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事業会社を始めて、そして閉めた話(その1)

※冒頭ちょっと舌足らずで、当たり前じゃないの?(笑)と言う入りだったので、ちょっと直しました。

 その昔、黒字経営にも関わらず、株主、取締役達から事業閉塞を求められ、それにかかるコスト、期間に関しても”残資金がここまでの時点で、ユーザがいくらいようが事業やめてもらう”と宣告されつつ、なんとか穏便に事業、会社を閉めると言う痺れる経験をした事があります。

あくまで、出向社員の立場だった事、そして閉めた後出向元のリストラも切り抜け、こうしてテレワークさせて貰っている身で、今のコロナの窮状からすると随分生温い話です。

ただ、こういう時の基本動作みたいなものは経ていて、書き残して置きたくなった。最早何年も前の事で、もう時効でしょうし。

何回続くか解りませんが、思い出しながらつらつら書いて行きたいと思います。

◆◆◆

 その会社は、今で言えばスタートアップになりますか。ただ、投資家を募るわけではなく、同事業を行なっている企業群の合弁という形。

当時、自分が黎明期に非常に深く関わり、延長上でやりたいと思っていた事業がありました。ただその事業は、私が深く関わった時代を経て、その頃は世のバズワード化してきてしまって、自社のグループ内でも物凄い投資額を獲得して、特権的に動く直轄グループ等が出来てしまった。

そのメンバー以外、一切関われなくなったんですね。

中の人を見ていると、正直な所、どうもこれはうまくいかないだろうと眺めていました。その後案の定ウン桁億の累損か知りませんが文字通りの大失敗をして、社内の経験値にもほぼならなかったと思う。

当時のトップの人は世に少し知れた後日談があるんですが、主題じゃ無いのでやめます(笑

 で、事業部内でできるレベルで、パートナーさんに少し話をし始めていた。その時に、「規格のプロモートで他社さんと集まっているんだけど、その辺をやりたいんだよKたろう君」と声をかけてきた方がいました。

前の仕事で、彼のミッションの為に大手の客先に繋いであげた関係。プロモート系コストセンターばかりをやって金遣いが荒いと聞いていたのですが、座組みが先に出来ている様な面もあり、乗りまして、結果その人が初代の社長になりました。

当時、合弁条件やサービス設計、権利者交渉をリードしました。とヌケヌケと言ってしまいますが、偉そうな表現ですけども、実際そのエンティティは寄り集まっているという表現が正しく、事業面で何を考えていたわけでもなかった。

自分は乗っかるために参加したのではなくて、実現するために参加した訳ですからやるしかなかった。15時間以上の労働がずっと続いて10キロくらい痩せた。

大きな会社って、当座食うためのプロジェクト探して腰掛の人って多い訳です。その連中からは、実際会社なんかできても行かねえよ。丁度良いところで早く潰れろと思ってる人もいた。当時直接言われました。

なので、設立までの間、3度くらい自分の力で凌いだクリティカルポイントがあります。だから10キロの巧まざるダイエットも出来た(笑)

1人だけ、丁度仕事が端境期の、会社に必要だと思われる先輩にお願いして来ていただいてスピンアウトするつもりで出向し、なんとか華々しくリリースこぎつけ、オフィスを青山界隈に構えました。

まあ、こう書いてくると、最初から泥舟感ありますけどね。

取り敢えずここまでは良かった。続きます。

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