フィルモア通信 No18 バルベドス、アリア、ニューヨーク市警二十三分署
バルベドス、アリア、ニューヨーク市警二十三分署
ヒューバーツレストランには異なる多数の人種、言語そして文化を持つ人々がそれぞれの仕事についていた。なかには複数の言語を話しその父母からそれぞれの国の文化や習慣を持つ人もいて、出身国がちがうカップルなども独自の価値観を見出していたりと、ニューヨークの様々な分野の多様性は簡単には理解出来ないものがあり、何も知らないぼくは毎日驚いたり、不安になったり、もどかしく思ったり、ホームシックになったり、時には人に対して攻撃的になったりした。
シプリアンはバルベドスから来た初老の男で肌の色は黒くアフロアメリカンと見間違えるほどだったがなんとなくラテン人のような風貌もあり髪は白く、身体もぼくと同じくらいで親しみやすい人柄だった。笑うと真っ白な歯が見えた。
彼はディナーのディッシュウォッシャーの仕事で夜のキッチンに入ってきた。シプリアンの母語は英語だったがぼくには聞き取りがジャマイカ人と話すと同じくらい難しかった。シプリアンの身体は大きくはなかったがとても力が強く、次から次に山のように積まれる洗い場の皿やグラスやシルバーだけでなく、ぼくらが使ったフライパンや大きなポット、そしてドラム缶ほどのすぐにいっぱいになるごみのバッグを黙々と片づけていった。
店から支給される、仕事終わりの彼の夕食を作るのはぼくで、いつでも余りものではなく客に出す主菜と同じものを作った。ぼくは彼にバルベドスではどんな魚料理があるかと訊くと、フィッシュヘッドのスープというので、じゃ今度作ってよ、と言うと真っ白な歯を見せて笑った。ぼくの目にはシプリアンはもう老人のように見えたが、フレディの話ではバルベドスにまだ五歳とか三歳とかの子供たちが父親の帰りを待っているらしかった。
レストランにはダイニングルームのサービスで働く若い人たちがいて多くはヨーロッパ系の白人たちだった。そのほとんどがなにがしかのアーティストたちで明日の成功と名声を信じそのための今日の生活費を客からのチップで稼いでいた。彼らには要求の激しい客からのそうとうなプレッシャーがあり、ディッシュウォッシャーに辛く当たるような者もいた。シプリアンも若いバスボーイからきつい言葉やしぐさを受けたりしていたが彼は黙々と自分の仕事をこなしていた。
ぼくは老いてから勤めに出て若い人の指図を受けて働いていた自分の父のことを思った。父もこうして黙々と働いてぼくらを育ててくれたのだと思った。しかし、父にとって職場で本当に辛かったのは若い人の非礼やきつい労働ではなく、それまで経営者としてそれなりに一目置かれていた自分が単に老いたものというだけの、無関心に置かれた状況だったのではないかと、父をシプリアンに重ねて彼に同情した。
オリバーは若くハンサムなオーストリア人でオペラの勉強のためにニューヨークにやって来た。昼間は音楽学校に通い、夜はヒューバーツでバスボーイの仕事をしていた。ゲイピープル特有の繊細さで良く気が付き真面目に働いていたが、対人関係でときどき他のスタッフと揉めることもあった。開店前のダイニングルームやキッチンでアリアを歌うことがあったが、なかなかいい声だった。
忙しい夜が続くディナーにオリバーは疲れ苛立って来ていたのか、シプリアンに八つ当たりすることが多いようにぼくには見えた。
ある日の開店前には何かをシプリアンに投げつけたので、ぼくはオリバーに詰め寄りやめろと言うとオリバーは、おまえは誰だ、おれのボスでもないのにおれに指図するな、と言った。ぼくは、おれが誰かはいま分かる、と言って持っていた野菜か何かを投げる真似をした。オリバーは逃げ出しぼくは追いかけた。
どうしてそうなったかは分からなくなったが、怒りがぼくを追い立てた,オリバーは店の外へ走り出し二十二丁目を曲がり、パークアヴェニューを南へ走った、日暮れの帰宅を急ぐ人たちが行き交う歩道に彼を見つけると、背中を追いかけぼくは靴を脱いで彼のせなかへ向かって投げた。当たるはずもなく彼はそのまま走って行った。周りの人がぼくを見た。
職場に戻るとフレディが「ワッツハップン」と聞いてきたがぼくはなにも言わなかった。他の人たちも何も言わなかった。オリバーはその夜レストランに戻ってこなかった。
次の日オリバーは仕事にやって来た。他のスタッフからオリバーの欠勤と最近の彼の仕事ぶりを聞かされていたレンはオリバーに、他のスタッフみんなとよく協力して仕事をするようにと告げた。オリバーは「もちろんですよ」と応えた。
その夜、ディナーのサービスが始まりいつものようにダイニングルームもキッチンも忙しくなった。重なり交差するウェイターや客の指図に苛立った表情でキッチンに出入りしていた。オリバーはシプリアンに何か文句を言い手荒な仕草をシプリアンに見せた。ぼくは二人のところへ行きシプリアンに謝れ、とオリバーに告げた。オリバーは呆れたような顔でぼくを見ると「ナンノブヨービジネス」と返した。ぼくは怒りに取り憑かれ彼の胸ぐらを掴みにいった。オリバーが蹴ってきたので右手から彼の顎へパンチを出した。人を殴ったのは初めてだった。
フレディが、「マサミ、チルアウト!」叫び、ぼくを後ろから羽交い締めにした。ダイニングルームのスタッフたちみんなが、どうしたのかとキッチンにやって来た。この騒動のなか、ダイニングルームではカレン一人が落ち着き払って多勢の客の相手をしていたらしい。オリバーはぼくに罵りの言葉を浴びせて出て行った。
その夜のディナーのサービスを終えてレンのオフィスに呼ばれたぼくは、みんなに迷惑をかけたことを詫びレストランは辞めますと言った。レンはオリバーとのいきさつを聞いて、「おまえの気持ちは分かったから、辞めないでみんなと一緒にまた働こう」と言った。フレディも来て、気にするな、と言った。結局ぼくはレストランを辞めず、オリバーは去って行った。
この稿続く。
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