揺らぎに気づいてやれなかったことを、私は後悔していた。
「そのまま卒業して、完全に話す機会を逸してしまいました。でも、ずっと後悔は引きずったままで、毎年この時期が来ると酷く息苦しさを感じるんです。それが辛くて。勿論自業自得です。何もかも自分が悪いのはわかってます。だけど…」
こらえきれなくなり、涙が溢れ落ちた。
あの日からずっと、春に複雑な想いを感じ続けていたのは私だけではなかった。それ以上に、一時の衝動によって自分自身が抱え込んでしまった重しに、長い間悩んできたことだろう。そして今、自らの意思で重しを下ろすため、覚悟を決めてあの日の過ちを告白したのだ。私は正面に座っている河野の頭に右手を置いた。
「河野、ありがとな」
自然と出た言葉だった。
「何故ですか。ありがとうって、俺、礼なんか言われる理由がないです。先生には一番迷惑かけてるし」
「そりゃあ確かにやるべきじゃなかった。すぐに名乗り出て、謝るべきだったよ。でもな、人間ってそんなに簡単じゃない。特に中学生の頃なんて、大人にはわからない悩みを抱えてたりするもんだ。俺は担任として、お前の性格もある程度理解してるつもりだったよ。でもさ、それが驕りだと気づかせてくれた。悩んだ時間分、俺も成長させてもらえたよ」
これで晴々とした気持ちで今の教え子たちを送り出せる。そして何より、春を気持ち良く迎えることが出来る。
「あのね先生、河野さ、今度デビューするんだよ」
河野の話を横で聞いていた椎名が言った。
「あ、それは俺が自分で言いたかったのにー」
河野が椎名を睨みつける。
「ずっと隠してた罰ですー」と椎名がふざけて言うと、河野は「ちぇっ」と言って拗ねたように苦笑いを浮かべた。
「俺、自分の歌で喜んでもらえるんだって知って、あれから必死でギター覚えて、高校の軽音部でバンド組んだんです。それも宮村に「お前の声ってロックだな」って言われたのがきっかけで」
少し離れた席で様子を見ていた宮村を手招きで呼び寄せた。
「そのバンドはしばらくやって解散したんですけど、たまたま宮村と会って音楽の話で盛り上がって、遊び半分で「一緒にやろうか」ってなって。元々楽器出来る棚村にも声をかけてバンド組んだんです」
「そのバンドでデビューするのか」
思わず河野の話を遮って聞いた。
「はい。出させてもらってたライブハウスの店長が俺のこと、あの番組観ていたらしくて知ってて、バンドも気に入ってくれて、知り合いのレコード会社の人に紹介してくれて、とんとん拍子でデビューの話になりました」
さっきまでの暗かった表情が嘘のように、今いきいきと河野は話している。
「俺、親を説得するのすっげー苦労したんですよ。何せ天下のT大生ですからね」宮村がドヤ顔を作り、笑って言った。
「アタシだって騙されてんじゃないのって、今もママにまだ心配されてるわよ」
そう言った棚村もやはり満面の笑みを浮かべている。
「デビューの話を聞いて、あの日のこと黙ったまま前に進めないなって思いました。それで練習の日に打ち明けて」
「聞いた瞬間は結構ショックだったけど、河野の話聞いたら責める気になれなかったっす。誰よりも悩んできたの、本人だから」宮村が言うと、横で棚村も頷いた。
「先生、今度ライブに来てください。河野の歌、本当にカッコ良いんだから」身を乗り出して椎名が言うと「なんでお前が言うんだよ」と言って、宮村が額を小突く。「痛ったー」と椎名が顔を顰めると、みんなが一斉に笑った。
「仲良いなぁお前ら。卒業した後もずっと一緒にいたんだな」
中学時代の友人と長くいることは珍しくないが、これほど強い結びつきを目の当たりにするのは初めてのことだった。
「ザマーミロ事件があったからだと思うんです」
宮村が言った。
「ね。なんて言うか、普通じゃ出来ない経験と時間を共有した仲間みたいな」
棚村が続く。
「だから、なんか変かも知れないけど、みんな河野にちょっと感謝してるんです」
椎名が言うと、河野は首を横に振った。だが、椎名の言葉の意味は私にもわかる。
「「全員目を瞑ってくれ」なんて、普通一生言われることないですもん」
私の口調を真似て宮村が戯けて見せる。
「おいこら宮村…」
「宴もたけなわではございますが、そろそろ終了のお時間と相成りました」
私が言いかけたところで小川が締めに入った。棚村が締めの言葉を述べて、同窓会は終了となった。

二次会にも誘われたが、名残惜しい気持ちを抑えて断った。私の役割は一次会で終わったように感じていたし、明日も学校がある。今日、鳳翔中学校3年1組を改めて送り出すことが出来たように、今の教え子たちもまた、もうすぐ見送らなければならないのだ。

帰り際、「俺、これでちゃんと前に進めそうな気がします」と河野が言った。「ああ、俺もだよ」と私も返した。

店を出ると、雨はすっかり上がっていた。駅に向かうまでの日本橋の風景が、来る時と違って見えたのは雨のせいだけではないだろう。

今年も春は、もうすぐそこまで来ている。

終わり

ピリカ様にご依頼を頂き書かせて頂きました。


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