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#6 印象

 ”世に印象批評という言葉がある。ごくわずかな出逢い、時には遠くから一目見ただけでその対象について断定的な評価を下すことで、一般には余りいい意味には使われない。人間が、簡単に理解するには余りにも複雑で微妙で不思議な存在であることは、誰にでも分かりきったことなのだから。しかし一方私たちの人生では、出逢うすべての人々と心ゆくまで知り合うひまはないことも分かっている。とすると結局は私たちの人間関係は、この無数の束の間の印象の集積になってしまうのだろうか。
 でも恐らくはそれだからこそ、「一期一会」の緊迫した美しさとその「もののあはれ」があるともいえるのだろう。”

(中村紘子『アルゼンチンまでもぐりたい』中央公論社 2010年)

 「印象」という言葉には、「(誰それ)についての第一印象は~」であるとか「~が印象的だった」「あまり印象に残っていない」といった、人や事象に対するどこか曖昧漠然とした、主観や経験に基づくいわばパッと見の感覚・直観といった意味合いがある。19世紀のフランスを中心に発展した西洋絵画芸術の運動である「印象派」の名称が、クロード・モネの傑作『印象・日の出』について、当時ある高名な批評家が文字通りその表題をもじり、まっとうな評価に値しないおぼろげな”印象程度”の作品だという皮肉と嘲笑を込めて評したことからつけられたことはよく知られたエピソードである。
 最近では、冒頭引用中にもあるような「印象批評」であったり「印象操作」といった、相手に対する否定的レッテル貼りや偏見差別を意図・助長する言論やコンテンツに対する批判的表現としてもメディア媒体にしばしば登場する。事程左様ことほどさようにというほどではないにせよ、印象という言葉には、どことなく「よくない印象」がつきまとう「印象」がある。いまどきの表現を使えば、そこにファクト(事実)やエビデンス(根拠)に基づいた真実性はない、ということになるだろうか。

 けれども、この印象(を持つこと)は、われわれ現生人類であるヒトが、厳しい環境のなか生存と繁殖の可能性を高める価値ある能力として、その進化の過程で獲得あるいは残存した心の機能のひとつなのかもしれない。分からないことだらけ、予測のつかない将来や身の回りの出来事、他者に対して、一定の予断なり予測、イメージをあらかじめ持って備えておくことで、より迅速かつ適切に周囲の環境や社会に適応することを可能にするのだ。それは、細部にわたる分析よりおおむねの全体像の把握を優先し、思考判断回路のオンオフを繰り返す代わりに、省エネスタンバイモードを常にキープしておくいわば節電効果のようなものといえばわかりやすいかもしれない。
 もちろんそうした印象が誤りであったり、またそれを柔軟に修正することに失敗することもあるもの。あいにくとヒトの巨大な脳の機能にも限界がある。常にすべての人や物事について本質や真実を見極め判断したうえで最良の行動を選択することには、相当な認知的負荷が要求されまた時間もかかってしまう。そこで、状況や環境が現在の自分にとって決定的に不利益とならない程度にやり過ごすことができれば、たいていはOKで済ませようとする。
 こうした「あたらずといえども遠からず」の印象と判断に基づく思考や行動パターンは、過去においては生存競争を勝ち抜き、そして今では情報にあふれ価値の多元化相対化が複雑急速に進行する社会を生きるための、まずまずの成功確率を持った、つまりコストパフォーマンスのいい方策なのだ。

 そう考えてみると、社会生活における「印象」とはそれほど悪者でもないことがわかってくる。会社には会社の、学校には学校の人間関係があり、プライベートや家族内ではまた違った人間関係の濃淡がある。私たちは、子どもから大人までみな置かれた環境や状況、時期それぞれに異なる印象や顔を持ち使い分けながら生きている。それは自然なことであり、私たちは印象をさまざま互いに持ち合い、与え合いながら生きてゆく。

 本当の自分をわかってもらえない、周囲の印象と自分の本当とのギャップがつらい、わたしは周囲が思うような人間ではない、と悩む人々がいる。私自身そう感じるときもある。けれども、本当の自分とは実は誰にもわからないものだ。もっと言えば、自分とは自分が知っている自分も、他者が自分に抱くさまざまな印象もすべてが自分である、と言った方がより正しい自己像であり、ずっと自然なのだと思う。
 人間は、複雑さや抽象性を本能的に嫌う生き物だ。身の回りの世界や他者をできるだけわかりやすくシンプルに説明可能な存在として了解していたいというクセを持っている。そして印象もまた、そのクセを保持する一翼を担っている。
 けれども、そのくせ私たちは自分自身はとても複雑な存在であることにうすうす勘づいてもいる。自分が、ときに説明のつかない独特のマイルールや秩序規範意識を持ち、矛盾し両価的で首尾一貫性に欠ける存在であることを。まわりの世界はさまざまな印象でガッチリ固めつつ、自分については「印象」ではなく、微妙で繊細なところを分かってほしいとひそかに願う私たち誰もが実は、自己愛がナイーブに揺れ動くちょっとやっかいな、多彩な生き物だといえるかもしれない。
 自然はすでにそれで完全な存在といえる。完全なチョウやアリ、象は存在する。が、完全な人間もその定義も存在しない。人とは定まらぬ存在なのだ。

 私は、仕事において話し相手の印象、特に第一印象は大切であると考えている。ひとつには、それが初対面の相手についてさまざまな手掛かりを与えてくれるサインのようなものだからだ。それが相手のすべてを物語るわけではなく、むしろほんの取っ掛かりにすぎないのだけれど、どれほど相手が第一印象を取りつくろったとしても、それもまた実像であることに留保しつつ話を続けていくと、やがて相手のより深い部分の理解につながってゆく。そしていつの日か、最初の第一印象の意味にようやくたどり着く。それは、冒頭で中村紘子氏の表現した「無数の束の間の印象の集積」とならない「一期一会」の大切さをひときわ痛感する瞬間だ。
 大切であると考える点の二つめは、なぜ自分はそうした第一印象を相手に対して抱くのか、自分の内を探る視点を持つことにある。印象は相手を理解するだけでなく、自身の内面を理解するために役立つ。相手に対する印象に下塗りされた自分の感情や思いはどこからやってくるのだろう?たとえば不快な感情を抱いたのだとすれば、なにが自分をいら立たせたのか、相手の中に自分のなにを見るのか、自分が拒否し諦めた密かな羨望や願望を刺激するのだろうか、重要な他の誰かを連想させるのか...そうした視点にも開かれていることがカウンセリングを成功へと導く。

 印象とは、相手から発せられるメッセージであると同時に、受け取る側の心の景色でもあるのだ。


 


 

 
 




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