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人生に、重さはあるのか?――『存在の耐えられない軽さ』


 我々の人生に、重さはあるのだろうか?


 例えばたいていの物語では、主人公の〈重さ〉がドラマの起点となる。彼/彼女は逃れられない使命を背負っており、その重荷に耐え、なすべきことをなせるか、というところにドラマが生まれる。重荷は人に試練を与えるが、同時に生きる意義をも与える。

 しかし人生というものは本質的に軽い。なぜなら人は一度きりしか生きられないから。

 『存在の耐えられない軽さ』冒頭では、この人生の〈軽さ〉についてニーチェの永劫回帰という思想に触れたうえで次のように述べられている。


永劫回帰という神話を裏返せば、一度で永久に消えて、もどってくることのない人生というのは、影に似た、重さのない、前もって死んでいるものであり、それが恐ろしく、美しく、崇高であっても、その恐ろしさ、崇高さ、美しさは、無意味なものである。
永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。(中略)もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現れうるのである。


 人生が永遠に繰り返されるものだとしたら、人生は宿命を帯びた重いものになる。しかし一回きりで消えてしまう人生にはいかなる必然性もなく、ただ「どうとでもなりうる」という偶然性があるのみである。我々の人生は羽のように軽く、自由で、そして無意味だ。

 その無意味さに耐えられないとき、我々は人生に〈重さ〉を与えようとする。自分の使命を見出したり、愛する人のために生きたり、ある思想を信じることで、自分をより大きいものに接続させようとする。だがその〈重さ〉は我々を縛りつけ、思考と行動の自由を奪いもする。

 そこで、作者は我々に次の問いを投げかける。


重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?


 〈重さ〉と〈軽さ〉。この「あらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的」な二項が、この美しい物語の川床を流れつづけるのである。


1.あらすじ

 『存在の耐えられない軽さ』は、チェコ出身でフランスに亡命した作家ミラン・クンデラが1984年に発表した小説である。

 舞台は1968年前後のチェコスロバキアのプラハ。優秀な外科医のトマーシュは前妻と離婚してから数多くの短期の恋人との関係を楽しんでいたが、小さな田舎町でウェイトレスとして働いていたテレザと恋に落ち、プラハで共に生活を始める。しかしそれからもトマーシュの浮気癖は直らない。数多の女の中でも、トマーシュが継続的に関係を持っているのが画家のサビナだ。彼女は以前のトマーシュと同様に夫婦や家族といった規範的な関係性を嫌い、一人で生きる聡明な女性である。一方テレザはサビナのはからいで新聞社の写真室で働くようになるが、トマーシュの浮気に苦悩し、悪夢ばかり見るようになる。

 そんな折、1968年8月20日にソ連軍のチェコスロバキア侵攻が起き、トマーシュとテレザはスイスのチューリッヒへ逃れる。
チューリッヒに来てからも、トマーシュは同じくスイスへ逃れていたサビナと、そして他の女ともまた関係を持ち始めてしまう。テレザは見知らぬ町でひたすら嫉妬心に苦しめられる生活に耐えきれず、一人でプラハに戻る。トマーシュはまたプラハに戻ればもう二度と国外に出られないことを承知のうえ、テレザを追ってソ連軍に占領されたプラハへ戻る。

 その後、トマーシュは侵攻以前に投稿したある文章がもとで警察に目を付けられ、外科医の職を追われ、田舎でトラック運転手の仕事につく。トマーシュとテレザはその田舎での生活に幸福を見出すのだった。

 この小説はトマーシュとテレザ、サビナという三人の人物を軸に展開する。一人で奔放に生きるサビナと、トマーシュただ一人に愛情を注ぎ続ける無垢な田舎娘テレザ。この二人の女は対照的な人物として描かれる。サビナは〈軽さ〉、テレザは〈重さ〉の側に属しているように見える。しかしこの二人の女はどちらも自身の〈存在の耐えられない軽さ〉に苦しめられているのだ。彼女たちが抱えている〈軽さ〉とはそれぞれどのようなものであろうか?


2.サビナの〈軽さ〉ーー隊列を離れること

 サビナは家族、恋人、共産主義下のさまざまな抑圧から逃れ続け、一人で自由に生きる。サビナはそれを「裏切り」と呼び、あらゆる〈重さ〉と同調することを拒み続けた。

裏切りとは隊列を離れて、未知へと進むことである。サビナは未知へと進むこと以外により美しいことを知らなかったのである。

 「隊列」のわかりやすいイメージはメーデーのパレードや抗議集会での行進である。みんなで同じリズムで行進し、同じタイミングで同じスローガンを叫び、歌を歌い、こぶしを突き上げること。隊列のなかで人々は、その思想が達成されたあとに待っている完璧で理想的な世界観に酔いしれ、その世界観をここにいる全員と共有していることに感激する。この世界観の美的な理想を「俗悪なもの(キッチュ)」という。

 キッチュとは本作を読み解く鍵となる概念である。本作をはじめ多くのクンデラ作品を訳した西永良成は、キッチュとは「なにがなんでも「存在との無条件の一致」に同意したいと願う人間の価値観・美意識・倫理観に基づく欲求のこと」(1)だと述べている。それをわかりやすく言い表しているのが作中の次の記述だ。

俗悪なものは続けざまに二つの感涙を呼び起こす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!
第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのはなんと素晴らしいんだろう!
この第二の涙こそ、俗悪を俗悪たらしめるのである。
世界のすべての人びとの兄弟愛はただ俗悪なものの上にのみ形成できるのである。

 例えば共産主義、人類愛、世界平和。これらの思想が提示する世界観は絶対的に肯定すべき理想郷であり、そこに汚いものは存在しない。汚いものはその世界の外に、その世界観に同意できない者たちのなかにのみ存在する。そのような、「糞が否定され、すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界」が、キッチュな美的理想ということになる。 

 しかし西永が指摘するように、「いかなる具体的な「存在」も完全無垢なものではありえず、なにかしらの汚点、欠陥、どうしても許容しがたいものをかかえている」(2)。そこでその矛盾を覆い隠すために、その世界を感情で支配してしまうのだ。感情が支配している世界で、理性が疑問を差し挟むことは不作法である。サビナは全体主義が人々を迫害している現実そのものよりも、人々を行進させるその美的な理想に身震いを感じた。

 ちなみに、この〈キッチュなもの〉は全体主義にのみ現れるものではなく、全体主義と戦う者たちのなかにも表れる。

だがいわゆる全体主義的な体制と戦う者たちは単に質問することと、疑うことによってのみかろうじて戦えるにすぎない。この者たちもできるだけ多くの人に理解でき、集団の涙を喚起させるために、自分自身の確実さと単純な真実を必要としていえる。

 だから、彼らが何を叫んでいるかはサビナにとって問題ではないのだった。例えばチェコの抗議集会で叫ばれていたソビエト帝国主義反対のスローガンは彼女の気に入ったが、そのスローガンを一緒に叫ぶことはできなかった。ただ、全員と同じ身ぶりをし、感涙を共有することが彼女にはできなかったのである。

 彼女の裏切りの旅の先には何が待っていたのだろうか。サビナは新しい恋人の大学教授フランツのもとから去ったとき、自分にはもう裏切るべき何物も残っていないことに気が付く。

サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。
これまではそれぞれの裏切りの瞬間が裏切りという新しい冒険に通ずる新しい道を開いたので、彼女を興奮と喜びで満たしてきた。しかし、その道がいつかは終わるとしたらどうしたらいいのか?人は両親を、夫を、愛を、祖国を裏切ることができるが、もう両親も、夫も、愛も、祖国もないとしたら、何を裏切るのであろうか?
サビナは自分のまわりに虚しさを感じた。ところで、もしこの空虚さが彼女のこれまでのすべての裏切りのゴールだとしたら?

 隊列から離れるということは、外部からの動員に応じず、理性によって自らの道を切り開いていくことだ。それは自由になることであり、世界を正しく見つめようとすることである。そのサビナの生を、空しいと断じることはできない。しかしそうしてあらゆる〈重さ〉から逃れた先には、ただ〈存在の耐えられない軽さ〉があるのみだった。

 さて、ここでもう一度冒頭の問いに戻ろう。


 重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?



3.テレザの〈軽さ〉ーー裸の女たちの行進


 テレザはサビナとは対照的に、愛に生真面目な女である。〈軽さ〉という概念を語るときにはサビナをその体現者として論じられることが多いが、しかしテレザもまた、〈存在の耐えられない軽さ〉に苦しめられてきた。それはサビナの〈軽さ〉とは性質を異にする。

 トマーシュはテレザと結婚してからも、浮気を止めることができなかった。テレザはそれに苦悩し、悪夢ばかり見るようになる。とりわけて印象的なのが、プールサイドで裸の女たちと行進させられる夢だ。

「大きな室内プールだったの。我々二十人くらいいたわ。みんな女。みんな裸で、プールのまわりを行進させられていたの。(中略)あなたがみんなに命令してたの。あなたがどなっていたわ。我々は行進しながら歌うの、そして、兎跳びをするの。兎跳びがうまくできないと、あなたったら、ピストルで撃って、女が一人死んでプールに落ちたわ。そうするとみんな笑いだして、より大きな声で歌うの。そして、あなたったら我々から目をずっと離さないでいて、また誰かが何かをやりそこなうと、その人を撃つの。プールには死体が一杯になり水面のすぐ下まで盛り上がっていたわ。私には分っていたの、もう次の兎跳びをする力がないのが、そして、あなたが私を撃つのが!」


 この夢は一体何を示しているのだろう。裸で行進する女たちというのはトマーシュの浮気相手たちのイメージだと思われるが、彼女たちはなぜ行進し、兎跳びをしているのか。ここを読み解くには、テレザと母親との関係について語る必要がある。


 テレザの母親は若いころから自分の美しさを誇りに思っていた。彼女はたくさんの男に求婚された。しかし愛し合っているときに男がわざと「注意をしなかった」せいでテレザが生まれ、不本意な結婚をしてしまう。そして結局夫と別れ、「すでに何回かの詐欺を働き、二回離婚している男らしくない男」と結婚し、小さな田舎町に追いやられる。そこでお店の売り子として働き、さらに三人の子どもを産んだ。そのあと鏡を見たとき、自分が年老いて、醜いということを見出した。母親は何もかも失ったことを確認した。

 そこで母親はどうしたか?

 彼女は「自分が過大評価していた若さとか美しさというものが実際には何らの価値もない」と思うことにした。彼女は家のなかを裸で歩きまわり、大声で自分の性生活について語り、大きな音をたてておならをして笑った。

 そして母親はテレザにも、「羞恥心のない世界に彼女と共に残ることを断固として主張した。その世界とは若いということや美しいということが何の意味も持たず、全世界が一つの巨大な、身体の強制収容所以外の何物でもなく、その身体というのは一つ一つが似ていて、心が身体の中で見えなくなっているのである。」 

 だから、テレザが裸を見せるのを嫌がったり、風呂場に鍵をかけたりすると母親は激怒した。娘が何か自分固有の価値に固執することを許さなかった。母親は次のように言おうとしたのである。「お前の身体は他の身体と同じようなもので、恥ずかしがる権利などない。他の何億という同じような例があるのに、それをかくす理由など持ち合わせていない」と。

 テレザはその世界を嫌悪する。そして、母親に隠れて鏡の前で自分の裸を眺めるようになる。これは若かりし頃の母親のような自惚れからではない。自分の身体が他と同じようなものではなく、内面がそのまま投影されたような、自分固有のものであると確認したいという願望からであった。


 この母親の話によって、先ほどの夢の意味が明らかになってくるだろう。テレザは母親によって裸の女たちと行進させられていたのだ。女たちは自分たちの身体が同じで、同じように無価値であることに喜んでいた。「それは魂なき者たちのうれしい連帯であった。女たちは心の負担、このおかしな誇り、個体であるという幻想をかなぐり捨て、誰もが同じであることに幸福を感じていた。」
 これは前述のキッチュな行進と重なる。彼らもまた、一つの美的幻想の下に全員が同一化できることに感激の涙を流し、同じ動きをして同じ歌を歌っていた。

 それではなぜ、母親のもとから逃れたのに、彼女は夢の中で行進しているのだろう。それはまさにトマーシュが、彼女を隊列のなかに再び送り込んだからである。

 トマーシュは、愛と性は全くの別ものだという思想のもとに浮気を続けた。しかし愛と性が切り離されるとしたら、テレザとのセックスと他の女とのセックスが区別されないということになる。テレザは愛においてトマーシュのただ一人の女だったが、テレザの身体は他の多数の女のうちのひとつにすぎない。テレザは母親の世界から逃れてトマーシュのもとへたどり着いた。しかしトマーシュもまた、彼女の身体を裸の女たちの隊列に送り込むのだ。


 サビナの〈軽さ〉が、あらゆる価値を裏切り続け、隊列を離れて一人きりで歩いていくことだとすれば、

 テレザの〈軽さ〉は、隊列のなかで無理やり歩かされているときの、自分という存在の耐えがたい無意味さであった。


 キッチュな行進においては、その世界観に絶対的重みがあり、そこに連なる個人の存在は限りなく軽くなるのである。


4.個別的な〈重さ〉


 我々は軽いままでは耐えられず、何らかの〈重さ〉を手に入れようとする。ある者は愛する人のために生き、ある者は夢や使命のために生きる。そしてある者は行進に加わる。自分が偉大な流れの一部であることに〈重さ〉を見出そうとする。彼らが行進しながら何を叫んでいるかは関係がない。(3)宗教も世界平和も人類愛も、「糞など存在しない完璧な世界」を提示して我々を陶酔させる。

 それは現代も全く変わらない。資本主義だって我々に同一の欲望を抱かせて、消費の高揚感のもとに狂ったお祭り騒ぎを永遠に続けさせようとしているのだし、「一人前の社会人」であることや、結婚や家族とかいう出来合いの幸福観をありがたがることもそうだ。ほとんどの場合、我々は自分がその隊列に組み込まれていることにすら気が付かない。

 社会的価値だけではなく、愛という個別的な価値でさえ、我々はすぐ他者を動員させてしまう。クンデラは『ジャックとその主人』のなかで、「感受性は人間にとって欠くことのできないものだが、価値として、真理の基準として、行動の言い訳とみなされるとすぐに、恐るべきものになってしまう」(4)と指摘している。 例えばトマーシュの元妻や両親が、トマーシュの薄情さの非難として「自分たちの模範的な態度や正義感を見せつけた」ように、 愛はかくあるべしという規範を振りかざすようになってしまう。 

 そんなふうに、与えられた価値によって自分の人生の意義を見出して満足できるならそれでもよいかもしれない。でもその行進のなかでふと我に返ってしまうと、全員で同じタイミングで同じ動きをし同じことを叫ぶ身振りのなかで、自分という一個の存在の無意味さに気付いてしまうのだ。

 隊列に加わっても、そこから離れても、我々は〈軽さ〉に耐えられない。


 それではどうしたらよいのだろうか? 

 

 テレザとトマーシュは物語の最後に、その答えの一つに近づく。トマーシュがプラハで暮らしていけなくなったことで、二人はチェコの田舎に移る。彼は医師をやめてトラック運転手として働く。テレザはその穏やかな生活に幸福を見出すが、彼をそんな境遇に追いやってしまったことに罪悪感を抱いている。最後、彼らは田舎の安ホテルで踊りながらこんな会話をする。

「トマーシュ、あなたの人生で出会った不運はみんな私のせいなの。私のせいで、あなたはこんなところまで来てしまったの。こんな低いところに、これ以上行けない低いところに」(中略)
「テレザ」と、トマーシュはいった。「僕がここで幸福なことに気がつかないのかい?」
「あなたの使命は手術をすることよ」
「テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ」


 いまや彼らは外的な重みから解放されて軽くなり、ただ内発的な結びつきによって、お互いの個別的な重みを感じることができた。誰にも何も振りかざさない、ある規範のもとに人を動員しない個別的な愛。誰もが誰に対しても力を持たない地点。

 我々にできるのは、ただ誰かの個別的な重みを受けいれることなのだ。紋切り型に落とし込まないこと、キッチュな感傷に落とし込まないこと。それは個人間でも、共同体のなかでも可能なはずだ。

 そんなところに人が到達するのは不可能で、そんな理想郷こそキッチュな美的幻想なのだろう。それでもそこに近い地点に彼らは辿り着いた。だからこそこの小説の終わりは途方もなく美しいのだ。
 


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参考文献
(1) 西永良成『小説の思考 ミラン・クンデラの賭け』平凡社 2016/04/06 p114
(2) 『小説の思考』p115
(3) 『小説の思考』p115「このときの「存在」はキリスト教の神であろうと、民族・国家であろうと、左翼もしくは右翼の運動であろうと、男性あるいは女性一般であろうと、なんでもかまわない。だから、キッチュは宗教的、政治的、社会的、あるいはジェンダー的その他あらゆる種類の形態をとりうる。」
(4) ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』近藤真理訳 みすず書房1996/5/9 p6

『存在の耐えられない軽さ』のテクストは、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳、集英社文庫、1998/11/25)から引用した。

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