美しいと物語ること
このnoteは、こちらのエッセイへのお返事です。
自分は小説を感覚で書いています。日や時期によって書き方は異なりますが、そのときの、読み手としての自分が納得すれば脱稿、というのは変わりません。
この先述べることを、常に意識しながら書いているわけではありません。そう書かないとモヤモヤするから、納得できないから、嫌だから、という感覚に従って書いています。なので、(今の)自分の書いているときの感覚を頑張って言語化しようとしたものが、今回のエッセイになります。
ところで自分は、基本的に書いたものについて解説しません。こうですかと訊かれても、可能な限り答えないようにしています。理由は単純で、作者が説明してしまうと、読み方が限定されてしまうからです。それは作品の死です。意図も、読む際には基本的には必要ないものなので、特に述べないようにしています。
ですので、ここでは個々の作品については触れず、それらの意図もなるべく説明はせず、虎馬さんのお言葉に触れながら(引用しながら)、読んで感じたことを、執筆時の感覚を、それぞれ綴っていくことでお返事にしたいと思います。
それではさっそく。
・私は「カタルシス」に依って語ろうとしている。
・伊藤緑さんは「カタルシス」に依ることをされていない。
・「カタルシス」の以前から変わらずに「世界」は「美」としてそこにあった、そして変わらず以後も続く。と、気付くための「カタルシス」であり「気付き」であったのに、「カタルシス」を語るうちにenthusiasmやpassionにとり憑かれてしまう。「カタルシス」は当たり前ではないが、「世界は美しい」のは当たり前でなければならないという矛盾をどう超えるかと思案していたが、「カタルシス」を経由しなければ「世界は美しい」と語ることができないという思い込みがあった。そんなことはなかった。伊藤緑さんの作品は、矛盾を越えているというより、そもそも矛盾が生じていない。
なにかを書こうとするとき、実感というものは極めて重要であると考えています。あることをそのまま書くにせよ、反対のことを紡ぐにせよ、加工するにせよ、実感が底にないものを綴ろうとするのは困難です。実感のない文章の場合、読めばなんとなく伝わってきますし、多くの場合は重心がないためふらふらします。そういう言葉からは、自分は基本的にはなにも感じません。虎馬さんや「目覚めた人」にとって、「カタルシス」は確かな体験であって、非常に重要な実感だったんだろうと思います。ですが自分にとって、そのような原体験はありませんでした(あるいはあったのかもしれませんが、思い出せません)。なので、虎馬さんのおっしゃるような矛盾が作中で生じていないというのは、きっとその通りなんだと思います。実感のない自分には、「カタルシス」を経由するという書き方ができないからです。
・私は、語り手に「美しい」と言わせている。説明させてしまっている。
・伊藤緑さんは「美しい」という言葉を使わない。
その描写によって、私は「美しい」と感じた。
虎馬さんのおっしゃる通りで、今の自分は基本的に、作品のなかで「美しい」という言葉を使いません。使わないんですが、そのことを指摘されたことはほとんどありません。なので嬉しかったです。そこまで丁寧に読んでくださったことが。
「美しい」という言葉を使わないのには理由があります。
多くの場合、小説を読むと「美しい」という言葉に、一度は必ず出逢います。たとえばこんな感じでしょうか。
木々に囲まれた小道を抜けると、そこには美しい海が広がっていた。
学校の坂の下で乱れ咲いた桜は、ただただ美しかった。
この場合、「美しい海」とはいったいなんでしょう。どんな海なんでしょうか。想像できますか。できる場合、それは語り手の見た海ではありません。読んだ人の記憶のなかにある海です。語り手の見ている海は、この文章中には存在しません。「美しい」という言葉が、極めて抽象的な単語だからです。「美しい」という言葉は、海を形容しているようで、実は一切していない。木々に囲まれた小道の先には海がある、ということしか、先に挙げた文章からは分からない。どんな海なのか、海は語り手の目にどのように映っているのか、想像することすら敵いません。もしかしたら前後の文章で語られているのかもしれませんが、だとしたら、「美しい海」という表現は、いったいなにを表しているんでしょう。語り手の心理、あるいは印象でしょうか。だとしても結局抽象的なので、よくよく考えてみると分からない。なので自ら補完するしかないわけですが(読み手が美しいと思うような海を思い描くしかない)、そうなると視点が変わります。語り手の目はその瞬間、読み手自身の目と入れ替わってしまいます。
「美しい」という言葉は本当に抽象的です。言語そのものが抽象的なわけですが、そのなかでも特に抽象的な単語を用いると、なにかを描いているようで、本当はなにをも描いていないという状況に陥る可能性があります。
美というものはよく分からない概念で、自分も、あるものを見たときに美しいと思うことはありますが、その「美しい」とはいったいなんなのかと考えると、よく分からなくなります。それでも、確かになにかを感じている。不思議ですね。
美しい(と感じる)ものを表現したいとき、「美しい」と述べる必要はない。そのことに気づいたのは、苦しいやつらいという言葉なしに、もっと言えば心理描写なしに、苦しんでいる(であろう)人間を描くことができると気づいたからです。五感と言動だけで心理を表現できるなら(この人はつらいんだろうか、この人はこう思っているんだろうかと、読んでくださった方が、正確には読み手としての自分が思えるなら)、「美」でも似たようなことができるんじゃないか。そう思ったからです。
あるいはこういうふうにも考えられます。自分が「美しい」と思うものを、相手が「美しい」と思うとは限らない。そうすると、美しい海とか、桜は美しかったとか、そういった表現はそもそも成立しないんじゃないか。だとしたら、「美」に関しては読み手にすべて委ねるしかない。そうすれば解決できますし、委ねて感じてもらうことで、「美」も、「醜」も、そのどちらでもないものも、一つの作品のなかで、全て同時に描けます。
・伊藤緑さんの作品には描写に徹底する態度・姿勢が見受けられる。
小説はどんなふうに書いても問題ないものだと思っていますが、(ミステリーや恋愛小説、あるいはライトノベルなど、各ジャンルにおけるルールはあるようですが)基本的に小説を開けば、そこにあるのは心理描写の塊です。自然描写や五感は、それを補強するためのものになっているように感じます。この枠から一歩踏み出すなら(五感と言動は心理描写的な意味を十分に持ち得ると信じるなら)、五感と動作と発言を、可能な限り書くしかありません。
そして、その結果として、ムラサキさんが評するように作品から「わたし」が消えているのが興味深い。
日本語は主語がなくても多くの場合通じる言語ですよね。「そのとき私は立った」と言わなくても、大半の場合は「そのとき立った」で問題ない(そのとき、も必要ないですね、たぶん。センテンスを極端なくらい短くしても大丈夫な言語が日本語であると自分は思っています)。問題ないなら別にそれで構わないというのが、最近書いている作品のなかに、「わたし」という単語がない理由の一つです。
それから、冷たい、痛い、かゆい、といった感覚を覚えるとき、そのつど「わたし」というものは出てくるでしょうか。小指をタンスにぶつけたとして、「わたしは痛い」と自分は思いません。ただ痛みと呼ばれる感覚がやってきて、痛い、と思うか叫ぶだけです。そのあとタンスを憎みます。憎んで、忘れます。
可能な限り、五感を五感のまま描こうとするなら、「わたし」という単語は自然と消えていきます。「わたし」というのは純粋な感覚ではない(五感そのものではない)という意識が、自分のなかにはあるからです。それに、誰かがなにかを物語るとき、それを語る「わたし」というものは、五感や言動という色彩で、既に縁取られている。だったら「わたし」はいらない。理由のない限り、輪郭をなぞり直して濃くする必要はない。自分はそう思っています。
補足しておくと、「美しい」や「わたし」という単語を使ってはならない、使うべきではない、と思っているわけではありません。ただ、「美しい」が連呼されているようなテキストを見ると、(今の)自分は、ついていくのがつらいです。もちろん、その作品の語り手の性質にもよりますが。「わたし」に関しては、私小説や独白体、エッセイなど、「わたし」という意識が全面に押し出されている場合であれば平気なのですが、そうでない場合は違和感を覚えることが結構あります。
読者の多くは、物語(ストーリー)に慣れています。
おそらくは、物語(ストーリー)が無いテキストというものを、よく想像できないほどに。
物語性の豊かな作品は好まれますよね。小説とは物語だと考えられているのかもしれません。そうすると、自分の書いてきたほぼすべての作品は、多くの方にとって、およそ退屈なものなのかもしれません。小説ですらないのかもしれません。
でも、思うんです。ストーリー性だけが、起承転結だけが、小説なのかなって。(一般的な意味での)物語性を排したとき、小説はどうなるだろうかって。同時に、物語性のない小説はないんじゃないか、という感覚もあります。感覚や言動だけを書こうとしたところで、光景をありのまま紡ごうとしたところで、その語り手の過去や経験は、そこに現れてしまう。ただ立っているだけの場面を描いたとしても、桜の木が揺れている瞬間を綴ったとしても、(一般的な起承転結とは異なる意味での)物語性はあるんじゃないか。なんとなくですが、感じていることです。
・「カタルシス」の以前から変わらずに「世界」は「美」としてそこにあった、そして変わらず以後も続く。と、気付くための「カタルシス」であり「気付き」であったのに、「カタルシス」を語るうちにenthusiasmやpassionにとり憑かれてしまう。
未だ「目覚めていない人」を見下し、「目覚めた人」である我こそが上から人々を導こうとする「妄想」と「神がかり」は、私の知る限りでさえ悲劇と悪行を生んでいます。
「特に自分だけが神から恩寵を受け、あるいは神と交通しうるかのごとく思いこんでいる愚かな(ヴェイン)妄想」にとり憑かれた「神がかり」は、やはりどこまでも伊藤緑さんの作品とは相容れないようです。
自分は自分のために書いているので(読み手としての自分へ贈っているだけなので)、作品が誰かに良い影響を与えることの不思議さを、絶えず実感しています。そもそも、導く対象もいなければ、目覚めたという実感もない自分には、enthusiasmやpassionは、言葉の上でしか(頭でしか)理解できない感覚です。実感の伴わない感覚ですね。
そして、家族のご飯を毎日作り続ける私も、平日に通勤し仕事をする夫も、体は健康であり子どもなのに不登校児として引きこもり何年も無為な日々を過ごしてきた息子も、きっと凄いのです。
単調な、当たり前の、普通の一日は美しく、そういう日々が続くことは幸せです。
多少家庭が荒れたことがあるだけでも、ほんと、そう思います。
その人が感じることは、その人だけにしか感じられないこと。世間で言われるような特別なるものが特別なわけじゃない。その人の一日は、いかに過ごそうとも、確かに特別で。
「美」というものそれ自体が、単体で存在するわけじゃない。実際に物体として存在しているのは、眼前だけで。「美」は、「美しい」という感覚のなかにある。仮にそうであるなら、同時に「醜」もそこにある。
美しさも醜さも、今この瞬間に、確かに目の前に(感覚の前に)広がっている。
こんなふうに感じています。きっかけや原体験は思い出せません。これらに気づいた、という気づきも、自分にはありません。
自分は眼前を(感じたものを)、不完全な言語でただ写しているだけです。写し方は様々ですが、それは眠ったり食べたりするのと同じくらい、自分にとっては必要なことです。そこに情熱はありません。お昼寝をするときに、情熱を抱いて眠ろうとする人が(おそらくは)いないのと同じことなんだと思います。睡眠とenthusiasm、あるいはpassion、結びつきませんよね。
鹿子さん。エッセイ、何度も何度も読み返しました。これから先も、たくさん読み返すと思います。知らなかったことを教わりました。自分の「感覚」を見つめなおすきっかけを頂きました。ありがとうございます。このエッセイは、お返事としては妙なものになってしまいましたが、お許しください。なにかございましたらコメント欄で補足など致しますので、よろしくお願いします。それから、いつも読んでくださっていること、本当に嬉しく思っています。支えられています。
とってもとっても楽しい時間でした。本当にありがとうございました。
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