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夢破れたバンドマンの物語 〜嘘のような嘘の話2〜【短編】

病室の中で、寝ている父を僕は見ていた。

父はもう1か月持たないらしい。膵臓に出来た腫瘍が、広く転移してしまっていた。ステージ4の診断と「手術をしても難しいかも知れない」という医師の説明。そして本人の強い希望もあって手術はしないことになった。母が3年前に亡くなっていたのもあったのだろう。まだ67歳と若かったが「もう十分生きた」と父自身が最期を決めた。

殺風景な病室の隅には一本のアコースティックギターが置かれている。そのギターには、僕と父の歴史が詰まっていた。

中学生ぐらいまではどちらかと言えば仲の良い親子だったと思う。父は製薬会社の営業の仕事をしながら休みの日には遊んでくれたし、家族3人で海外旅行にも行ったこともあった。

病室のアコースティックギターは僕が中学校に入学したばかりの頃に、父が昔使っていたのをくれた物だ。基本的な弾き方も教えてくれた。父はボブ・ディランが好きで、僕は忌野清志郎が好きだった。好きな音楽の方向性が違うから、だんだん1人で練習する時間が増えていった。

高校2年の時、進路の話で父とぶつかった。高校で軽音部に入って以来バンド活動に傾倒していた僕は、大学には行かずに上京して、ミュージシャンになりたいと思っていた。しかし父はそれを許さなかった。父自身の経験から僕の将来を思ってのことだったのだが、当時の僕にはそれを理解することは出来なかった。

父は説得に応じてくれず、最終的に僕は母だけに許しを得て上京し、バンド仲間と一緒にアパートで暮らすことになった。父からもらったアコースティックギターは家に残して。

上京してからは中華料理屋の厨房でバイトをしながら、バンド活動を続けた。曲を作ってはスタジオで練習し、小さなライブハウスに出る。自主制作のテープを作って客に配ったり、レコード会社に送ったこともあったが、反応が返って来ることはついぞなかった。

プロになるきっかけを掴めないまま、気がつけば30歳になっていた。その間、母には時折電話で連絡していたが、実家に帰ることは無く、父とは事実上の絶縁状態だった。

バンドは33歳で解散した。実家に戻る者もいたが、僕にその選択肢は許されなかった。父に合わせる顔が無い。本当はずっと謝りたかったけれど、なんて言えば良いものかと自問自答をしながら、対峙することから逃げ続けていた。面と向かって話すことから、僕は逃げていたのだ。

バンド活動を辞めたことをバイト先のマネージャーに話すと、すぐに社員として採用してくれた。単純に人手が不足していたのと、前々から誘いを断っていただけだから、話が決まるのは早かった。10年以上続けていたから、店のことで知らないことはほぼ無い。半年経たずに店長を任された。

父と久しぶりに顔を合わせたのは36歳の時だった。複数の店舗を任され収入も安定し、そろそろと考えて、長く交際していた恋人の優希と結婚を決めた。そのことを2人で報告をする為の帰省だった。そしてそれは僕にとって、父と対峙する覚悟が決まった瞬間でもあった。

実家の玄関を開けると、「お帰り」と言って父と母が迎えてくれた。2人とも笑顔だった。僕はそれだけでもう泣きそうになっていた。母には先に伝えていたが、改めて2人で「結婚することになりました」と言って頭を下げた。「気が早いわね、とりあえず中に入りなさい」と言ったのは母だった。

用意してくれた食事をしながら、今までのことを話した。勿論優希のことを紹介するのが本来の目的だったが、僕と父の空白の時間を埋める意味の方が強かったかも知れない。父は過去の事など無かったかのように接してくれて、優希にも「息子を宜しくお願いしますよ」と頭を下げた。

父が席を外した時に母が教えてくれた。
「お父さんずっと待ってたのよ、帰って来るの。でもね、アイツにもプライドがあるだろうからって言って、自分の意思で帰って来るのを待つって。ずっと強がっててね、アタシもそれに巻き込まれて、今までずっと待ってたんだから」
僕は自分の愚かさを悔やんで、そして父の優しさに涙が溢れた。その横で、優希も一緒に泣いてくれていた。結婚式でも同じように、父も母も泣いてくれた。

結婚から2年が経ち、僕は二つの決断をした。妻となった優希と2人で街中華のお店をやること。そしてもう一度、自分で曲を作ることにした。今は昔と違って世の中に発信する方法がたくさんある。優希や母も応援してくれたし、父も今回は「優希さんを困らせるなよ」とだけ言って許してくれた。

数日後、あのアコースティックギターが僕の家に届いた。そのギターで作った曲をコツコツとネットに公開していると、少しずつ聞いてくれる人も増えていった。

母が亡くなったのはその翌年。死因は心不全。あまりに突然の事だった。優希の許しを得て、父に定年後は一緒に暮らそうと提案したが、「俺は大丈夫だ」と言って断られた。頑固で強い人だったから、僕もそれ以上は言わなかった。

それからたった3年だ。

音楽の方はマイペースにやりながら、試行錯誤を繰り返した中華料理店は、常連客も増え軌道に乗り始めていた。時折連絡すると、父はいつも元気そうにしていた。

だからこそ、晴天の霹靂だった。

病室に着くと父は眠っていた。すっかり痩せてしまった父に「ありがとう」と言うと、父は目を開けて「あぁ、陽平か」と言った。アコースティックギターは僕自身の代わりに、病室に飾っておくつもりだった。 

父はそのアコースティックギターを指差して「そのギターで何か歌ってくれよ」と言った。僕が父に歌を聴かせるのは、子供の頃を除けばこれが初めてだったし、結果として最後になってしまった。

父にどうしても伝えたいこと。今までの感謝や、中華料理屋としてのプライド。それをギターを掻き鳴らし、夏の陽射しが挿し込む病室で、僕は全力で歌った。

「冷やし中華、はぁじぃめましたー!!」

歌い終えると、父は満足そうに微笑んでくれていた。それから一週間後、父は亡くなった。あの時の、穏やかな笑顔のままで。

fin.

こうして誕生したのが邦楽史に燦然と輝く名バラード、AMEMIYAさんの『冷やし中華始めました』です。

まぁ、全部嘘ですけどね…。


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