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映し鏡【ショートショート】#夏ピリカ応募作品


「…なんだ?」
乗っていたエレベーターが突然停止した。
「クソッ、ふざけんな!」
非常ボタンを押しても何も反応が無い。

その日、海老原正男は派遣アルバイトで、ビル警備の夜間勤務中だった。

警備と言っても23時には全ての階の従業員が退勤し、仕事と言えば清掃業者の受け入れくらいだ。後は寝てたって怒られやしない。

それなのに、今夜に限ってこの仕打ちだ。薄暗い個室に一人。生憎なことに携帯の電波も届かない。外と繋がりは今、ゼロだ。

「なんなんだ、くそったれ!」

腹が立って後ろを振り向き、壁を蹴飛ばそうとした。しかし、そこには全身鏡があり、足を止めた。

鏡に映るのは、頭髪がすっかり薄くなり、腹の肉も弛みきった、とても30代前半には見えない情けない男の姿だった。

学生時代の海老原はスラッとして、頭の良い男だった。反面、いつも周りの人間を見下して生きて来た。一流企業に就職したが、無能な上司の下で働くことに嫌気がさして退職した。同じような辞め方で職を転々としている内に、辿り着いたのが今の仕事だ。

生活はギリギリだが、無能な連中といるよりマシだ。同僚は社会の底辺みたいな奴らばかりだから、挨拶する必要も無い。そうやって自己弁護をしながら、月3万円の安アパートで独り暮らしをしていた。

鏡に映る自分を、蔑むような目で睨みつけた。

その内に、鏡の中の自分がぐにゃりと歪み始め、何かの映像が流れ始めた。

鏡の向こうにいたのは、幼い頃の海老原だった。幼い自分が…犬に石をぶつけたり、友達を叩いて泣かせたり、駄菓子屋でお菓子を盗んだりしていた。

「なんだよこれ…」

海老原が呟いたが、映像は続く。

悪戯仲間と他人の家に石を投げたり、爆竹を投げ入れた。同級生を虐め、不登校に追い込んだ。成績の良い女子のランドセルを、カッターで切り裂いた。

中学高校と進んでも、教師にバレないように悪事を重ねた。前を歩く老婆の背中に唾を飛ばしたり、女子の前で気弱な男子のパンツを下ろしたり、靴をゴミ箱に捨てたり。

ヤンキーみたいなバカな連中と一緒にされたくないという不毛なプライドに固執して、勉強だけは怠らなかった。教師なんて、成績の良い人間の悪事は見過ごすものだ。そうやって学力を武器に周りを見下し小バカにして、姑息な悪事を繰り返した。

自分の心のドス黒い部分を観続けさせられた。何度か吐きそうになったが、思うように体は動かなかった。

現在の海老原に辿り着いたところで、漸く映像は途切れた。鏡は元の通り、海老原の姿を
映し出していた。

「なんだったんだ…」
全身の力が抜け落ち、その場にへたり込んだ。安心して涙が溢れた。

エレベーターは何事も無かったかのように動きだした。管理室に戻ると、間もなく出入りの清掃業者が訪れた。

「おはようございます」

挨拶をした海老原に、清掃業者は「おはようございます」と返し、驚いた。

無理もない。

海老原が彼に挨拶をしたのは、これが初めてだったのだから。

本編:1198文字

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