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エッセイ「原風景」

 ジリジリとやかましいベルが鳴って、新幹線がゆっくりとホームに入線する。走っている時の姿とは比べ物にならないほど穏やかなその動きは、小さい頃から知っている人の知らない面を見たような気持ちになる。

 今日は、父の仕事の手伝いで静岡県に同行する予定があった。そのために2人は米原駅(滋賀県)で新幹線を待っていた。

 私の育った街は、田んぼの真ん中に東海道新幹線が走っている。米原-京都間にある小さな田舎町。

 小さい頃は下校しながら新幹線を眺めたり、たまにドクターイエローが走ったのを見てはみんなで指差して「あれって見れたら幸せになれるんだって」と教えあったりした。

 通っていた中学校は、窓から新幹線の線路が一望でき、カーテンを全開にしておくと、週に2回くらいドクターイエローが走るのが見える。

 ときたま、クラスの男子がドクターイエローの主要駅発車時刻を調べ、大体中学校の前を何時頃通過するかを計算し、そのためにカーテンも窓も全開にしておく、ということもあった。

 男子が予想した時間にほんとうにドクターイエローが通過すると、クラスの雰囲気が少し高揚し、先生も一緒になってその時だけ「おぉ」と言って、授業を中断して眺めていた。

 新幹線はまるで飛行機のようで、遠くからこちらへ向かってくる時、すでに小さく音が聞こえてくる。気配がするのだ。そして間も無く、しゅん、と風を切る音がして、東京、もしくは大阪のほうに過ぎ去っていく。

 だから、高速で走っている新幹線のほうが私にとってはなじみが深くて、ゆっくりとホームに入線してくるのは新鮮なのだ。


 小学生の頃、祖母が手入れをしていた畑と田んぼが、新幹線の線路の真横にあった。下校後、よく祖母の畑仕事について行っては土や葉っぱ、石を使っておままごとをしていた。

 そのとき、新幹線の音をよく聞いていた。新幹線が横を走れば、大声で話さないと会話が聞こえない。そんな不便さも、今となっては少し懐かしい。

 祖母の畑と田んぼは、分譲地ができるに伴って売却することになり、新幹線の真横の土地は知らない人のものとなってしまった。


 新幹線ができたのは1964年。東京オリンピック直前の開通だったという。1939年生まれの祖父は、当時25歳だろうか。

 新幹線をつくる際、線路の予定地にあった木を切ったり、土地を売ったりしたため、我が家にも少額のお金が入ってきたようだ。

 当時のことを祖父に聞けばなにか面白いエピソードが出てくるのではないかと期待して電話を掛けたが、「当時は大阪の吹田に住んでたから、全然覚えてへんわ」と言われてしまった。


 新幹線が走るこの町の特筆すべき点は、神社にある。

 町内の人間が大切にしている、古くからある神社だ。毎年5月に行われる豊作を祈る祭りでは奉納の絵花火を町民でつくりあげる。これが無形文化財にも指定されており、毎年遠方から観にくる根強いファンもいる。

板に硫黄を使った火薬で絵を描き、特殊な方法で点火したのち、絵柄が浮かび上がる仕掛け花火だ。そのほかに一般的な打ち上げ花火もある。

 この祭りが行われる神社の参道の入り口、つまり鳥居があるところは、本殿から一キロメートルほど離れており、ずっと真っ直ぐに道が伸びている。

 実は、その参道を十字に横切るように新幹線の線路が通っているのだ。

 真っ直ぐに鳥居から参道を歩くと、新幹線の線路の下をくぐるようにして本殿にたどり着くことができる。そのため、祭りの際に打ち上げる花火はJR東海と協力の上、時刻表を見ながら、新幹線が走るタイミングで一旦打ち上げを止める。そんな特殊なきまりがあった。

 町内は4つの地区に分かれており、西出、東出、石橋、櫻井、とそれぞれ名前がついていた。

 その名前は私が知る限りでは公的な地図には載っていない名前で、住民だけが把握する自治体だ。その四つの地域が1つずつ集会所と大太鼓を持ち、祭りの際には神社に集まって太鼓を打ち鳴らす。また、地蔵盆や年末年始などの行事もそのエリアごとに行われる。

 高校生になるとよく、神社から新幹線を眺めながら、遠くへ行きたいなぁと考えていた。

 自分と、自分の祖父のことをほとんどの人が知っているこの町を抜け出して、私の知らないところへ行って、馴染みのない方言を聞いて、馴染みのない郷土料理を食べて、というような旅に憧れた。

 あの新幹線は東京に行くんやなぁ、あの新幹線は京都に行くんやなぁ、いや、博多まで行くかもしれへん。いいなあ。乗りたいなあ。お金があったらなあ。

 そんなことを心の中で考えながら、ぼんやり新幹線を眺めたこともあった。


 大学生になって、大阪で1人暮らしをすることになった。総合芸術大学として有名で、関西に似たような大学が少ないこともあって、遠くから下宿して入学している生徒も多かった。そのため、四年間かけていろんな地域の出身の人と出会った。

 最初に友達になったのは大阪の子だった。彼女はかわいい顔をして、かわいい声で、口の悪い関西弁で毒を吐くギャップのすさまじい子だった。

 そして香川出身でうどんの質にうるさい彼氏ができた。また、沖縄の那覇と石垣島出身の子とも出会った。「セブンイレブンないってほんまなん?」そんなことを訊いて、「ほんとだよ」と笑いながら言われた。(※2019年当時。今はあるそうです)

 四年も終盤だが、最近になって宮城出身の後輩とも仲良くするようになった。東日本大震災に対する捉え方は、関西人のそれとはやはり全く違った。それから、友達の友達として紹介された神戸の子とも知り合った。彼は語尾が「~してる」ではなく「~しとお」と話す。

 そして私はバイト代高校のときに考えていた通り、いろんな場所を旅した。北海道の旭川から福岡の門司に至るまで、いろんな場所に行って、いろんな人と出会った。

 北海道では、旭川から登別まで3時間半かかることを知って驚愕した。それを現地の人に、「滋賀からだったら、姫路まで行けますよ。三県くらい跨いでます」と言うと驚かれた。

 山形では、外気温1度くらいしかないのに「今日は暖かいですね」と言われた。

 岩手県では、「すき焼きは豚肉でするんです」と言われ、それってすき焼きなのか、と疑問に思った。

 東京ではただの日曜日に表参道に人があふれかえっているのを見て、「地元だったら祭りでもこんな人の多さはありえないな」と思った。

 兵庫県神戸市須磨区のあたりでは、電車が砂浜のすぐちかくを走っていることに驚いた。この辺の高校生はこんなところで青春できるなんてうらやましいなぁ、と思った。

 鳥取では、小さいころ絵本で見たことがある砂丘が本当にあることをこの目で確認して、その日本離れした光景に感動した。

 山口では、「最後の西日が見られる場所」と謳っている本州最西端の場所に行って、そこで暮らしている人たちを見て「この人たちにとって『本州の端』は日常なんだ」と思った。

 福岡の門司港周辺では、とても古い建物にスターバックスが入っていて風情がある光景だった。

 日本各地を旅して分かったのは、私は地元が大好きだったんだ、ということだった。地元が窮屈だったんじゃなくて、地元を「帰る場所」にしておきたかったんだと気づいた。

 ずっと一生ここにいるつもりはないけれど、でも、この町が嫌いになったわけじゃない。外に出て文化の違いを新鮮に感じたり、地元の良さを再認識したり、そうやって刺激を求めていただけだったんだと。

 先日決まった就職先は、全国に店舗のある販売業だ。全国転勤の可能性がある。あまり勤務地を考慮せずに就職試験を受けていたが、全国転勤ありというのは私に向いているのかもしれない。

 数年おきに全く知らない土地に住んで、気に入ったところがあれば定住すればいい。そして、盆や正月には、新幹線に乗って、大好きな地元に帰ればいい。

 夏はすっきりと晴れてどこまでも青空が続き、青空が琵琶湖の湖面に反射し、入道雲が空に浮かぶ。どこまでも世界が広がっているような解放感と、じめっとした暑さ。

 冬はツンと鼻が痛くなるくらい空気が冷たく張りつめて、年末が近づくとしんしんと雪が降り積もり、祖父母の目の前の家の除夜の鐘が町中に鳴り響く。

 そしてどんな季節も、いつの日も、大きな音を立てて風を切り裂き、神社の参道を横切って新幹線が走り抜けていく町。

 そんな地元の原風景を、帰る場所としてずっと大切にしたい。どこに行っても、どこに住んでも。

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