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まだ見ぬケンジ【2/2】後編

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まだ見ぬケンジ【2/1】前編

午後になって、作成した提案書を前に私は考え込んでいた。内容には、特に問題がない。誰が作っても、こうなるだろう。提案する我が社の製品を導入した方がコストが下がり、機能もアップする。普通であれば、何の問題もなく売れるケースだ。

 普通であればというのは、夕方訪問する顧客が普通じゃないのだ。初老の担当者は仕事が嫌いみたいで、使用中の他社製品から我が社のそれへ切り替えることを面倒くさがっていた。コストが下がろうが、社員の生産性が向上しようが、関係ないといった感じなのである。営業をやっていて、こういう相手が一番困る。理屈が通用しないのだから。

 まとまれば、かなり大きな商談になるし、はたから見ても、この顧客には、この製品がぴったりだ。なかなか売れないので、ついに部長に目をつけられ、自分が行くと言い出した。顧客には部長が先方の上司へ挨拶ということで、アポイントを取っている。

 気が重かった。何度も担当者に提案している件で、また訪問するのだ。担当者も予期して、待ちかまえているだろう。

「何か、お困りですか?」

 いつの間にか、隣にケンジが座っていた。

「うわっ」

 驚いた。先ほどの姿から、二十年は歳をとっているだろう。四十半ばか。品のいいグレーのスーツを着こなしている。

「今度は、ぼくが何かアドバイスできるかな?」

 品のいい笑顔で、たぶん、管理職なのだろう。頼りになりそうな雰囲気があった。

「ついさっき、教えてあげてたのに……今、いくつ?」

 ケンジの答えは、私の思った通りだった。ちょうど村山と同い年。同じ一日だが、私にとって二時間、ケンジには二十年の時間が経過していた。

 私は手短に仕事の状況を説明した。もし他人にこの様子が見えたら、普通に上司と部下の会話だと思うだろう。本当は母親と息子だけど。

「要は、その担当者が全くやる気がないわけだね」

「そうなのよ。うちの製品を採用しないのは、会社に対する背信行為みたいなものなのに」

「なるほど……。先方の上司は、この話をまだ知らないと」

「そう」

 中年のケンジは、ちょっと考え込んだ。

「その提案書は、まずいんじゃないかな」

「えっ?」

「訪問の目的は、ご挨拶ということになっているんでしょ?」

「そうだけど」

「じゃあ、ちゃんとした提案書をいきなり先方の上司に見せたら、頭越しの提案になっちゃわない?」

 痛いところをつかれた。その通りなのだ。コストが大幅に下がるので、顧客の上司は喜ぶだろうが、担当者はへそを曲げるのは間違いない。今日の訪問では盛り上がっても、その後うまくいくとは思えないのである。だが、うちの部長は大張り切りだ。世間話だけして、この件に触れないわけにもいかない。

「これだったら、コストが安くなるって、紙一枚で表現できるよね?」

「はい。その通りです」

 つい、息子に敬語を使ってしまった。だって、貫禄があるんだもん。

「じゃあ、偶然持っていたメモ書きみたいにして、数字のメリットだけを一枚にまとめとこうよ」

「はあ」

「あと、製品説明は、この会社に向けた提案書じゃなくって、一般的な説明資料があるよね?」

「あります」

「それは、担当者にも見せている?」

「はい」

「よし、バッチリだ」

 ケンジは笑顔を見せた。いい歳の取り方だ。部下に女子社員がいたら、相当人気があるだろう。

「ママ、こうしようよ。部長が、この製品の話を始めたら、まず、その一枚物のメモを取り出す。それだけでも、あちらの上司にはインパクトがあるよね?」

 ケンジの意図するところが、だんだん読めてきた。

「十分あります」

「その人が話にのってきたら、製品の説明は担当者にも見せたことのある、普通の説明資料でやる。以前、簡単にご説明しておりますが、と言ってね」

 なるほど。それなら流れが自然だ。担当者が駄目なので、上司に直訴!という形にならず、彼の顔もつぶれない。

「それでも、担当者がつむじを曲げる可能性はゼロじゃないけど……」

 ケンジは私の顔を見た。

「ここまでやって駄目なら、仕方ないと思うよ」

 同感だった。失うものは何もない。ケンジの策でやってみることにした。

「ありがとう。助かった!」

 午前中に後輩で、午後は先輩になった我が息子を頼もしく思った。

「では、ママのご健闘を祈ります。また!」

 ケンジは笑顔を残し、目の前で消えた。

 私はさっそく資料変更に取りかかった。


 顧客訪問はケンジのアドバイスに従って、大成功だった。うちの部長が製品の話を始めると、顧客の上司はすぐに興味を示した。そこで私が取り出したメモを見ると、彼の目が輝く。誰が見ても、コストを削減できることは明らかだ。

 その時点では、まだ顧客担当者は複雑な顔をしていた。自分が却下した話で場が盛り上がっているのだから、当然だろう。

 製品説明にはケンジの言う通り、顧客名など、どこにも入っていない普通の説明資料を出した。顧客の上司は担当者に、この話を聞いているのか?と尋ねる。彼はうなずかざるを得ない。こちらは担当者に駄目だと言われたなどと、余計なことを口にしないから、彼の立場もなくならない。いつの間にか、その担当者も場の空気を読み、実は自分もこれがいいと思っていたと発言しだした。そうですよねと、部長と私で、それをあおる。

 トントン拍子に話は進んだ。次回、正式な見積りを提出することになった。顧客の上司も同席すると言っているので、もう話はうやむやにできない。いや、それどころか、担当者は上司以上に前向きな態度さえ取り始めていた。

 これはプロの技だ、と私は思った。ちょっと気のきく若手の営業ではまねできない、ベテランのやり方だ。だてに我が息子ケンジは歳を取ってないなと思うと、嬉しいような、おかしいような気がした。だって、まだ生んでいないんだし。


 家に帰ると、下の郵便受けに実家から郵便が届いていた。いつもの大きな封筒だ。私はため息をつくと、それを持ってマンション二階の自室へ持ち帰った。

 部屋に入り、着替えてソファに座る。母が送ってきた茶封筒をしげしげと眺めた。これで何通目だろう?封を切って、中身を取り出す。七三分けで、くそ真面目な顔をした中年男性の写真と経歴書が出てきた。見合い写真。お世辞にもハンサムとは言いがたい。経歴書を読んで、私は若干ショックを受けた。

 四十代半ばは仕方ないとしても、バツイチで子供が二人いる。勤め先も……。今までもらった見合い写真で、一番条件が悪かった。

 若くこそないが、会社ではそれなりにモテている自信があっただけに、ちょっとプライドを傷つけられた気がした。

 同封してあった母の手紙には、とにかく性格のいい人だからと、そればかりが強調されている。他に褒めるところはなかったのか?最後の方には、ぼやぼやしていると、もっと条件が悪くなるぞと恐喝めいたことまで書いてあった。

 たぶん、この男性より私の方が、はるかに収入は高いだろう。それでも、母は私に都会での仕事を捨て、田舎で専業主婦をやることを望んでいる。女性の幸せはそれしかないと、固く信じているのだ。

 母自身が高校卒業後、都会での大学進学を望んだにもかかわらず、父母の猛反対で断念した経験がある。地元の役所に就職し、何年か後に見合いで父と結婚した。愛情は結婚してから徐々に育つものだ、というのが母の口癖だった。しかし、それはどこか、自分自身に言い聞かせているようなところもあった。

 人は自分が親からされたことを自分の子供にするものだ、と誰かから聞いたことがある。母の場合はまさにそうだった。私が大都会にある四年生大学へ行きたいと言った時、彼女は猛反対した。そんなところへ行ったら嫁に行けないというのだ。自分ができなかったことを娘が実行するのだから、喜んでくれてもよさそうだったのに。でも、母はそうしなかった。

 家出同然と言ったら大げさだが、それに近い勢いで私は進学を強行した。奨学金とアルバイトだけで生きていくのも辞さず、と覚悟していたが、さすがに最後は母も折れた。

 私と母の戦いのさなか、父はひそかに私を応援してくれていた。おまえのやりたいようにやりなさいと。ただ、正面切っては母に反論しようとしなかった。

 そして社会人になって帰郷した際、何度かだまし討ちのような形で見合い相手と会わされた。家族で外食に行ったら、その店に相手がスタンバイしているとか、自宅に突然訪ねてくるとか。

 会うたびに母へ無理だと思った。この人と一緒に暮らして子供を生み、共に老いていくことは、あり得ないと。顔が悪いとか、話が面白くないとか、偉そうに駄目だしをするつもりはない。それなりに母が選んでくれただけあって、見合い相手はいつも感じのいい男性たちであった。

 でも、駄目じゃないけど、違うのだ。それは会ってすぐというより、写真を見た瞬間にわかった。私と同じ人生を歩む人じゃないな、と。

 母の時代は、見合い結婚が普通だったかもしれない。だが、現代においては、昔ながらのその手段で結婚しようとしている時点で、かなりの違和感がある。配偶者を捜すのに人任せでよいのか?

 見合い相手として登場してくる男性たちの共通項として、皆、覇気がなかった。自分でもがいてでも一段上に行こうとか、一歩前に進もうという感じがないのだ。皆、人が良くて、ボーッとしていた。現状に満足しきっている。

 都会の刺激に慣れきっている私には、それが耐えられなかった。

 携帯が鳴った。母からだった。

「届いたでしょ?」

 すごいタイミングだ。

「見たよ」

「どう?」

「無理」

 電話の向こうで、母のボルテージが上がるのを感じた。

「あんたがぼやぼやしてるから、そんなのしか来んようになったんでしょう」

 可哀想な私の見合い相手。母からも「そんなの」扱いだ。

「いいから、放っておいてよ。自分で見つけるから」

「自分で見つけきらんから、お母さんが探しているんでしょうが」

「できるって。自分の娘を信じてよ」

「信じきらん。子供を産めんようになったら、どうするん?」

 よっぽどケンジの話をしてやろうかと思った。だけど、そんなことをしたら、ついに頭がおかしくなったと思われるのがオチだ。私は適当に母をあしらって、電話を切った。

 写真をじっと見て、ため息をつく。何歳でもいいので、ケンジと話したい気分だった。

 だけど、その晩は現れなかった。 


 週末に図書館へ行った。本については、基本的には書店で新刊を買う方が好きだが、図書館でしか読めないものもあるのだ。私が住んでいる郊外の町は文化施設が充実していて、図書館も大きかった。

 図書館があるあたりは大きな公園になっていて、休みの日は家族づれやカップルが数多くいる。その日は快晴だったので、人も多かった。

 その中に村山がいた。遠目だったが、すぐにわかった。女性と一緒だった。まだ若い。たぶん二十代だろう。どこかで彼女と会ったことがある気がするが、どうしても思い出せなかった。

 最近では四十代の男性と二十代の女性のカップルは珍しくない。わりを食うのが、私たち三十代の女性だ。えっ、村山もそうなのかと思ったが、不思議とジェラシーは感じなかった。二人は親しげだったが、恋人同士のようには見えなかったのだ。

 二人はすぐに私の視界から消えた。

 図書館へ入ると、まっすぐいつもの歴史書コーナーへ行った。村山のことが気になっていたが、とりあえず本を読むしかなかった。

 本格的な歴史書は普通の書店ではなかなか手に入らないし、値段も高い。図書館で読むのが一番効率的だった。棚の間を歩いてまわる。これぞ至福のひとときだ。

 一冊を抜き出して、テーブルで読み出した。すぐにその世界へ入り込む。

 気がつくと、横に気配を感じた。五歳ぐらいのケンジだった。

「ママ、絵本読んで」

 小さな声でささやいた。ここでは大声を出してはいけないと知っているらしい。賢い子だ。

「ちょっと待ってね」

 私は読んでいた本の貸し出し手続きを行ってから、ケンジを児童コーナーへ連れて行った。そこは靴を脱いで上がるところで、大きなクッションの上で子供に本を読んでやれるのだ。幸いなことに、その日はあまり人がいなかった。

 目を輝かせて、次々に本を見てまわるケンジ。私は自分の子供が本好きであることを誇らしく思った。読書の習慣は幼少期につけないと、大人になってからでは難しいようだ。私は陣内の顔を思い浮かべた。未来の私は、息子によい教育をしているらしい。

「何の本がいいかな?」

「まだ、読んでないのがいい」

「ケンジくんが読んだ本はどれ?」 

 ケンジは、自分が読んだ本がこれだと、次々に指さした。

 「親指姫」、「ぶんぶく茶釜」、「長靴をはいた猫」、「おむすびころりん」、「シンデレラ」、「ピノキオ」、「みにくいアヒルの子」、「かちかちやま」、「ねずみの嫁入り」、「一寸法師」、「わらしべ長者」、「花さかじいさん」、「赤ずきん」、「母をたずねて」、「舌きりすずめ」、「浦島太郎」……。

 結構な読書家だ。お母さんはがんばっている。お父さんもケンジに本を読んであげているのだろうか?

 ふと、ケンジが読んだ本の共通点に思い当たった。全部ハッピーエンドだ。正確に言うと、最後の浦島太郎は微妙だが、アンチハッピーエンドと言うほどでもない。「フランダースの犬」とか、「しあわせな王子」や「人魚姫」などの悲しい結末の本は、あえてはずしているとしか思えなかった。子供には刺激が強すぎると、両親は思ったのだろうか?

 ケンジは無邪気な笑顔を浮かべて、私が絵本を選ぶのを待っていた。

 私はいつもケンジと一緒にいられるわけではない。共に過ごした時間が、少しでも彼の人生にインパクトを与えて欲しかった。意を決して、私は一冊の本を手に取った。そして、ケンジのために読み始める。

 興味深そうに聞いていたケンジだったが、ストーリーの展開と共にだんだん深刻な表情になっていき、ラストには泣き出した。感受性の強い子なのだ。私も読みながら、涙が止まらなかった。

 その本は「ごんぎつね」。私が知っている限り、もっとも悲惨な童話だった。

「ママ、どうして、ごんは撃たれちゃったの?」

 ケンジは泣きながら抗議する。

「仕方なかったのよ。兵十は、ごんが、いい狐だって知らなかったんだから」

「神さまは、なんでごんを助けてくれなかったの?」

 すぐに答えがみつからなかった。

「ねえ、なんで……?」

 ケンジは泣き続けた。刺激が強すぎたかな。相当ショックだったようだ。

「神さまは、天国でごんに言ったわよ。ごん、よくがんばったねって」

「……」

「誰でもね、間違うことはあるの。ごんは兵十の病気のお母さんが食べるものだって知っていたら、うなぎにいたずらしなかったでしょう?兵十だって、いつも栗や、きのこをくれるのがごんだってわかっていたら、鉄砲を撃たなかったよね?」

「うん」

「わざとじゃなくても、人に悪いことをしてしまったら、ちゃんとごめんなさいと言わなきゃいけないの。ごんはごめんなさいと言う代わりに、兵十に少しでも喜んでもらおうと思って、ずっと栗や、きのこをプレゼントしてたのよ」

 五歳の子供には難しすぎる説明かもしれなかった。でも、いつかわかる日が来る。こちらが善意でしたことが、必ずしもよい結果をもたらさないことは、大人になると思い知る時がある。

 世の中は理不尽なことだらけだ。でも、そこから目をそむけてはいけない。時には人の力ではどうしょうもないことがあるのだ。そんな状況において、とれだけ責任感を持って立ち向かえるかが、人間の価値なのだと思う。

 大人の中でも、ハッピーエンドにしか目を向けようとしない人たちがいる。正しい者は必ず報われると信じる人たち。それを国家レベルにしたのが、アメリカだ。以前、ハリウッド映画で制作された「フランダースの犬」の話を聞いて仰天したことがある。ラストでは、何とネロとパトラッシュが村人に助けられてしまうのだ。それって、全然別の話になっちゃうでしょう?と思った。彼らに「ごんぎつね」の話を聞かせたら、発狂するかもしれない。

 私は、ケンジが泣きやむのを待ち、しばらく話しかけなかった。

 そして坊やは、目をこすりながら私を見上げた。真剣な顔。

「ママ」

「なあに?」

「兵十も、天国に行ったら、ごんにごめんねって言うかな?」

「そうね。ごんも、兵十も、お互いにごめんなさいって言うはずよ」

 私はケンジを優しく抱きしめた。可愛い坊やは、私の腕の中で、しばらくヒクヒクと声を出していた。やがて私の目を見て、天使のような笑顔を見せる。ケンジは、ゆっくりと消えていった。

 周囲を見渡すと、何組かの親子がこちらに関心を払う様子もなく、みな黙々と絵本を読んでいた。


 その日の終業後、帰宅しようとした私は陣内に呼び止められた。待ち伏せしていたようだ。真剣な顔で誘われ、一緒に食事へ行くことになった。店へ向かいながら、今日は村山がいないんだな、と思った。

 上品な和風居酒屋で、陣内と飲む。仕事の話、会社の話、芸能人の話。陣内との会話はそれなりに面白かった。彼の話術はなかなか達者だ。会社で女性に人気があるはずだ。見た目もハンサムだし、スポーツマンだし、世間から見れば理想の男性なのかもしれない。

 頃合いを見計らって、私は帰らなきゃと言った。あまり長くいない方がいい気がしたのだ。

 店を一歩出た瞬間、その時は来た。

「ぼくとつきあってください」

 陣内に見つめられた。私も彼の顔をじっと見る。

 彼は、ケンジのどんなパパになるだろうか?きっと息子と一緒にスポーツしたりするんだろうな。裏表のない明るいパパ。

 でも、彼は、間違っても「ごんぎつね」の絵本は読んであげないな。

「ごめんなさい」

 私は深々と頭を下げていた。


 自宅へ帰って、ため息をついた。これでまた、本当にケンジを産む日が遠のいたのかもしれない。なんて惜しいことをしたのだと内なる私が自分を責め、もう一人の私これでいいのと反発する。第三の私はその様子を呆然と眺めていた。

 さんざん酒は飲んできたが、まだ飲みたい気分だった。私は麦焼酎をグラスに入れ、ロックで飲み始めた。ふと顔を上げると、ケンジがいた。

「また、ずいぶん……」

 彼は総白髪の初老だった。たぶん六十は超えているだろう。そして、その隣に三歳ぐらいの女の子。

「ナツミだよ」

 まさか……。

 ケンジはにっこりと笑った。

「そう。ママの孫。」

「勘弁してよ。子供すら産んでないのに、なんで孫と会うのよ?」

 私は思わず大声を出してしまった。

「ははは。ほら、ナツミ、お婆ちゃんだよ」

「こんにちは、お婆ちゃん」

 お願いだから、せめて、おばちゃんにして。

「どうしても、ママにひと目会わせたかったんだ」

 ケンジが静かに言った。

 はたと気がついた。ケンジがその歳だとしたら、私はもう九十歳以上になっているはず。いや、それよりも……。

「本当は、私はこの子に会えないのね」

 ケンジは、何も言わなかった。


 ナツミは活発な子で、しばらくそのへんを飛び回っていたが、やがて、こてっと電池が切れたように寝てしまった。

 ケンジと私はテーブルで焼酎を飲みながら話した。

「ねえ、どんなパパが欲しい?」

 酔った勢いもあり、私はケンジに訊いてみた。彼は苦笑する。

「まあ、ぼくはどんなパパか知っているわけだけど……。一般論としては、結婚相手の探し方というのは、あるよね」

「えっ、どんなの?どんなの?」

 母親が、自分が産んだ息子からアドバイスを受ける話じゃないと思うけど、関係なかった。どう見ても私より長く生きているケンジの話を聞きたかったのだ。

「これは男性側から見た話だけど。女性にも参考になると思うんだ」

「ふんふん」

 私は身を前に乗り出した。

「陸上自衛隊の友達がいてね。新人隊員研修で、教官が教えてくれたんだって。嫁探しのポイントを。それが二つあるの」

「へーっ」

「一つ目が健康。二つ目は何だと思う?ぼくは、それを聞いて、なるほどと思ったね」

 焼酎を口にするケンジ。酒の飲み方がきれいだ。

「ルックス?」

「違う」

「金遣いかなあ?」

「残念」

 ケンジは楽しんでいるようだった。

「降参、教えて」

「正解は……」

「正解は?」

「近所づきあいでした」

「えっ?」

 ちょっと意外だった。

「それにはね、文字通りの近所づきあい以外に、いろんな意味があるの。旦那の同僚、友人、親戚……。広い意味での近所づきあいだね。夫婦って社会的な行動単位でもあるわけよ。二人で動くことって、すごく多いから。そのへんのつきあいは、きっちりやってもらわないといけない」

「なるほど」

「奥さんの方から見ても、同じだと思うな。旦那さんには、自分の親族や友達を大事にして欲しいよね?」

 それは、その通りだ。ないがしろにされたら、私が信用を失ってしまう。

「で、その教官は言ったんだって。嫁選びのポイントは二つ。一に健康、二に近所づきあい。他にいいところがあれば、儲けものだと思え!ってね」

 二人で声を上げて笑った。そして、私の心のメモ帳に「健康で近所づきあいできそうな男」が、しっかりと記録された。ありがとう、我が息子。

 私は立ち上がり、冷蔵庫から氷を取り出した。今夜は徹底的に飲もうじゃないの。そして、テーブルに戻ると、ケンジが変わっており、ナツミも消えていた。

「えーっ?」

 彼はどう見ても二十代のサラリーマンだった。さっきと同じ焼酎のグラスを手に持っている。グラスに残った焼酎の量もそのままだ。

「で、ママ、女性を選ぶ時のポイントなんだけど……」

「それ、私に訊いているの?」

 ケンジはうなずいた。たった今、私にアドバイスをくれていたのに。一瞬で立場が逆になってしまった。

 私はため息をつくと、椅子に座った。ようし、仕切り直しだわ。

「そうね、まず……」

 ケンジは、じっと私の顔を見ている。

「ドタキャンする子は、やめときなさい」

「ドタキャン?」

「そう。自分で約束しておきながら、平気でキャンセルする人」

「はあ」

「そういう人って、男性に対してだけじゃないの。女性の友達にも同じようにやるのよ。」

 ふんふんとうなずくケンジ。思い当たる実例があるらしい。

「ドタキャンって、一種の癖ね。これは、たぶん一生直らないから」

「そうなんだ……」

「いつかは、その子が、ちゃんと約束を守るようになってくれると信じたいでしょ?でも、残念ながら、ほぼ百パーセント、そうはならないのよ。そういう人って、何回でも同じことやるの。人に甘えているのよ」

「……」

「誰だって、ごくまれには、病気になったり、家族にトラブルがあったりして、ドタキャンすることはあるわよ」

「そうだね」

「でも、理由が何であれ、それをやってしまったら、償いというか、リカバリーをするのが人の道でしょ。自分から誘うとか、お詫びにごちそうするとか。そのまま連絡ひとつせずに放っておく人は、間違いなく、どこかおかしいから」

「なるほどね」

「悪いことに、このドタキャン癖のある人は、異性から見て、魅力のあるタイプが多いのよ。それで、みんな振り回されることになっちゃうの」

 ケンジは納得したようだった。

「彼女である前に、人間として、約束を守る人を選ぶことね」

 我ながら、いいこと言うなと思った。

「……その通りだね」

 ケンジはうなずき、私はグイッと焼酎を飲む。調子が上がってきた。明日は休みだっけ?仕事なんて、もうどうだってよかった。

「あと、ひとつ」

 私はさらに語った。

「できたら、彼女の友達に会うことね。」

「友達?」

「女の子って、男性の前では、とにかく猫をかぶるから。なかなか本性を出さないのよ。でもね……」

「でも?」

 ケンジの顔もいい色になってきた。

「友達はごまかせないから。彼女の親友と会って、もしその子が素敵な人だったら、絶対に彼女もいい子だから。逆に親友が非常に感じの悪い人だったら、彼女にも問題ありよ」

 ケンジは感心したようにうなずいた。

「よし、さっそく友達に会ってみよう」

「あっ、誰か、いい子がいるんだ」

「ごめん。ママには秘密です」

「ずるい、ここまで語らせておいて!」

 酔って息子にからむ私。

 しばらくケンジとにぎやかに飲んでいたが、やがて私は意識を失ってしまった。いつの間にか寝ていたらしい。

 テーブルに突っ伏した私には、毛布がかけられていた。そして、焼酎のグラス二つはきれいに洗って、片づけてあった。


 翌日から、私がいる世界は変わっていた。陣内の求愛を断って、老若ケンジと恋愛談義をしたからか。よくわからないが、心の奥底にある、今まで知らなかったスイッチがオンになっていた。

 オフィスで仕事をしながらも、常に私の目は一人の男性を追い求めた。村山である。我慢しても、何分かに一度はどうしても見てしまうのだ。村山は数回に一回、私の視線に応えてくれた。

 顧客訪問のため外出しても、早くオフィスに戻りたかった。彼のそばに一秒でも長くいたかった。 

 仕事が終わると、思わず帰り際の村山に声をかけた。

「まっすぐ帰るんですか?」

 同じ町に住む私たちは一緒に電車で帰り、自宅の最寄り駅そばの居酒屋で飲んだ。話は尽きなかった。映画の話、絵の話、本の話。特に本の話題では、悲しい童話を言い合って盛り上がった。「赤いろうそくと人魚」、「泣いた赤鬼」……と出たが、やはり世界で一番悲しい話は「ごんぎつね」で間違いない、と意見が一致した。


 その日を境に、村山との時間は私の生活の一部になった。夜はちょくちょく飲みに行き、顧客訪問がない朝は、同じ電車で出勤したりもした。まるで夫婦か恋人のように。

 だけど、まだそうではなかった。村山からは、陣内のようなキメのひとことが出てこなかったのである。同じ会社だけど隣の課だし、彼はバツイチにしても、今は独身だし、何も障害はないはずだったが。

 それでも、二人の距離は徐々に縮まっていった。

 私は一人で生きていける。今でもそう思う。だけど、彼と一緒にいると、とても楽しい。 次の土曜日には、村山の家に料理を作りに行く約束をした。いや、正確に言うと、一緒に料理を作る約束だった。どちらにせよ、私は土曜日が来るのをとても楽しみにしていた。


 そして、その前日、金曜の夜に私は久しぶりに、そして最後にケンジと会った。

 目が覚めると、まわりが白い明かりに満ちていた。私はとても広い病室に立っている。奥にはベッドがあり、そこにケンジが寝ていた。

 八十歳?九十歳?そこにいた老人のケンジは、ひと目で最期の時を迎えていることがわかった。私は駆け寄り、彼の手を取る。

「ケンジくん、しっかりして」

 老人は私を見ると、力なく笑った。

 私は涙が止まらなかった。いつか、こんな日が来る気がしていたのだ。

「また来るよね?小さくなって、またママのところにくるよね?」

 ケンジは微笑を浮かべると、首を小さく横に振った。

「なんでよ?まだ、あなたは生まれてないのよ!ママを置いて、一人で行っちゃいけないのよ!」 

 彼は何事かを小さくつぶやいた。私は耳を彼の口元に当てる。

「何?聞こえない」

 老人は力を振り絞って、最期の言葉を口にした。

「ま……ま」

 彼の目から、どっと涙があふれる。そして目を閉じ、二度と帰らぬ人となった。

「ケンジ!」

 死んじゃった。私の息子が死んじゃった。まだ生まれていないのに死んじゃった!私は遺体に取りすがると、大声で泣いた。

 気がつくと、自分の部屋で泣きじゃくっていた。私は未来のケンジと、もう会えないことを知った。

 

 なぜ生まれていないケンジが私に会いに来たのか?私の頭の中には、その理由がだんだんイメージできつつあった。

 たぶん私は結婚し、ケンジを産むのだろう。

 そして。

 その後は、それほど長生きしないのかもしれない。病気か事故か知らないけど、きっと、まもなく私は死んじゃうのだ。

 ケンジが最後に見た私は、ほぼ今の年格好。彼の頭の中では、ずっと歳を取らないままだ。一生を通じて、彼は折に触れ、私のことを思い出し続けてくれた。ママがいたら、どう言うだろう?ママだったら、どうするだろう?

 小さい頃は保護者として。青年になったらアドバイザーとして。そして彼が私の年齢を超えた後は、逆に保護すべき存在として。常に私は彼のそばにいた。

 そう。

 私が生きるこの世界は、ケンジの夢の中にあるのかもしれない。彼は空想で私を造り上げ、時々会いに来てくれていたのだ。

 あなたは、ママが本当は見られない、いろんな年齢の姿を見せてくれたのね。そして大きくなってからは、結婚前の、まだ危なっかしいママを助けてくれたのね。

 ありがとう。私の坊や。


 土曜日。

 未来のケンジは死んじゃったけど、私はまだ消えなかった。

 そんな気分ではなかったが、約束は守るべしとケンジに言った手前、私は村山の家に出かけて行った。二人で料理を作り、一緒に食べる。私は口数が少なめだったが、村山は陽気だった。いや、私がいつもと違うと察して、あえてよく喋ってくれたようだった。

「いつか、美術館で会ったと言ったじゃない」

「うん」

「中庭で男性と一緒だったから、声をかけるの遠慮したんだよ」

「ああ、あれね」

 私は料理を食べながら言った。

「大学の同級生で佐々木くんっていうの。もう結婚しているよ。彼は絵を大好きなんだけど、奥さんは興味がないって。だから、時々一人で美術館巡りしてるのよ。あの後、お茶だけ飲んだけどね」

 私はケンジと話した後にバッタリ会った友人の名を挙げた。

「へーっ」

 村山はひそかにやきもちを妬いていたのだろうか。ちょっとおかしくなった。私に彼氏がいるのかと疑って、これまで私と距離を置いていたのか。

「あたしも見たよ。先々週ぐらいかなあ」

 私は反撃に出た。

「村山さん、図書館のそばで、若い女の人と歩いていたでしょ?」

 すると、村山のフォークを持つ手が止まった。

「見えたんだ?」

「あたし、視力は両目とも1・5よ」

「いや……」

 その時。隣の部屋で物音がした。

「誰かいるの?」

 私が尋ねた直後にドアが開いて、三歳ぐらいの女の子が駆け込んできた。この子とは、どこかで会った気がする。彼女は村山にまとわりついた。

「ぼくの娘。名前はミツコ」

 私は固まった。えっ、子供はいないと聞いていたのに。

「あの時、君が見た女性が、この子だよ。まだ生まれていないんだ」

「……」

 あっ、美術館の中庭で見られたとしたら、それ佐々木くんに会う前だ。そこに私といたのは……。

「ぼくはまだ会ってないけど、ミツコにはお兄ちゃんがいるんだって」

 村山は、とても優しい目で私を見た。そして、女の子に尋ねる。

「ミツコ、お兄ちゃんのお名前は?」

 ミツコは大きな声で、私の坊やの名前を言った。 


 ケンジ、ママは思っていたより、もうちょっと長生きできるみたいね。


(完)

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