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#5 迷宮

 (ジグソーパズルの)ピースの形はそれぞれ独自であり、そのまわりを取り囲む他のピースとの凸凹の組み合わせで、どの位置にはまり込むかが決まる。このようなしくみ―互いに他を規定するような関係性のあり方ーを「相補性」と呼ぶ。
 私たち生命体において、細胞にせよ、細胞を作るさらに小さな分子にせよ、その構成成分が絶え間ない更新を繰り返しながらも、生命体が全体としてのバランスを保ちうるのは、細胞間、分子間に相補性があるからだ。DNAもまた二重らせんの対に相補性があるゆえに損傷に対して回復性があり、また情報の複製も担保される。

(福岡伸一『芸術と科学のあいだ』木楽舎、2015年)

 カウンセリングの対話場面で、相手に不安や恐れ、怒りといった精神的葛藤や苦痛が強い場合には、意思疎通が難しくなるときがある。考えをまとめることになかなか集中できず、言葉としてうまく伝えることができなかったり、こちら側が発する言葉の隅々にまでとげや否定を感じ取ってしまい、結果話すこと自体に抵抗を感じ尻込みしてしまうことはよくある事だし無理もないことでもある。
 そんな時、その人とのあいだにクッションとなるような何らかのものや行為を介在させると、コミュニケーションが回復したり安定したりすることがある。今風に言えば、会議やセミナーを効率的かつスムーズに進めるファシリテーターのような役割といえるだろうか。

 ふんわり優しい肌触りの文字通りのクッションや愛らしいぬいぐるみを抱きしめると、情緒が次第に安定してくる人もいる。飼っているペットを一緒に連れてきて触れながら話したいと求めてくる人もいる。編物や刺繍といった手芸、園芸、絵描きや書写、散歩といったそれぞれが好む手や体を使っての作業に注意を向けながら対話関係が維持されることによって、感情でごちゃごちゃしている心が自然と整い冷静に内省が促進され、考えや言葉がぽつりぽつりとでも出てくることもある。作業療法的な効果といえるだろうか。

 Sさんにとってのそうした「介在物」は、ジグソーパズルだった。ある時買い物がてら通りかかった玩具売り場でふと目に留まったジグソーパズルをなんの気なしに購入し始めて以降夢中になった。大病をわずらったさなかにうつ病を併発し、以降さまざまな心身の病状や不調に苦しんできたSさんにとって、ジグソーパズルに没頭することは、不眠や食欲・気力の減退、断続的に押し寄せる重苦しい憂うつ感や無価値感、断ち切るのが困難な消えてしまいたいとの念慮を、たとえほんのいっときでも頭から追い出し、絶望と孤独の深みへの転落から自分をかろうじてつなぎ止めてくれる、心もとないがただ一本の頼みの綱のようなものだったかもしれない。

 家族の事情から通院しながらひとり暮らしを余儀なくされていたSさんの住まいは、若い独身女性の暮らしとしては贅沢といえる間取りのマンションだった。が、Sさんが文字通り買いあさったパズルの箱の山や作業のためのスペースなどで次第にどの部屋も埋まり始め(複数のパズルを同時にすることもあったため)、家は人が過ごす場所というより物の置き場のようになっていった。
 直接視線をほどんど合わすことなくパズルに没頭しながらも、時折ポツリポツリと絞り出す言葉に耳を傾ける日々が続くなか、パズルに集中しているときのSさんは、いつもの硬い神経質な表情がほんの少し柔らぎ、生気のようなものも感じられたものだった。

 ある時、Sさんの作業を横目で眺めながら部屋中うずたかく積まれたパズルの箱をぼんやりと眺めていると、まったく同じ図柄の商品がいくつもあることに気づいた。ひょっとすると一度購入したことをSさんが忘れてしまったのだろうかと思い、尋ねてみた。
 だがそうではないと言う。パズルの最中、自分はよくピースを一つあるいはいくつか失くしたり他のパズルになぜか紛れ込ませてしまうので、結局また同じものを買うからなのだと。でも、パズルのメーカーは紛失したりまれに最初から製品のピースが不足しているような場合を想定して、後からパーツを取り寄せることができるのではと話すと、Sさんはそれもわかっていると言う。

 しばらく沈黙のパズルが続いたあと、Sさんは何の感情も交えずこう続けた。「新しく取り寄せたら、元のピースには居場所がなく見つからないままって、そんな感じがするんでしょうね。」かといって、根気強くあちこち探す気も起きないので結局、未完成のままで終わらせてしまうのだと。そしてまた買う。
 「きっとこの家か部屋の中のどこかに紛れ込んでいるんでしょうね。今度探してみましょうか?」私が少し粘ってみると、またしばらくの沈黙の後、諦めと自嘲混じりの穏やかなSさんの横顔がこうつぶやいた。

私もそうだ。いつだって行方不明。どうして...

 パズル(puzzle)には、難問、難題、謎、あるいは(人を)途方に暮れさせる、悩ます、という意味がある。考えてみれば、私たちの人生もまたパズルのようなものといえる。どのような目標を掲げ、希望や将来を思い描き生きてゆくのか、一生をさまざまな図柄のパズルに挑み完成させてゆかなければならない。と同時に私たちは、家族や地域、学校や会社といった、個人を超え複数ないし多数で共有するさまざまな集団という、より大きくて複雑な図柄を完成させるための、どこかにはめ込まれるべき一片のピースでもあるといえる。
 けれども、ジグソーパズルを楽しむこととの大きな違いは、人の一生にかかわるパズルが、それらがどれほどの難易度を持ったパズルなのかが誰にとっても分かりづらいことだ。そして結局はやってみなければわからないのだけれど、それでいてやり直しや他のパズルに変えることがとても困難だ。失ったピースが補充される保証などないし、苦労した挙句に結局完成させられなければ、途方もない代償を払わねばならないこともある。そしてそれが決して珍しいことではないのが私たちの一生なのだ。

 その後Sさんは、通院は続けたもののゆっくりと元気と健康を回復していった。私の定期的な訪問が終了してからしばらくたったある時、Sさんを再び訪問する機会があった。
 久しぶりにお会いしたSさんは、確かに元気そうで表情も柔らかく出迎えてくれた。荒れ放題だった部屋はかなり整理され、清潔にもなっていた。最近は来客もちらほらあるのだと言って、お茶やお菓子まで用意してくれた。
 驚いたことに、あんなにたくさん山と積まれていたジグソーパズルはどこにも見当たらなかった。しばらく前からパズルをやる気がパタッと失せてしまい、今は処分したり押し入れの奥に片づけてしまったという。それはよいことかもしれないですね、と言うと「そうでしょうか」とかすかに笑みを見せた。

 穏やかな訪問だったが、ただ私にはひとつだけ気になることがあった。それは以前のカウンセリングの場では、Sさんは自分の家族について一度も語ることがなかった、というか頑なに拒否していたことだ。病状や精神状態、生活状況のことについては話すし、幼い頃の思い出を懐かしく話すことも多少はあった。
 が、私が家族について尋ねようとさりげなく話題を向けるが早いか、「そのことは話したくありません!」と突然早口の小声で表情を硬化させ私をさえぎるのが常だった。何かに急いで蓋をするような、そんな張り詰めた緊張がその瞬間だけあった。
 病気になる前のSさんと家族のあいだの詳しい過去は知ることはできない。けれども、彼女の心の奥深くには、家族という完成図柄のパズルが、 ただしSさんのピースだけがいまもってずっと「行方不明」なまま、 しまわれている、そんな気がした。

 冒頭で引用した相補性が、人の自然無意識的生体内メカニズムとして効果的に機能するものだとして、では日々生々しい現実社会の機微を生きる私たち人と人とのあいだでも同じように相補性が果たして期待できるだろうか?可能だろうか? その確たる答えも見通しも今のところ私には見えてこない。

”人は他者との関係性の中で深く傷つく。その傷を癒すのは、薬でもなければ金でもなく、ただ人との関係性によってであると私は信じている。”

(青島多津子.他害行為の治療は可能か? 精神医学63巻5号、医学書院 2021年5月)


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