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フィルモア通信 四十年 SOHOの咀嚼

顔を上げると大柄の白人男性がぼくを見てにっこりした。
すぐにビル-カッツ氏だと気がついた。
目が合うとカッツ氏は右手を上げてハイと言った。今夜もレストランは満席の忙しいカウンターの中でお刺身や一品料理を作るのに無我夢中でカッツ氏がちょっと前からそこに立っているとは知らなかった。どうやら彼はぼくの手が一段落するのを待っていたみたいだった。

BILL KATZ氏は長らくニューヨークで活動する建築家でありインテリアデザイナーとしても舞台芸術の意匠なども手がけるニューヨークの芸術家で彼とともに並び称されることがあるのはJASPER JONES氏やALEX KATZ氏で三人ともにこのレストランの常連客だった。
ビルとは数週間前にお店の入り口で出会いお店の人から紹介して貰って挨拶した。ぼくがミキオさんとの出会いを言うとビルは自分もこの店の前でミキオと初めて会ったのだと言った。そしてビルはミキオさんの亡くなる何日か前に病床の彼に電話したことを話してくれた。電話口でミキオは毎日目覚めると全てが新しく新鮮に感じると言っていたとビルは感動を伝えてくれた。

もう随分前にビルがソーホーのお店のすぐ近くのアパートに住んでいて重い病気にかかって静養しているときにミキオが自分のレストランで作らせた料理を毎日届けて、やがてビルは回復してまた自分の仕事に
打ち込めるようになったということだった。

ぼくは四十年前にミキオさんに出会ってこのレストランで働き始めやがて
ヒューバーツレストランのオーナーに出会いフレンチ料理の道に進みヒューバーツレストランで働いていたと言うとビルはあそこはよく行ったぞ、ディナーに行ったぞと言ったのでびっくりした。そしてすぐ近くのソーホーの
プロヴァンスレストランのスーシェフとしても働いていたと言うとビルは
笑いながら、もちろんプロヴァンスレストランにもよく通ったと言った。
ぼくはミキオが亡くなったのでミキオのレストランのためにパンデミックや
人手不足の苦しい状況のレストランの力になってミキオさんに恩返しがしたくて大阪の職場を辞めてここに来たのだと言った。ビルはぼくの手を握った。大きな力強い手だった。

今もソーホーに住んでいる芸術家には古くからの常連客もいた。
七十年代、八十年代のパンクロックを牽引したPATTI SMITH女史はこのレストランでは食べるものが決まっているらしくいつも同じ種類の魚の新鮮なお刺身と香りのついたご飯を注文した。金曜の混み合う時間の前の早い時間に
来ていつもの窓辺の席に座り静かに食事している様子を見た。
ぼくはいつものお刺身の皿に花形に切ったにんじんや紫大根の蝶々を添えた。パティはそれをお箸で摘み上げてじっと見ていたらしかった。パティはミキオさんの亡くなった何週間か後のレストランが催したメモリアルのディナーパーティでミキオさんを偲んでレストランのダイニングルームで
歌ったらしい。鬼気迫る熱唱だったとそこに居合わせた料理長は話してくれた。

そのメモリアルディナーにはジャスパージョーンズ氏は来れなかったがミキオさんへ彼の想いは届けてくれたらしい。常連だった氏はミキオさんのために自筆の絵もかって贈ったということだった。
そして同じく高齢になった画家のアレックスカッツ氏もかっての常連で夫婦でよくミキオさんのレストランで食事をすると氏はカバンから絵筆を取り出して何かスケッチを始めたらしい。ミキオさんの姉さんの似顔絵をその場で仕上げて彼女に渡したこともあったらしかった。
2022年にグッゲンハイム美術館で開催された個展には九十歳を超えてなお野心的な大きな新作を展示した。その個展のために作品を貸し出した美術館や多くの個人所蔵家のうちのほとんどがミキオさんのレストランの常連客だと所蔵家の名前を見たレストランのマネージャーが言った。

ニューヨークの街で芸術家であるということは今を生きることだと実感する。人種や貧富や年齢性別に関係なく作品を産み続けその志を生きることだ。生きて生きて生き抜くことだ。作品の評価にも関係なく出来不出来にも
自分の道を見失わず生きて生きて今を生き抜くことだ。
この街にはレジェンドは必要とされない。自身の過去の名声に関心を持つものはこの街に居場所はない。それは芸術家だけでなくほぼ全ての職業のその道を歩む人たちへのニューヨークが投げかけるメッセージだ。


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