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#17 記憶 ②

ー 嘘だ!……みんな嘘だ!多じょう丸の話も……女の話も……
ー フフフ……本当のことが云えねえのが人間さ……人間ッて奴ァ、自分自身にさえ白状しねえ事が沢山あらァ。

黒澤明 監督『羅生門』(1950)

 意識的であれ無意識的であれ、人が過去を正しく記憶・認識することに失敗してしまうのは、本人が「今現在」不愉快な状況に置かれており、本人にそうした不愉快さを受け入れるだけの精神的余力がないためだと感じることが多い(もっとも、今に苦しんでいるから人はカウンセリングに来られるのだから、これは当たり前といえば当たり前なのだが)。
 人は、精神的ストレスや悩みを抱えつつも、そうした負担を軽減あるいは解消するためのなんらかの対処法を駆使しながら日常を送っていけるようであれば、過去を振り返ることはあまりしない。そうした状況にあっては、人のこころはむしろ「今」と自分の身の回りで起こっている現実、たとえば人間関係や社会生活といった横のつながりや広がりへの関心、つまり「水平方向」への志向がこころの優位を占める傾向にある。
 それに対して、幸福な状況が崩壊し精神的制御が難しくなってくると、今度は自分自身の生き方や人生について時間軸を上下にたどるような、いわば内的な「垂直方向」への志向が支配的になる。そしてとりわけなぜだか、たいてい過去へと偏りはじめる。今を、これからをどうすべきなのか以上に「過去」にこだわり呼び返そうとする。
 私たちは 身体的な痛みや傷を負った場合、「どうすれば(How?)」元通り回復するかを求めて治療へと向かおうとする(すべての人がそうではないだろうが)。ところが、心の痛みや傷については、たいてい「どうして(Why?)」にこだわってしまいがちだ。「痛みがあるのならその原因があるはずだ」と過去との因果論にこだわり記憶を探ろうとする。

* 

 過去や記憶は、私たちの人格や人間性と一体不可分のものである。想像するのは難しいだろうが、もし私たちにいっさいの過去の記憶が突然なくなってしまったとしたら、つまりただひたすら今と不確かな未来しか認識されないとしたなら、人が心理的に生存してゆくことはきわめて困難だろう。どのような過去であれ、人は自分のかけがえのない「真実」として過去を所有したがるものだ。それがたとえ必ずしもいとおしむような過去ばかりではなかったとしても、である。人は根無し草のような自分には心理的に耐えられない生き物なのだ。
 だから私たちは、自分は何者か?に疑問を感じ不安定な状態に陥いってしまうと、「私はなぜこうなってしまったのか?」にこだわる旅へと向かい出す。

 前回も述べたように、カウンセリングという場は、司法や警察、教育や社会の現場などとは違う空間なので、触法性や倫理・道徳的価値観に基づいて人を断じたり、罰したりするわけではない。事実や証拠、記憶の正確性が追求される場ともいえない。人の精神状態を観察し、内的生活に共感的・内省的に関わることによって得られた洞察等の助けを借りて、今現在を悩んでいる人を援助することがカウンセラーの重要な役割である。だから、心理的な苦痛を軽減し治癒へと向かうために、過去を探ることが必要になるケースも確かにある。
 けれども、そこでは『過去を振り返らずしては心の傷を癒すことはできない』といった偏った思考に陥らないよう注意する必要がある。とりわけカウンセリングにおいては、当事者本人だけでなく、いやむしろ援助側であるカウンセラーが、仮説や期待、見通しといったバイアスをカウンセリングに過剰に持ち込み、過度に過去に介入してしまう可能性もあるからだ。それは「事実」と「意味、解釈」との混同という危険をはらむ。

 前回言及した認知心理学者のロフタスは、カウンセリングによる精神的部分への介入や記憶を想起する手続きにおいて、「解釈」や「意味付け」を求めるあまりに、記憶が歪められたり存在しない記憶まで創作し得ることの危険性をずっと警告してきた。それは、アメリカにおいて現実に起こりもしなかった家族間での「虐待の記憶」が精神治療の過程で形成され、これによって親子や兄弟姉妹間で果てしない泥沼裁判が繰り広げられ、家族関係が破綻をきたし、場合によっては無実の家族親族に対し不当な有罪判決がなされる事案が多く生じてきた経緯があるからだ。彼女はこうした『偽りの記憶症候群』に対して、研究者としてまた司法現場の協力者として長い間向き合ってきた数少ない専門家のひとりだ。

ー あの雲が見えるかな、それ、向こうのらくだの恰好をしている?
ー なるほど、いかにもらくだのようで。
ー いや、いたちに似ているぞ。
ー さよう、背中のあたり、確かにいたちに似ておりますな。
ー 待てよ、鯨のようではないか?
ー おお、鯨そっくりで。

シェイクスピア『ハムレット』第三幕 第二場 福田恆存 訳 新潮社

 我が国における家族間の問題は、アメリカとは背景となる社会文化的文脈が大きく異なるため、質的にも量的にも違った状況にあることに注意は必要である。だが日本においても、当然過去や記憶を巡る家族間の問題はさまざま存在するし、個人的にも家族間の葛藤を発端にした精神的困難や社会生活への不適応に苦しむケースにしばしば直面してきた。
 子は、成人し後々になって「毒親」によって自分の人生が狂わされたと怒りと悲しみを訴える一方、親は自分は子の幸せだけを願い養育に努め精一杯生きてきただけなのに、と困惑し「家族崩壊」を嘆く。だが時としてその親もまた、「自分であることを犠牲に」する生き方を余儀なくされた遠い過去に突き当たることもある。
 同じ時代を生き、ひとつ屋根の下で生活をともにしながらも、誰かにとっては、幸せな「日曜日」の思い出に家族が集約される一方、他の誰かにとっては、苦痛に耐えるしかなかった「火曜日」に心が呪縛されたまま、というのが家族生活に起こり得る暗い一面である。たとえそれが、世の中にありがちで誰もが人生で経験するような「軽微」とされる出来事のように見えるとしても、それが来る日も来る日も繰り返され集積された末に受ける心の傷と、それを抱えながら生きるその後の人生のゆくえは誰にも予想がつかない。彼らにとって、穏やかな日常を取り戻すことはまったく容易ではないかもしれない。「家族はひとつ」の掛け声が、ときに遠く空しい響きに変わってしまうのがカウンセリングの現場でもある。

 人が語る「過去」について、事実と虚構を区別したり、人生その後との因果関係を特定しその影響力を明確にすることはきわめてむずかしい。そしてそれが仮に成ったとして、それが今度はどう精神的苦痛の癒しや当事者間での関係修復という「未来」につながっていくのかはまた別の問題なのだ。
 目に見える「実際」や「現実」が支配的な水平方向的な生き方と、人それぞれの経験がもたらす「真実」と「記憶」の物語が支配する垂直方向的な生き方の、どちらも人の一生には欠かすことはできない。どちらかに偏ったり過剰になっても人は人生に困難を抱える。「正しさ」探しにはまらないらない調和のとれた「あいだ」探しのむずかしさを日々痛感している。
 

 実のところ、私たち(当事者本人)は質問に答えてほしくないのである。そうではなく、経験を分かちあいたいのだ。おそらくカウンセリングは、人間の苦しみを真に見守る場所、そして記憶を-事実と空想が止まることなく変化しながら互いに作用するものとして-理解し、称えさえする場所になり得るのではないか。

エリザベス・ロフタス 他『抑圧された記憶の神話』仲真紀子 訳 誠信書房

 人は、自分自身や他人について知りたがり、また知っていると思い込みがちである。だから大事なことは - それは私たちにとってまったく容易なことではないのだけれど - 相手がどんなに親しく近しい存在であれ、「私たちは、実は互いに何も知ってはいないかもしれない」という視点にしばしば立ち返り、相手と向き合う大切さに気づいていくことなのだと思う。

by ぺこむくさん




 
 



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