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事業会社を始めて、そして閉めた話(その17)そして自身の問題へ。

 仕事への評価を、社内の人々に若干妬ましく見られて、それは、会社が欲している戦略に即したKPIだから、と思った際に、過去の事業会社の頃の自分を思い出したという所まででした。

ここから2回くらいはちょっと自分語りです。自己紹介せずにnote書き始めてしまったので、丁度良いかもしれません。

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会社は経営戦略に基づいて事業戦略を立ててそれの遂行で株主にリターンをするもの。当時この事は言葉だけで理解できず、違うポリシーできっと動いていた。

それは「我」だったかな。。。と苦く思い出す訳です。「我」には文字通りの意味と、それでやってきた為に醸成された自分の基準、クライテリアみたいな物、2つの意味があります。

●文字通りの「我」について

自分は新しい物事、難しい物事を成立させる、そういった仕事を多くやってきました。事業であったり、商品であったり。

適性があったか、それが続いて結果的にそうなってしまったのかは判りませんが、未知の領域のお題に手をつけ、回る所まで持って行く仕事を得意としている。若い頃に自分の商品が切っ掛けとなった大きな仕事が、その分かれ目になりました。

大きな会社は、人事的に大抵畑があって、ローテーションでその”枝”の関連業務につく。後にマネジメントになって、事業を任されたり立ち上げをやったりというケースもあるし、所謂課長や平社員で専門や、まあ、あまり気張らず粛々と、等がありますね。

上に書いた大ネタの前後、メインで取り組んでいた事業の投資が押さえられる方向になり課長が変わった。その際、突然赴任の話が出て従うか従わないか悩んだ挙句、断ってしまったという事がありました。社命聞かずにやりたい仕事を採った。まず、単純にこれは「我」であった訳ですね。

今は事情があれば、断ってもそうそう露骨な事にはならないですが、前時代につき漏れなく強烈なパワハラが待っていました。席も部長と課長の正面に変えさせられ、通信は全部取られ、挙句は郊外のリペアパーツの管理部署に飛ばすと言う。

前回までの話を読んでいただいた方には驚きの話となりますが、その課長は、出向元から戻る際、リストラキャンペーン中に戻ってきて、「もう増員しちゃったんだよね」とお辞儀部長が語ったパワハラ課長となんと同一の人物なんです。当時、私を赴任で出して、その大ネタは自分でやると上司と話していたのだろうと想像します。

いろいろな十字架背負わされつつ、この仕事はやり抜いて、大変大きな話となり、関連して世をにぎわせる事件も起こった。グループにとってはモルモットケースとして深く研究され、その後の事業へ反映されていきます。

この件、いくつかの大きく名の知れた会社と起こった合弁やプロジェクトが生まれ、私は事のきっかけとなったソリューション事業とライセンスのみに留め置かれました。

この後課長はパートナーや人脈を受け継いで、BtoBの事業体にうつった。部門長まで上がった所でお取り潰しで、今の会社のマネジメントに懇願して、席を貰ったという事だそうです。そこにまんまと今回私は入ってしまった訳です。

その際は、これまで書いて来たように選択肢はなかった。彼は結果的には、私のチェリーピックで会社人生の大きな部分食ってきた様な事になるのか(笑

事業会社を閉めた後の仕事、創業者に近い筋の遺言になってしまった積年の仕事の集大成を、出向元の名刺で、沢山のプロジェクト関係者を得て、スピードも範囲もただ事では無く”成立”させた訳ですが、あろうことか、何たる偶然か、そして嗅覚か(笑)20年も前に自分の分かれ道であった、パワハラ課長がまた持ち去ったという事に。

遺言を満たした自分の中の納得感、いつも通り世の中への貢献を実感することで、それで終わりにしました。凄い話ですよね。なんという因縁。ドラマになりますよ。

企業に一度「我」を持ち込んだやつは、何十年経っても2度と評価の対象にならないぞと会社側が敢えて潰しに来たような気さえしました。

たまたまですが(笑

で、めげずに業界のフォーメーション作って回り始めたと思ったらいきなり外されて、この時についにメンタルもやられた。薬は飲みませんでしたが、頭の半分がコンクリ詰めになって、目の前の仕事の処理しかできない、そんな時期がありました。

 事業会社を起こして閉める話は、この間にあった事です。

経緯は書きましたけども、異常な頑張りで設立に血道を上げた。私いなかったら恐らく出来なかったんです。事業準備室は新規事業吹き溜まりの連中の腰掛け場所、しばらく食うためにいるので、会社なんて本当に設立するなよ出向なんかいやだと後ろ指さされる中で、数名で頑張った。

なぜならこれが、赴任を断ってからこの方、いくら頑張っても会社に認められる事はなかった自分、グルカ兵からの脱出路だったからです。実際、当時は類似の社内のプロジェクトの陰陽の潰し合いを尻目に、これが正攻法にも見えた。

なので、もう分かりますよね。

自分が普通に居てもよい場所を必死で作って、それを守ろうとした。株主意図が最優先では無かったのです。主張の薄い各社、2足の草鞋の出向社長に難しいところを頼られてもいたから、会社という物に対して大きな勘違いをした。まるで自分の会社の様に。

出向元はもちろん、出向先でも私は「我」が抜けきれなかった、という事です。

もう一つは、「我」というか、こんなキャリアの人間だから染み付いた、「考え方」に近いものになります。

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