プラトンの不文の教説とオタク

これは、大学の講義で古代ギリシア哲学について学んでいる文系学生が、感じたことを好きに書き散らかした感想メモのようなものである。

考察するオタク

プラトンと言えばイデア論。この世にあるものはすべて、イデアと呼ばれる完全なものを模倣して作られたものである。高校時代の倫理で初めて聞いたときには「何を言っている・・・?」と困惑したものだ。それを大学の講義で聞きながら自分の中で咀嚼してみた。私たちは物を通して神が作ったイデアに触れる。例えば、赤い球体ならば、「赤」と「球体」のイデアを含んでいる。こうやって書いてもよく分からない。でも、何だか既視感を感じる。
そこで私はふと思いついてしまった。
目の前に存在する物に対して匂わされた他の要素に気づいた瞬間大興奮してしまうオタクの考察と大差ないのではないかと。

私の場合分かりやすいのは、さんたく!!朗読部の初回公演『羊たちの標本』や『劇場版 少女☆歌劇レヴュースターライト』を観劇した直後から今に至るまで考察だ。もちろん、劇中の台詞、関係性から伏線を回収して考察を進めていく。
 しかし、キャラクターのモチーフはなにか。そのモチーフと作中で関連のありそうなストーリーはないか。そうやって過去の創作物や伝説、持てる限りの知識と照らし合わせ、隠された意味は無いかとより作品の深くに辿り着こうと考察するのだ。

本来ならば、そこに明記されていないモチーフを絡めて考えなくとも十分に楽しめる。だが、一度秘められた意図に気がついてしまえばその根源に触れてしまいたくなるのである。これは、プラトンが実在する物体に目視できない完全な世界の産物であるイデアを見いだしてしまうことに通ずるものがあるのではないだろうか。こう考えてみて、初めてプラトンと手を取れるような気がした。

推しが尊いと言葉を失うオタク

さて、講義の中で特に印象に残ったのが「不文の教説」。最も大切なことは決して言葉に出来ないと言いながらも、別の資料(これを本人の言とするかは判断の分かれている書簡)では極めて簡単な言葉で表せると言っている。この簡単な言葉で表わす為には、共に暮らし気づきを得ることが大切だとされている。
 さぁ、困った。なんだこの言葉遊びのような記述は。心の隅に引っかかり、頭を悩ませ続けること約2週間。ある出来事をきっかけに1つの仮説に辿り着く。

推しのいない先輩とで話す機会があった。そのとき、先輩に「”推し”って概念がわからなくて理解出来ないんだけど、どんな感情なの?」と聞かれた。いざ言葉にしようとしてみて困った。”推し”に何を求めるかは人によって違う。私は恋愛感情を含まないけれど、恋に落ちたら推しと呼ぶ人もいる。学校の先生を推しということもある。ただ尊敬する人や憧れの人とは言えない。結果返せたのは、「具体的に言葉に出来るような感覚ではない」ただそれだけだった。強いて言うなら「尊い」「かわいい」と無意識に思ってしまう存在だろうかと絞り出す。

この会話の後に帰宅してハッと気がつく。「合ってるかどうかは置いておいて、プラトンのあのなぞなぞみたいな不文の教説はこういうことなのでは!?」こうして頭を抱え続けた問題に一筋の光が差し込んだのである。

親近感が芽生えて

前述の2つの考えに至ってから、少しプラトンに親近感が湧いてきた。思えば、2000年以上も前に世界の根源を大真面目に考察し続け議論していたのが彼ら古代の哲学者だ。それは今のオタクが作品に触れ、その世界観やキャラクターを構成するものがなにかを「あーでもない、こーでもない」と頭を悩ませながら考察していくことと大差ないのかもしれない。時代を経ても、自分たち/好きなキャラクターの世界の根源を知ろうとする性格が変わらないのであれば、考察自体が人間の本質の1つではないかと思う今日この頃であった。

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