Dallas Texas 九月の熱い日々
これは下書きで、本来人に見てもらえるような構成とか物語になってないと思います。しかしnoteさんの呼びかけに恥を承知で応じてここに出させてもらうのは、やっぱりこのご時世、いつ自分も明日がなくなるやもしれないと、いつまでたっても子供騙しのような小さな物語の断片を、空中に塵と消えるに任せるよりはせめてこの電気の流れのなかに留めたいと願うからです。物語のなかの人たちは確かにそこに生きてぼくらに語りかけていたのですから。偉そうな言葉になってしまいました。熟成とはいえぬかもしれない下書きの小さな願いです。
身はたとえ徒野に尽きんとも留めおかましこどもたましい。
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ジョンウエイン空港はオレンジカウンティーのぼくの住んでいる家から15分位のところにある。一応国際空港なのでターミナルも都会化されていて、南カリフォルニアの他の飛行場ボブホープ空港のように歩いて飛行機まで行ってタラップを上がって行くなんてことは無くLAの国際空港と同じような造りだった。
三時間ほどでダラスフォートワース空港に着くと降り口のターミナルにはポールが待っていた。握手をすませると車の中で簡単なこれからの打ち合わせをした。ハイウェイを一時間ほど走ってスミスリーンの建設中のモールに着いた。モールの周りには住宅が建ち始めていて二三年前まではまったくの荒地だったところが植え込みの木や芝生がスプリンクラーで永らえる新興住宅地に変貌しつつあった。
モールと呼ばれるショッピングセンターはアメリカ全土に開発されていて、住宅バブルが始まって、もう何年にもなっている。ぼくはこのレストランフランチャイズの本社のエクゼクティブシェフに雇われた。それからは北米に十ヶ所以上展開しているレストランのメニュー開発と従業員のトレーニング、現地の食材業者とのコミニケーションや値段の交渉など日課は時間ごとに決められていて、堪能とは言えない英語と幾つかの知っている単語を聞き取れる程度のスペイン語、ひそひそ話で始まる何人かの現地日本人シェフとの会話、そして本社幹部の韓国語を聞きながら、この不動産景気と共にあるレストランのビジネス展開の動きをキッチンの中と外で支える、というのが与えられた仕事だった。
ポールはこれからレストランのオープンまでの一週間の僕らの予定を告げる、ダラスで一番大きなトーフ工場、全米有数のフードビジネスを展開するサプライヤー、シスコのダラス支社の社長との面会、シーフードサプライヤーとの商談などなどだった。ポールは本社のビジネスマネージャーとしてサービス部門を担当して、店長の雇用や解雇、面談、時に他の店からの引き抜きや給料の査定などをしていて、レストランで働くどの現地の従業員からも嫌われることが多かった。ポールは気にする様子も無く従業員や業者に文句をつけた。これはビジネスだから、自分は割り当てられた仕事をするだけだ、と言ってそのガサついたように聞こえる声で話したが英語はよどみなく、すらすらと話した。ちゃんとした英語に遠いぼくの語学力をちょっとバカにしているような気もした。
外観は出来上がっているようなスミスリーンのモールに到着してまだ大工や配管工が出入りしている自分たちのレストランを一目見渡してぼくはうんざりした。いつものことながら、ぜんぜんキッチンもその床も仕上がっている感じはなく、ガスはまだ通っていなかった。あと一週間でオープンというのは絶対でそれができなければモール側にミリオン単位の違約金を支払わなければならなくなる。雇い済みで今は自宅に待機させてある、キッチンとサービスのスタッフ達数十人をトレーニングするのに一日は欲しい、あと五日でレストランの厨房が機能しなければならない、ぼくらは着替えて、レストランのダイニングルームに運び込まれた調理台や道具などの梱包を解き始めた。
ぼくらより数日早くレストランの本社に雇われているオープニングメンバーが5人くらいの中にホセもいた、彼はエルサルバドルに妻と子供を残し、自分と妻の両親それぞれの叔父叔母従兄弟などなどの生計と立てるためカリフォルニアに来て十年近くが経っていた.ホセは英語がよくわかった。彼と墓のメキシコ人たちほとんどが国境を越えてアメリカにやって来た。みんなカリフォルニアでなんとか仕事を見つけ皿洗いやキッチンの下働きから始めて言葉を覚え、ナイフスキルを身につけ、アメリカのフードチェーンのレストランや日本食、言葉ができれば、フレンチやイタリアンの高級店、それは給料が他よりちょっとまし、というところで働いている。大半の不法移民たちは過酷な合衆国の国境越えを経験してきた人たちで、アメリカで見つけることのできた仕事にはたいそうな重労働にもかかわらずよく耐えて、陽気さを失わないでいる人たちが多かった。
ぼくらのレストランチェーンはシーフードと日本食、そしてアメリカのファミリーレストランのメニューを併せ持ったシーフードバフェレストランとしてカリフォルニアを中心としていまや全米展開を始めたところだった。最初の設立は日本人の辻井さんだった。学生としてアメリカ生活を始めて、その頃だれもやらなかった寿司レストランをバフェ方式にして目の前で作られた寿司を客は好きなものを好きなだけ食べることができて、ほかにもテリヤキチキンだのビーフステーキだのフライドライスだのカクテルシュリンプだのサシミ、オイスター、そしてアメリカ人ならだれもが想いを浮かべるカットされた半身にソースがまぶされこんがり焼き色の付いた熱々のロブスター、これらが同じ料金で食べ放題なのだった。これはいくら大量仕入れによるコストダウンとは言っても仕入れ値は高く薄利多売で売り上げ金額を稼ぐためには満席のキャパシティーの3倍くらいをランチとディナーでそれぞれこなさなくてはならなかった。スミスリーンの店は客席が300近くあるので昼夜合わせて2000人近くの客を入れなければならなかった。
すでにオープンしたカリフォルニア、フロリダ、ハワイ、オレゴンなどの店ではそのくらいのビジネスは達成していた。それで口コミが広がり、寿司好きや、シーフード好き、大食のひとたちが地元でのこのレストランの開店を待ち望み、仕事を求める移民たちもなんとか職を得ようとして毎日彼らの一人がもし車を持っていたらそれに十人以上詰め込んで、足以外持っていないものは何マイルでも歩いてこの店にやっって来た。
ポールは毎日一人二人と客の前に出しても恥ずかしくないような外見を持った若い男女と料理の経験があるという男女を選び出し開店予定の前日から給料を払うので店に来るように告げる。大体は経験があるという人たちも実際には調理の経験などなくレストランの中の仕事を何かの機会に見たことがあるというのが大体のところだった。開店前のレストランに仕事を求めるのは、レストランとしては開店に間に合わせたいがトレーニングに人件費をはらいたくないから、あまりふるいにかけられないので仕事をもらえやすい。本当に経験もあるそれなりの言葉と知識のある人たちはいまは仕事があって働いている、給料がどのくらいか、時間がどのくらい長いかなど条件を見てから仕事を求めてやってくる。
ポールから現地雇いのキッチンマネージャーとなる若い日本人を紹介された。ミスター・ヨシオカは三十代と見える小柄な人でぼくに「よろしくお願いしますと」日本語で言った。ポールを交えて話す英語はスムースでもう何年もアメリカで暮らしていて人前で英語で喋るのに慣れているらしかった。ミスター・ヨシオカは調理経験も長く日本料理屋だけでなくアメリカンレストランでも働いていたのでここで出すメニューも作ることができるし、新しいメニューも考えましょうと心強いことを言う。開店日まで二日に迫っていた。
ようやくレストランはオープンし、待ちかねたか、客は五百人以上の列をなし、ランチは始まった。それは悪夢かなにかの暴動か、ハリケーンか、非常事態ではあった。前の日に初めてナイフを握った男がいまやとなりのオープニングメンバーから言われるままに鉄板の上のフライドライスをスパチュラを両手に持ってかき混ぜている。初めて家を出たらしいどう見ても中学生以上に見えない女子が寿司ロボットから繰り出されるスシ飯の上に切り出されたマグロやエビを乗せる。色んな具をまいたりのせたりのロールスシはオープニングメンバーの仕事だ。店の中をほぼ半周するカウンターの前に出来上がったばかりの料理、冷たいサラダ、シーフードの前菜、サシミ、それから五十種類以上もあるスシ、握りと巻き。フライドライスにフライドヌードル、ミソスープにラーメン、ローストしたチキンとビーフ、テンプラを揚げるのはぼくでじっとぼくを見る男には何も言わずひたすら、海老だのオレンジ色したさつまいもなんかを揚げ続ける。客の何人か、白人も黒人も話しかけてくる。だいたいは何を食べたらいいか、とか旨かったぞ、とかだった。
店の中も真新しい皿を抱えて料理を取る行列になっていていちばん多く並んでいるのがロブスターの前だった。いくら食べてもいい料理もロブスターだけは一人一回にひとつだけで、それでも食べ終わる前に多くの客は次の一個を求めて行列に並んだ。大変な数の人とその皿を満たす料理を作り続けて何時間もたった、ぼくが顔を上げるとペーパーホルダーとペンを持ったミスター・ヨシオカが自分が呼んできてサラダ作りの仕事に雇った日本人の女の子に何か言うと、シェフが使う小さなオフィスに入っていった。
初日のランチとディナーを終わり同じような忙しさが続く三日目くらいには三分の一位の現地雇いの人たちが辞めていったがすぐに新しい人たちが入っていて毎日同じ新人トレーニングは続く、ぼくはやっとおなじ男にテンプラを教え込むことができたのでポールとこれからのこのレストランについて問題を話し合う。ぼくを待ちかねたらしいポールがカサついた声でミスター・ヨシオカは問題だという。彼のキッチンマネージャーとしての仕事がわれわれの要求を満たしていない、料理しないで従業員と話すか、オフィスで電話ばっかりしているという。そしてポールが言うには奴は原理協会の回し者でここの従業員を感化しようとしている、料理ができるかどうか怪しいという。ぼくはこのキッチンマネージャーを雇ったのはポールでなんで使えるかどうか試さなかったの、と思ったが言わなかった。まあ、雇ってしまったのだから様子を見ようということになった。
とてつもなくたくさんの人に途方もない料理の多さに体力と気力の全てを注ぎ込む日々を続けて数日、ようやく従業員も仕事に慣れてきたんらしく、あちこちで笑い声も聞こえるようになってきた。もう何日も職場を離れるのは近くのモーテルに睡眠を取りに帰る時だけだった。
ランチとディナーの間に予定の入らなかった午後のある日、ダラスの市内を案内したいとミスター・ヨシオカがぼくに言う。オープニングメンバーの何人かを誘って彼の車に乗り込んだ。断る良い理由が見つからなかった。あっちこっちと車を走らせこの辺りで人気だというスムージーやアイスクリームを啜ったり舐めたりしながら車は妙に陰気な通りに入って駐車場に停める。陰気な感じなのは人がたくさん集まって歩いていたり立ち止まっているのに押し黙りミサかなんかのように下を向いたり見上げたりしていて笑っている人もいないようだったからだ。
ミスター・ヨシオカはここがケネディ大統領がオズワルドに狙撃されたところだと言った。そして前方をを見上げてあのビルのあそこの窓から撃ったという、そこまで行きましょうと言って彼は歩き出す。足が重くなったような気がした。教科書倉庫だったとかのビルのエレベーターを上がりその窓を見る。大統領の車がエルム通りに差し掛かってオズワルドはここから撃ったのだという。映画でそんな名前の通りが出てくるホラーの題名があったように思う。「ここには異様な気が満ちていますね。」ミスター・ヨシオカが言う。その感じは彼の車に乗り込んだ時からもあったんじゃないの、と言いたくなった。
その日レストランに戻るとポールが渋い顔でぼくらを待っていた。ミスター・ヨシオカがキッチンを通り抜けてまっすぐ自分のオフィスに入っていくのを見ながら、ポールはアイツはダメだ、首にしようと言う。本社にも言ってあるから首にしようと言う。理由はと問うとポールはアイツはカルトだ、レストランの仕事はしない、事務処理も能力ない、第一にアイツ料理しているところを見たことない、下の者がみんな文句言ってる、アイツはここに布教活動に来ているだけだ、それは危険だ、とポールはまくしたてた。丁度何ヶ月か前にここテキサス州のどこかの町でキリスト教原理派かなんかの武装過激集団が彼らのコミューンに立てこもり警察と銃撃戦になりメンバーは全員死亡、警察の死傷者が出るという事件が全米で大きく報道されたことは、みんな覚えていた。ポールはぼくにヨシオカの解雇は本社シェフのお前の仕事だから頼むと言う。ぼくは、ミスター・ヨシオカを」雇ったのはポールじゃないか、お前の仕事じゃないか、とは口に出さず、OKと答えた。裁判沙汰になったら面倒だぞ、気をつけてな、ともポールは言う。ここでポールに、やりたくないなどと文句を言うと、ミスター・カワタは彼のエグゼクティブシェフとしてのやるべき仕事をしない、料理ばっかりしている、などと本社に報告されるのは分りきっていた。
じゃあ、とポールに片手を挙げるとぼくはミスター・ヨシオカの立て籠もるオフィスに入ると、勧められた椅子に座り、彼には明日から来なくていいです、解雇です。と告げた。ミスター・ヨシオカは顔色を変え、「何でですか、僕が何をしましたか』と色をなし、
「あなたたちが心配するような布教活動は一切していない、僕はキッチンマネージャーとしての仕事に全力で取り組んでいますから」と捲し立て、「これは不当解雇だ、信教の自由を侵している、裁判所に訴える」と続けた。ぼくはゆっくり息を吐いて「あなたの宗教について我々は何も知りませんし、問題にもしていません。あなたのこのレストランに来てからのマネージャーとしてのパフォーマンスがレストランが必要としている事柄を満たしていないのです。あなたは作れるといった料理を作らない、部下の指導をしない、朝からワークシフトや明日の発注業務をすると言ってオフィスに籠りますが、そもそもキッチンの状態も見ないで発注なんか出来ますでしょうか。」自分の言葉にうんざりしながら
「残念ですが、あなたの雇用条件に満たさなかった仕事ぶりによって我々はこの決定をしなきゃいけなくなったのです。」と続けた。
ミスター・ヨシオカは「あなたたちの会社を訴える」となお続ける、ぼくは「訴訟の理由があるなら、どうぞお好きになさってください。我々にはあなたを解雇する正当性があるのです」と言うと「しかし、今日でクビというのは納得できない、家賃払わないといけないんですよ、不当じゃないですか。」ぼくはミスター・ヨシオカに、会社はあなたに今日から二週間分の給料を払います、もちろんあなたは明日からここには来なくてもいいです。これで家賃も払えるといいですね。と告げるとミスター・ヨシオカはコックコートを脱いでレストランから出て行った。ポールはぼくに、グッドジョブと言って握手をして来た。彼が連れてきたサラダステーションで働いていた日本人の女の子もいつの間にか辞めて行った。
ダラスのレストランは好調なビジネスが続き蒸し暑いなつが過ぎようとしていた。連日の満席でカリフォルニアの本部から来ているオープニングメンバーも休みなしで働き続けみんながぐったりだらけ始めた。ある週末、これからすごい忙しいランチとディナーの日、現地雇いの何人かの給料が支払われてない、小切手が届いていない、ということで従業員が騒ぎ出した、ポールが本部に問い合わせると現地従業員の入れ替わりが頻繁かつ多数なのでペイロール作成が混乱していて来週には正常に支払われるはずだ、と言う。ポールがスペイン語でそれを伝えるとみんなは納得しない、会社のミスなのに、自分たちはわるくないのにとそれぞれの支払先をどうすればいいのかとポールを問い詰める。ポールは自分んにはどうすることも出来ない、みんなにはすまない、とあやまるが多くの従業員がせまっている朝の開店時間を前にキッチンを出て行き、ダイニングルームに座り込んで動かなくなった。
その中には何人かの本部からのオープニングメンバーもいてホセがみんなと一緒に座り込んでいる。ぼくが彼を見ると顔を横に反らした。本部雇いのオープニングメンバーに給料の滞りはなく、いつもとうりの待遇で休みもない代わりに手当ても支払われているはずで何故連中が職場ボイコットに同調するのかは分からなかった、分からなかったが現地雇いの自分たちと同じヒスパニックたちに同情しているという様子はなかった。むしろ経験の浅い新米たちには支配的だった。
おおくの新米たちにとって厨房の仕事というのはかなり複雑な行程を覚えなければならず、食材を焦がすことなく、手を切ることなく、自分たちが今まで口にしたこともない外国の食べ物を作るというのは一般のコックたちがコンピューターソフトを初めて作る、というようなことかもしれないと察しがついた。ぼくは残ったキッチンスタッフに指示を出し、ランチに間に合う料理をリストアップしてポールに伝えるとフロアマネージャーのリチャードに平常どうり開店する、あそこに座り込んでいる人たちには来週給料は全部払う、それが問題ならもうレストランに残らなくてもいい、と伝えてくれと言って、座っているホセのところに行き、今ならフライドライスもフライドヌードルも始めてランチの開店に間に合う、いやなら、永久にここから出て行けと告げた。ホセはぼくを見つめて、これは会社が悪い、おまえが悪いわけじゃないけど、会社を懲らしめる、みたいなことを言う。ぼくはホセに店の外に列をなして並ぶ人たちを見ろ、おまえがフライドライスを作らなくてもだれも気にしない、誰かが作るから。それでもいいなら今すぐ出て行け、と言った。
ホセとはもう何ヶ月もいっしょにあちこちのレストランでオープニングをこなしている。ぼくがキッチンで一人で立っていると、ホセはぼくにぴったりと並びなにかを話しかけてくる、きのうどこに行ったか、ランチにはなにを食べたかなどと聞いてくる。話しかけながらホセは深刻な顔をしたり笑って見せたりするが、それはキッチンの他のメンバーに本部シェフと自分がいかに親しいかを見せつけるための彼が編み出した戦法なのだった。
メキシコ人たちの中にあってエルサルバドル出身の彼が考えた優位に生き残るためのパフォーマンスなのだった。ぼくはたいていホセの女の話やギャンブルの話、コリアンのマネージャーや日本人スシシェフの悪口も聞き流して相手にしなかった。他の特定のだれとでも親しいような素振りは見せず、店の賄い料理もみんなといっしょに食べることなく外でサンドイッチを買ったり、近所のチャイニーズでチャプスイを食べたりして一人で過ごした、ぼくなりに編み出した自分の仕事を完遂するための戦法だった。
フロアマネージャーのリチャードがどう説得したのか、みんなキッチンに戻ってきた、ホセはぼくに舌打ちをして見せ鉄板に向き合ってフライドライスを作り始めた。開店まであと五分店の前はびっしり人が並んでいた
数日後のダラスの熱い日差しが登り始める朝、ホテルを出ると何かがいつもと違っていた。ロビーでも、受付でも人々はなにかを話し、なにかに聞き入っていた。レストランに着くとリチャードがテロだという、ニューヨーックで民間のジェット機がワールドトレードセンタービルに突っ込んだという、ビルは崩壊している、ジェット機は複数でそのうちの1機がダラスに来るという、ダラスが攻撃される、これは戦争なのだとリチャードはいった。レストランにもモールの中にもテレビを見るところがなかった。ラジオを聴くしかなく、リチャードはぼくらに説明をしてくれた。だれかがスペイン語でみんなに話していた。午後になって、大体の事件の経過をリチャードは話す。ジェット機はたぶん3機か4機、民間機がハイジャックされたらしく2機がニューヨークの貿易センタービルにそれぞれ突っ込みツインタワーと呼ばれるその二つの建物に突っ込みビルは崩壊した。1機はペンタゴンに突っ込んだ、もう1機どこかで墜落した。崩落した貿易センタービルでは多数の死者が出た。ダラスに来るというハイジャック機はワシントンDCのダレス空港の間違いとわかった。
ぼくの知っているアメリカの何もかもが、変わっていくその始まりだった。
つづく
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