夜霧と月

 ベランダの手すりに胸を預け、夜霧に手を伸ばして。戯れました。痩せた月明かりのまねをして。

 あごを上げ、半月を唇でかじったら、味はしなくて。ただ、皮膚と粘膜が、冷たくなって。

 なにも考えず、なにも思わず、ただ、右手の指を動かしていたら、ポケットのなかで、高い音が膨らんで。取り出せば、ぼうっと光る、汚臭の波が。無数の音吐が。下から上へと流れていく、嘔吐物。戻されたものをすすらずにはいられない唇の荒れが、夜の空気のなかで、硬くなって。

 目玉を滑らせれば滑らせるほど、転んで、立てなくなって。真っ暗な部屋に向かって投げ捨てて、熱くなった右の手を握り締めました。そうしてまた、腕を伸ばし、手すりの向こうへだらりと垂らして。そうしたら、金属に体温を弄ばれました。

 さっきの濃い光が、目頭にこびりついていて。すばやくまばたきを繰り返しながら、ますます淡くなってしまった月の息遣いに、耳をそっと、傾けました。

 こうしているのが、いいんです。濃淡で汚れた色彩の線など見ずに、ただこうしていれば、それで。

 むしろこうしていないと、だめなんです。胸底に茂った雑草がざわめくから。ざわめいたら、その音で気道が詰まってしまって。それで、知ってしまうから。逃れられないことを。同種だということを。だから。

 また手を伸ばし、霧をくすぐって。そうしたら、月影の表情が変わりました。

 くすくす笑っているんです。霧といっしょに。

                               (了)

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