「あなたじゃなくてもいい」
コンテンツの仕事に携わっていて、「消費」ということをよく考える。けれど「消費」とは一体何だろうか。
仕事終わりにベットに倒れ込んでYoutubeの関連動画を何となく見ているとき、私は「消費をしているな」と感じる。し、私自身もコンテンツに「消費されている」気がする。
まず「何か満たされない感じ」があり、その空白を満たすために動画を見る。気分を紛らわすこと、何も考えないことが大事なのであって、その動画が何であるかはそんなに大事ではない。観終わったら次の関連動画が表示されて、そしたら今観ていた動画のことはもう忘れてしまう。
そしてコンテンツの方だって、別に私じゃなくてもいい。コンテンツが求めているのはPV「1」のカウントであり、広告を見てくれる「1」なのだから。
時間がないなかで手っ取り早く気分転換したくてZOZOで服を買うのも、ていねいな暮らしに憧れてとりあえずオシャレなキッチン用品を買ってみるのも、あるいは例えばアプリで半径3km圏内の誰かを召喚するのも、「あなたじゃなくてもいいし、私じゃなくてもいい」。
つまり消費の特徴は「代替可能性が高いこと」といえるかもしれない。
てきとうな消費をするとき、私たち自身もまたてきとうに消費をされていて、自分の実存がどんどん軽くなっていくのだ。
國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』では、フランスの哲学者ボードリヤールを援用して、消費について以下のように語られている。
「代替性が高いこと」と、ボードリヤールの考えで共通しているのは、「人や物自体を見ていない」ということではないか。
例えば話題のレストランに行くとき、欲望の対象は食べ物そのものではない。「あの店に行ったよ」とだれかに言うため、写真を撮ってSNSにあげるためだ。だから、お腹が満たされても本当の欲望が満たされることは永遠にない。その時イケてるものなら、タピオカでもマリトッツォでもタージーパイでも何でもいい。タピオカは観念の依り代にすぎない。
この本が刊行されたのは2015年だが、当時よりさらに消費のスピードが速くなり、コンテンツプラットフォームがますます肥え、「個性的な私を演出するために」という個人の思惑すら入り込む余地がなくなってきている気がする。
今、みんなが消費に苦しくなっているのは、何に対しても自分との固有の結びつきを感じられないからなのかもしれない。物そのものを感じることができないし、誰も「あなたじゃなきゃいけないの」と言ってくれない。恋人はわたしそのものを実は見ていなくて、「恋人」という観念にわたしを当てはめて消費しているだけなのかもしれなくて、その観念のなかに入れる人はこの私じゃなくてもいい。そんな不安が薄霧のようにずっと付き纏っているのだ。
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