会いたい母にタルトタタン、作りましたと伝えたい、秋。
ぼくの母、けいこさん。今年の夏、九十七歳になった。大正生まれ。三十年近く前に長野に引っ越してそこで暮らしています。
ずっと元気でしたが今年の初めに傷めた脚の手当とリハビリのために今は病院で過ごしています。
毎年長野まで年に何回かうちの家族みんなで会いに行っていました。孫に会うのをとても楽しみにしていてやさしくて丈夫な人です。
今年はお正月すぎに会ったきりです。病院に居るままなので、それはありがたいことですが、他府県からの面会は今は叶いません。 それもありがたいと病院の皆さんと母の周りの人に感謝しています。
しかし、電話でしか話が出来ないのは辛いです。
りんごの大好きな母にタルトタタン作りました。たぶん、りんご好きだから長野にずっといるんじゃないかと、思ったりします。
もちろん今彼女のまわりにいる人たちは良い人ばっかりで、いっしょにいて母は幸せなのだと思います。
ずいぶん前にぼくは母に百歳まで生きてくれたら葬式になった時はあなたの大好きな赤飯炊いてお祝いする、そう言ったら、うん、そうしてそうして、お祝いしてくれたら良いで、今死んでも赤飯炊いてくれたら良いけどな、と笑って応えました。
大正生まれの母は同年代のほとんど全ての方たちと同じように、女性としても苦労の多い人生だったと察します。
母は田舎にしてはわりと教育熱心な両親に育てられ、女学校を卒業することが出来たし柔道も習って講道館で練習したこともあったと言います。
しかし戦争になり勤労奉仕で軍需工場で働いたあとは、当時の国鉄の地域での女性社員第一号としてバスの乗務員になったり、ともに将来を想った人は戦争から帰って来なかったり、そんな話もしてくれました。
母は乙女時代を戦争で過ごし、何も知らない遠いところへ嫁いでからは、お嬢さんみたいな生活から、従業員の女将や寮母のような役割になり、明治生まれの夫との日々は貧乏が骨に染みるような暮らし、そんななかでぼくらを育ててくれました。
十年くらい前に大腿骨骨折をリハビリで克服し、そのあとの脳梗塞からよみがえり後遺症もなくお医者さんもびっくりしていた。
震災と原発で足を踏み入れることが出来なくなった故郷の浪江町と人を気遣い、生きていれば何とかなるのになあと呟き、さぞ悔しい思いで居るのだろうと思います。
ぼくには生きていてくれる母がありがたいです。
会えなくなって数ヶ月、長電話が嫌いな母もうちの娘とは会話も続きます。みんなで廻す電話口の最後のぼくに、心配せんとき元気やで、病院にいるわたしが言うのも可笑しいけど元気やでありがとう、その声は本当に元気です。
おかあさんタルト・タタン出来た一緒に食べよう。そう言いたいです。その日を待ち望んでいます。
美味しいな、ありがとう。母のその声が聴きたいです。
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