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 やはり大学生になっても真夜中の小学校というのは不気味なものだ。
 雨が窓ガラスをこつこつ叩く音や、びゅうっと風の音なんかがするたびに、僕は真っ暗な個室トイレの中で一人きゅっと縮こまった。
 僕は昨夜食べた生牡蠣のことを考えた。昨日の夜は本当にたくさんの生牡蠣を食べた。たぶんバケツ一杯分くらいの生牡蠣を食べた。人間、生きていると無性に生牡蠣が食べたくなる夜があり、そしてまた小学校のトイレでひとりお腹を下す夜もあるのだ。
 雨や風の音のほかは何の音もしなかった。まるでこの世界に僕一人だけが取り残されたみたいだった。
 その時ふいに、こん・こん・こん、とトイレのドアがノックされた。僕は持っていたスマート・フォン(それは今の僕にとって唯一の光源だった)を、危うく便器の中に落とすところだった。すんでのところでスマート・フォンをキャッチして、僕は息を殺し、画面の光をそっとドアの下の隙間へ向けた。そこに、よく磨き上げられた黒い革靴の爪先が二つ見えた。
 こん・こん・こん、と再びノックの音がした。「おっほ……」と思わず声が洩れ出てしまった。
 しばらくの沈黙のあと、ドアの向こうから声がした。
「赤い金たまと、青い金たま。どっちがいい?」
 くっきりとよく通る男の声だった。若々しいのだけれど、それでいて英国紳士のようなエスプリを感じさせる、不思議な声色だった。
 いやまてよ。
 赤い金たまと、青い金たま? 
 声色がどうとかという話では無かった。こいつはいま一体、僕に何を尋ねたんだ。赤い金たまと、青い金たま?
「あの……もう一度、お願いできますか?」
 僕はドアの向こうにそう尋ねた。しばらくのあいだ、何の反応も無かった。僕は再びドアの下の隙間を見た。黒い爪先は微動だにせず、そこにあった。
「赤い金たまと、青い金たま。どっちがいい?」
 うわっ、やっぱりこいつ、金たまの話をしているじゃあないか。
 そういえば子どもの頃、これに似た話を聞いたことがある。それは確かこういう話──子供がトイレで用を足していると、紙が無い。するとどこからともなく、「赤い紙と、青い紙。どっちがいい?」と声がする。「赤」と答えると、全身から真っ赤な血が噴き出し、「青」と答えると、全身の血を抜かれて真っ青に。質問に答えた子どもは、いずれにせよ死んでしまう──だった。
 翻って、今のこれはどうだろうか? 「赤」と答えるとどうなるのだ。血が噴き出るのだろうか。金たまから? 「青」は逆に、金たまの血を抜かれるのだろうか。金たまの血? 金たまには、どの程度血液が溜まっているものだろうか。いや金たま自体に血が溜まっている訳じゃあ無いだろう。僕は理系じゃないけど、それくらいは分かっている。では金たまの中には何が詰まってるんだろうか? 夢? 
 そんなことをあれこれ考えているうちに、僕は僕自身の金たまについて、まったくもって何も知らないんだな、という奇妙な感慨がしみじみと湧いてきた。そして同時に、恐ろしく強烈な便意(「おおおッ、おッ、おッ、おッ」とオットセイみたいな声が出た。本当に出たのだ)がやって来て、僕の肛門を強くノックした。もう金たまどころでは無くなってしまった。
 ようやく出るものがすべて出ると、みたびドアがノックされて、先の質問がやや巻きで繰り返された。心なしか紳士の声はちょっとささくれ立っているように聞こえた。そしてそれは正しい権威の象徴であって、僕に対して、「赤」か「青」の選択を迫るに足る十全な権利と権限を持っている、とでも言いたげな声色だった。
 ええいままよと、僕がいきおい答えようとした矢先、僕の隣の個室のドアが「バンッ!」と勢いよく開かれて、
「金たまっていうたらおどれ、金たまは金色やろがい!」
 と、おっさんのダミ声が響いた。
 まさか真夜中の小学校の個室トイレに、僕以外の誰かがいるなんて思いもしなかった。ドアの向こうの紳士も、かなり狼狽えた様子で「あっ、ぜんっ、ぜんら?」と言った。
 目の前のドアの向こうで、おっさんと紳士とが激しくぶつかり合う「モチッ……」という音がした。ドアの下の隙間から、紳士の革靴と、おっさんの裸足(裸足? しかし裸足なのだ)が激しくステップを踏みながら、右へ左へと小刻みに動くのが見えた。二人の体にセンサーが反応して、小便器から水が「シューッ」と流れる音がした。ステップのたび、タイルを踏みしめる「キュ・キュッ」という音が聞こえた。
 ここはおっさんに加勢して、得体の知れない紳士のほうを先に倒すべきかもしれないな。しかし今しがた、おっさんがドアを開けて紳士に詰め寄った際の紳士の一言が妙に気になった。彼は確か、「ぜんらっ?」と言っていたような気がするのだ。
 ぜんらっ……全裸?
 ドアの隙間から見えるおっさんは裸足だ。
 ここからは僕の推測になるのだが、ドアの向こう側にいるおっさんはもしかすると、いっさい服を着ていないのではないだろうか?
 真夜夜の小学校の個室トイレで用を足している全裸のおっさんと、金たまをどうにしかしてしまう(かもしれない)紳士。果たしてどちらが僕にとっての脅威だろうか? どちらも脅威ではあるまいか。もはや二人とも魑魅魍魎のたぐいだ。ここは上手いこと、互いに同士討ちしてくれるのを座して待つのがベストな選択肢ではないだろうか。

 雨風が更に強くなってきた。スマート・フォンのバッテリーの残りは7%。ドアの向こうの都合四本の足は、僕の個室のちょうど目の前でぴくりとも動かなくなった。ぜぇぜぇ、はぁはぁと二人の男が肩で荒い呼吸をする気配だけが伝わってきた(時折「クソッ」「ダボッ」と言った短い罵声が、絶え絶えな息の合間から洩れ聞こえた)。両者の足の位置から推定される重心を鑑みるに、恐らく二人はがっぷり四つ(それも右四つ)の体勢で固まっている可能性が高いと思われた。もしも僕が行司なら、「はっけよい、はっけよい」と二人に発破をかけなければならないだろうな。
 事態は完全に膠着していた。僕はその間、出すものを全て出し終え、ウォシュレットで肛門を丹念に洗い、そして入念に、溝の一本一本まで乾燥を済ませた。マティニのように、うんと、うんと、うんとdryに。最近の小学校は進んでいるなあとしみじみ感動してしまった。
 と、トイレの出口、つまり廊下側から、今度は若い男の声がした。
「な、なんっ、何してんだあんたら!? ここ女子トイレだぞっ!?」
 若い男は足早に近づいてきて、二人のあいだに割って入ったようだった。そのまま、三人纏めてくんずほぐれずの揉み合いに発展した気配が扉越しに伝わってきた。肉と肉がぶつかる湿った音、肉と骨とがぶつかる鈍い音、骨と骨とがぶつかる硬い音。その合間に、紳士とおっさんと若い男がそれぞれ呻き、互いを口汚く罵る声がした。懐中電灯の明かりがサーチライトのように、天井や床や壁に向かって激しく振られていた(おそらく若い男の所持品だろう)。彼はこの学校の警備員に違いない。
 いずれにせよ、機は熟した。
 僕は満を持してズボンを上げベルトをした。次に便器の水を流し、ドアのロックに手をかけた。ドアの向こうの取っ組み合いは更に激しさを増した。後から来た分、若い男が優勢に立っているようだったが、それを察したおっさんと紳士が互いに協力しあい、揉み合いはもはや泥仕合の様相を呈していた(「おい、そっち持たんかい!」「やめろっ、あっ、たまが、たまっ、おっ!」「むごいっ」「赤っ、赤い金たまっ、好きかっ?!」といった声がした)。
 僕はロックを素早く外し、勢いよくドアを開けた。

 するとそこには、誰もいなかった。

 *

「あれだけ、男たちが取っ組み合い、掴み合い、揉み合っている声、肉と肉とがぶつかり、ぺちぺちとこすれ合う音がしたというのに、そこには誰もいなかった……いなかったんだよ。流石に背筋が凍えたね。
 それから僕は急いで校舎を飛び出した。手を洗う余裕さえなかった。傘を持ってくるのを忘れたから、アパートに着く頃にはすっかりずぶ濡れになった。本当に怖かったよ。もしも赤か青、どちらかを選択していたら、僕はどうなっていたのか。推定全裸のおっさんと、金たまの紳士と、若い警備員は、いったい何者だったのか。そして彼らは、どこへ消えたのか。
 もしかすると、彼ら三人とも、あの学校に住み着く幽霊か、妖怪のたぐいなのかもしれないな。
 以上が、僕が2年前の夏に遭遇した出来事──」
 そう語る男の目の前で蝋燭の火が揺れていた。部屋じゅうに立てられた他の九十九本は全て消えていた。つまり、彼の蝋燭が最後の一本ということだ。
 その場にいた怪談サークルの誰もが、一言も口をきかなかった。僕はチラリと皆の顔を見た。皆が皆、何というか、釈然としない、憮然とした面持ちをしていた。部長の田中さんは腕を組み、あからさまに首を傾げていた。去年大学を卒業したばかりの後藤さんは、その美しい眉間にとても深々とした溝をつくっていた。他の連中も似たり寄ったりの顔をしていた。
 この部屋の中でただ一人、男だけが神妙で、そして奇妙な達成感に包まれた顔つきをしていた。
「ひとつ、聞きたいんだけどさ」
 学部8年生の岸部さんが口火を切った。
 彼はこくりと頷いた。
「ええと君はあれかな、つまりその、その日の夜、真夜中にだ、小学校のトイレ、それも女子トイレに居た、ということかな?」
 彼はこくりと頷いた。
「うーん……その、もし俺が聞き逃していたら大変申し訳ないんだけどさ……」
 岸部さんはとても言いにくそうにしてから、
「君はいったい、夜の小学校で、何をしてたのかな?」
 彼の顔からスッと表情という表情が消え、能面のような顔つきになった。そして本当に静かに、微かに、唇の両端を吊り上げて見せてから、目の前の蝋燭の火を吹き消した。


見出し画像:UnsplashDavid Tomasetiが撮影した写真

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