ブロードウェイ・ブギウギ

ちょっとだけカッコつけた真面目なこと書こうと思います。
最近、演劇という芸術に対して無秩序の回復を意識する時があります。エントロピー増大って感じです。

あ〜(理解)って思った人はあんまいないと思うのでちょっと説明させてください。

前提として、世界というのは無秩序なものです。混沌とした世界に人は名前をつけることで区別し秩序を作ってきたのだと私は思っています。
人間は偏光板のようなもので、人の営みは主には秩序の方向へと向かいます。秩序とは区別し取捨することであるためです。
カオスなままの世界を全て理解する能力は人にはないので、人は「私」の視点で情報をふるいにかけます。完全に中立な新聞社が無いのは人が世界を見るだけで情報の取捨選択が行われている上に、書き手の視点による意識的な推敲が行われているからです。さすがに見たものを片っ端から書くことは出来ないし出来たとしてそれは記事とは言えませんからね。

伝わったかわかんないし話ズレてる気がするんですけど、まぁ何が言いたいかと言うと秩序と切り捨てというのは強い関係にあると思うんだよねってことと人間はキャパオーバーしないように情報を制限してるんだよってことです。

本題に入ります。
演劇は脚本を書く段階で情報量が落ちます。作者のキャパの範囲内でしかキャラクター達は何かを感じ、動くことが出来ないためです。しかし、脚本を演じるとなると情報量は増えます。脚本家とは違い、役者達はキャラクター1人にキャパシティの多くをさくことが出来るためです。役者はキャラとは違い複雑で無秩序な存在であることも無秩序化の要因だと思います。役者がキャラクターとして生きることが出来れば、複雑な感情を表出したり名前のついていない感情も扱うことができるでしょう。また、多様な視点を持つ人々の関わり合いにより作品が完成するため、人や回が変われば同じ脚本でも違うものができます。このようなところが演劇の強みなのでしょう。一旦脚本で秩序が生まれたのに演技により無秩序に戻すという脚本を演じるということの固有の仕組みが興味深いと思いました。

んで、なんでいきなり秩序とか小難しいこと言ってんだいって言いますと!!!今回の劇の稽古をしていて秩序のために捨てられたものを拾い上げている。つまり、無秩序の回復を強く感じているからです。この劇私の専攻の内容に近くね?とかも感じてます。どこら辺から感じたかとかは当たり前ながら言えないのでぜひ劇場にいらしてくださいね〜〜!ちょっとなんか変なこと言ってたヤツ居たなーとか思ってくれたら幸いです。

以上、夏炉冬扇でした!

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