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(仮題)家を買う人/小川悠②

 蒸し暑い。開けられる窓は全て開放していたが、網戸越しの風はいくら待っても吹かず、不快度の高い熱帯夜だった。月明りが差し込みほのかに青白く暗い寝室で、悠は眠るに眠れず寝返りばかりうっていた。
 昼間路上で受け取った団扇は、扇ぎ疲れてたまらず床に放り投げてあった。汗がジワジワと噴きだして止まらないのは、やはり肥っているせいもあるのだろうか。いつもこれだけ汗をかいても一向に痩せないんだよなぁ、とボンヤリと思う。
 食べることは好きだったし、いつしか飲食店めぐりは趣味のようになっていた。もともと痩せているほうではなかったが、東京に越してきてからは目に見えて体型が変わってきていた。なにしろ東京は美味しい店が多い。昨日は新宿、今日は神保町、明日は四ツ谷とあれこれ食べ歩いても、まだまだ未訪の店だらけだ。そういえば一昨日に新日本橋で食べた穴子丼、あれは美味しかったなぁ。
 ついうっかり、ふっくらとした穴子丼をありありと思い描いてしまった。結果、目が完全に覚めてしまい、もはや寝付ける気がしなかった。束の間、暑さを忘れられたのが幸いか。
 起き上がって冷蔵庫から水を取り出して飲み、フッと一息つくとダイニングの椅子に腰掛け外を眺めた。真夜中だ。眼下に家の明かりはほんの僅かで、チカチカと赤・白・オレンジの光を放つのはほとんどが道路や街頭だ。遠方に一列、オレンジ色のラインが見えるのは荒川の上を跨ぐ首都高環状線の高架だろう。
今日訪れたモデルルームのマンションの建設地も、そちらの方向にあるはずだった。
 
 人生で初のモデルルーム訪問のきっかけになったのは、あのアルバイトの男性から受け取った団扇だった。
 とにかく降って沸いた外出で、行きたい所のあてもなく、あの後ブラブラと駅の周りを歩いていたら、たまたまモデルルームを見つけてしまったのだ。
 黒とベージュのモルタル吹付け塗装が施されたプレハブ2階建の建物は、幹線道沿いのコインパーキングの一角に建っていた。普段は訪れない駅の反対側エリアで、いつ頃からあったのか見当もつかなかったが、手元の団扇と同じクッキリとした濃緑色に白字のロゴののぼりがはためいていて、ひと目でそれとわかった。
 なぜ中に入ってみたのか。自分でもよくわからなかったが、とにかく照りつける陽射しから逃げたい気持ちもあったのかもしれない。そして昨日からの疲れと暑さから、やや思考もボーっとしていた。
 
自動ドアが開くと、冷房でよく冷やされた空気が一気に吹きこんできて心地よかった。
 「いらっしゃいませ」
 受付の制服を着た女性から、すかさず声がかかる。
 「お客様、恐れ入りますがご予約を頂戴しておりますでしょうか?」
 「いえ、いや、あの、先ほど団扇を駅前でもらって。」
 「ああ、畏まりました。モデルルームのご見学をご希望でしょうか?」
 「ええ、ああ、はい、そうです。」
 「畏まりました。それではあちらのベンチへお掛けになり、
こちらのアンケートをご記入になってお待ちください。」
 言われるがまま、紙が挟まれたバインダーとペンを受け取る。ざっと目を通すと氏名欄や住所欄のほか、職業や年収、希望の支払いや予算などを記載する欄もあり、アンケート、とは自身の個人情報を記載する要望シートのようなものらしかった。
 さて、どこまで書いていいのやら。住所や電話番号、メールアドレスをそのまま書くのは気が引けた。強引な営業を受けても困る。なによりたまたま成り行きで立ち寄っただけで、マンションを購入する気も何もないのだ。
 少し逡巡して、名前の欄には「大川裕」と思いつきの偽名を書き、住所や電話番号は途中の数字を違うものに入れ替えて記載した。
 「ご記入が終わりましたらアンケートをお預かりします。」
 ふたたび受付の女性に言われるがままバインダーとペンを返し、ベンチでそのまま数分待っていると、受付の裏からスーツを着た男性スタッフが現れ、受付の女性と何か小声で話をしながら、悠の方を一瞥した。40歳前後だろうか、悠以上に恰幅がよく、迫力がある。やがて男性はそのまま悠のところまで来て名刺を出し、営業の岡本です、と名乗った。
 「大川様はモデルルームのご見学は始めてですか?」
 「ええ、あ、はい。そうです。」
 「失礼ですが、本日はどのようなきっかけでこちらのモデルルームまでお越しに?」
 「あ、ええと、駅前でこの団扇をもらって。」
 団扇ですか、と岡本という男は呟いた。どうしてか、あまり歓迎されている感じはしない。
 「マンションのご購入をご検討ですか?」
 「ああ、ええと、いや、まだ買うかどうかも決めていないんですけど。」
 「ご予算などは?」
 「すみません。まだ。」
 「ご希望のお広さなどは?」
 「それも、まだ。」
 「大川様、ご住所はこちらのアンケートに記載頂いたものでお間違いありませんか?」
 不意打ちにドキッとする。
 「ええ。あ、はい。」
 「お間違いないんですね?」
 「はい。」
 「・・・。承知しました。」
 岡本の返事は相変わらず素っ気ない。もしかして、嘘の住所が早々にバレてしまったのだろうか、と不安になる。こういう所では、書いた住所などは調べられてしまうものなのかもしれない。番号の並び方によっては実在しない住所になっていた可能性がある。うっかりしていた。でたらめではなく、昔の住所などを書いておくべきだった。
 しかし、住所についての追求はそこまでだった。
 「大川様。恐れ入りますが、本日はご予約で埋まっており、営業員も手一杯な状態です。団扇のノベルティは差し上げますので、また日を改めてご予約のうえお越し頂けないでしょうか?」
 慇懃だが、厄介払いの意図は明確だった。
 ノベルティ? 意外な言葉が飛び出し戸惑うが、持参した団扇を改めて見直してみて、ようやく全ての合点がいった。団扇の片隅には、『モデルルームに持参するとその場で500円分のクオカードプレゼント!!!』とある。つまりこの岡本という営業は、悠のことをノベルティが目的でモデルルームを訪れた客だと思っているのではないか。
 確かにそう思われても仕方がない。予約もしていないし、はっきり検討するそぶりも見せていない。それに格好も漫画喫茶から出てきたときのまま、半分寝巻きのような短パンにTシャツ、サンダル姿だ。とても数千万円の買い物をしにきた客には見えないだろう。
 「ああ、そうなんですか、ああ、はい。ええと・・・」
 別に問題はない。もともと購入する気もなく何となく訪れたのだ。数百円とはいえ、金券ももらえるなら儲けものではないか。
 それでも、なぜか悠の心には引っかかるものがあった。決してそんなさもしい目的で来たのではない、誤解されたくないというささやかなプライドだったのかもしれない。そしてそれを、口に出していた。
 「いえ、クオカードはいりません。
あの、モデルルームを、見せてもらえませんか? 少しでいいので。」
 岡本は、いりません、のところでは少し意外そうに目を開き、見せてもらえませんか、の部分で今度は露骨に面倒そうな表情を浮かべた。
 「はあ。」
 「ええと、ちょっと見たら、帰りますから。」
 怪訝そうな顔でこちらを見る。悠の目的が何か、図りかねているようだった。
 「そうですか。・・・ええ、かしこまりました。
  ですがお時間がありませんので、20分程度で宜しいですか?」
 「はい、構わないです。」
 「わかりました。ではこちらへどうぞ。ご案内します。」
 観念したように、岡本は悠を奥の扉のほうへと促した。

 初めて見たモデルルームの記憶は、不思議なことに当日の夜のいまではほとんど思い出せなくなっていた。そこで見たものは風景として、写真か画のようにいくつかの像は浮かぶのだが、それが何を指しているのかはまったく頭に残っていなかった。視界からの情報量が多く、処理できないまま連れ回されたので当然といえば当然だった。
 岡本に連れられて入った、マンションの一室を再現しているという部屋は、シャンデリア風の照明や鏡張りの壁などでゴテゴテと飾られていて生活観がなく、どこからどこまでが売り物なのか全くわからなかった。岡本曰く、キッチンの設備にはグレードの高いものを採用しているとのことだったが、そもそも料理をしない悠にはその魅力がいまいち伝わらなかった。73平米の3LDKという広さも、独り暮らしの身には現実味がなかった。
 ただ、バスルームの広さときれいさだけは魅力的だった。岡本によると、特別に仕様がいいというわけではないようだったが。
 見せられた部屋の値段は4000万円程度で、そのマンションはすべて3LDKの構成で3500万円台から用意があるとのことだった。3500万円が自分にとってどれほどの価値のものなのか、はじめはわからなかったが、仮に同額の借り入れを起こし、月々の支払いに換算すると9万5、6千円程度らしいと岡本に教わった。そのほかに管理費等がかかるようだったが、意外にその程度か、という印象を持った。もちろん決して安くはないのだが、悠にもそこそこの貯えはある。自己資金をある程度出せば、決して手の届かない金額ではなかった。今の家賃から少し背伸びをした程度の支払いで、新築のマンションが購入できるという事実は悠に新鮮な驚きを与えた。
 とはいえ、3LDKの広い間取りはいまの悠にとっては必要なかったし、船堀駅から徒歩10分という立地であえて購入しようという気にはならなかった。それにいくら支払いが家賃並みだからといって、やはり大きな金額の借金を背負うことは、早々に受け入れられるものでもなかった。
結局のところ、予定された20分を少し超過したところで、簡易な資料を受け取って帰ったのだった。クオカードの受取りは、最後まで固辞した。

 こうして成り行きから人生初のモデルルーム見学を終えたのちは、再びカフェに寄ったり本屋に立ち寄ったりとブラブラと過ごし、中華屋でチャーハンセットの晩飯を食べた後、一旦着替えに蒸し風呂の自宅へ戻ることにした。自宅へ戻ってすぐ、ドッと慣れない外出の疲れが押し寄せて、結局そのまま自宅から動けなくなってしまった。
 夜中、窓から街を見下ろしながら、これからのことについて考える。
 エアコンは修理を依頼するとして、その後はどうしようか。「家賃並みの支払い」というキーワードが妙に頭に残っていた。確かに、今よりも便利な場所で、今よりも住みやすく綺麗な家に、そして今よりも対外関係に頭を悩まさなくていい家なのであれば、そこに住むのも悪くないかもしれない。
 今まで考えてこなかっただけで、決して悪い話ではないかもしれない。色々と、情報を集めてみようか。
 そこまで考えた後、再びベッドへ戻ると、今度はすんなりと眠りに落ちた。

#小説 #短編 #マンション #不動産

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