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育休九日目(春夏秋冬プールへいく)


四月初旬、金曜日の午後

学校から帰ってきた新一年生の長女は少し疲れた様子でYouTubeを見ていた(子どもにYouTubeを見せることの是非についてはまた論じたい)。Fischer’sというユーチューバーがお気に入りで、いろいろ場所へ行って少年のように遊ぶ彼らを眺めるのが娘のお気に入りの時間だ。彼らがプールで遊ぶ動画を見た娘は、
「プール行きたいなぁ」
とつぶやいた。

我が家には夏にプールに行くという常識はない

急いで準備して、娘二人と室内のプールへ。ほとんど人がおらず貸し切り状態。娘二人を連れていったが長女は無事小学生になったこともあり、スイミングスクールにも通っていることからも、一人でも泳げた。ライフセーバーがたくさんいたおかげで様子を見てもらえた。

次女のやんちゃぶり

今日も相変わらず。はじめは少し怖がって抱きついていたが、わたしや娘が抱っこやおんぶで入ったり、わたしと娘がわいわいやっているのを見たりしているうちに、一人でもプールに入ったり出たり繰り返すようになった。そのうち30センチプールから60センチプールへ移り、帰ろうと声をかけると、「出ない」「もっと」といつもの自己主張。あと一回おんぶでプールを一周したら出ると交渉するも、その場では頷くがいざ一周終えると「もっともっと!」。最後は少し強引に抱っこしてプールを出た。

水の中で遊ぶ意味

我が家は姉妹そろって水遊びが好きだ。ただ、プールで遊ぶ時ならず、公園で遊ぶ時も親には覚悟が必要である。服が汚れるリスク、風邪をひくリスク、溺れるリスク。ついつい避けがちである。ましてや、一人で二人見るのには勇気がいる(実際わたしも二人連れていくのは初めてで、何度か躊躇った後の今日であった)。しかしである。子どもは概して水遊びが好きである。そしてその中で得られる感覚とスリルは他の活動では得難いものがある。
子どもが求める遊びはできるだけ一緒にしたい。子どもが何かしたいと思った時、私たちはついつい自分の都合で判断を下し、一緒に遊ぶという選択を避けはしないだろうか。その選択回避を重ねることで、子どもは自ら求めることをやめ、欲望に蓋をしてしまう。そうすると、自分が何をしたいか分からなくなる。この時、私たち大人は子どもの主体性を弱めている。このように育った子どもたちは、将来、生きづらさを抱えることに繋がりはしないだろうか。子どもの欲望に蓋をするのではなく、欲望に向き合うことが、大人のすべきことではなかろうか。そんなことを考えながら、次の一節を思い出した。

「確かに我々は欲することを為すことができる(行為の自由)、だが自分の欲することを欲することはできない」
            ショーペンハウアー

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