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まだ見ぬケンジ【1/2】前編

 最近よく息子の夢を見る。名前をケンジと言う。 健司か憲二か、それとも別の字なのかはわからない。 なぜなら、ケンジはまだ生まれていないからだ。

 と言って、私が妊娠しているわけでもない。三十代前半だが未婚だし、もちろん出産経験もない。

 しかし、夢に出てくる男の子は間違いなく私の子なのだ。なぜか名前がケンジだということもわかっている。

 柔らかいブルーのベビー服に包まれたケンジは、じっと私を見つめている。 とても優しい目。その笑顔は、この世の幸せと喜びをすべて吸い込んでしまいそうだ。

 ケンジくん、ありがとう。私の子になってくれて、本当にありがとう。その思いがこみあげてきたところで、いつも起きてしまう。 私の目は温かい涙でうるうるしている。だが、起きて時間が経つと、喜びはだんだん失望に変わっていく。ケンジはまだ、この世にいないのだ。いつ生まれてくるのかどころか、本当に会えるかどうかすら、わからないのだから。

 また、日常生活が始まった。洗面、着替え、朝食。そして、鏡に向かう。そんな朝は泣いた跡を消すために、どうしても化粧が少し濃くなってしまう。

 その日も、ふだんと変わらぬ一日が始まるはずだった。


 仕事の合間に隣席の高田良子と雑談していた時のこと。良子は妊娠中で、もうじき産休に入る。一年後には職場に復帰すると言っているが、たぶん帰って来ないだろう。私は何人もそんな女性を見送ってきた。育児休暇が切れると同時にそのまま退職してしまう彼女たち。確かに保育園に払う費用を考えると、共働き自体が馬鹿らしいのは事実みたいだ。延長保育などを頼むと、給料が右から左に消えてしまう感じになるらしい。

 良子は私、中川喜代美と同じ営業だ。IT企業では女性の営業は珍しくない。良子と私は運も味方しているのだろうが、五十名の営業の中で、常にトップを争っていた。

 つまらぬ公共投資に金を使うぐらいならと、私はよく考える。国がもっともっと保育園を作ったらいいのに。これが不十分なために、良子のような仕事のできる女性たちが、どれほど会社を去って行ったことか。本当にもったいない。高校、大学を出て、会社で経験を積んで……。こんな人たちは一朝一夕で育てることなどできないのに。経験に裏打ちされた技術はお金では買えないのに。

 もっとも、子供を生んだ女性たちが帰って来ないのは、お金の問題だけではない気もする。彼女たちは、ただ可愛い子供と離れることが耐えられないのかもしれない。仕事など、どうでもよくなってしまうのかも。本物の子供こそまだいないが、夢でケンジと会う私は、そんなことを考える。

「明け方に蹴って起こすの。ママ、朝よって。目覚ましより早いんだから」

 良子がお腹をさすっている。何ともいとおしそうだ。つわりの頃は蒼い顔をして何度もトイレへ行って、本当につらそうだった。だけど、安定期に入った今は、幸せに満ちた顔をしている。

「律儀なところは絶対、高橋さん似じゃないよね。パパだよね」

 と言った瞬間、私は固まった。

 いつの間にか三歳ぐらいの男の子が良子の脇に立ち、彼女のお腹をのぞきこんでいる。坊やは手を出して良子のお腹を触ったが、彼女は全く気がつかない。そして、男の子は私を見てニッコリ笑った。あの笑顔。

「ママ」

 初めて声を聞いた。ケンジだった。夢の中では赤ん坊だが、成長した姿でここにいた。なぜだかわからないが、そうに違いないとの確信があった。

「ミワちゃんが笑ってるよ」

 良子の赤ちゃんは、女の子であることが既にわかっている。夫婦であれこれ考えている名前の候補に「美和」があることは聞いていた。その名前に決まるんだ。

 ケンジが、じっと私の顔を見た。

「ぼくはいつ生まれるの?」  

「……」

 声が出なかった。えっ?まだよ。そんなこと言われたって、あなたは私のお腹にいないし。まだ、来てもらえる予定も全然ないのに……。そもそも、あなたのパパは誰?さまざまな思いが、猛スピードで頭をかけめぐる。

「貴代美ちゃん!」

 心配そうな良子の顔。気がつくと、もうケンジはいなかった。

 だが、確かにいたのである。私は席を立ち、化粧室へ行くと、大きく深呼吸をした。

 ついに夢と現実の境界が崩壊したのか。私は狂っているのかもしれない。それにしても、さっきのケンジは、とても愛らしかった。あれが白昼夢でも、ずっと見ていたかったほどだ。でも、今度出てくる時は勤務時間じゃない時にお願い。

 席に戻ると、私はいろいろ尋ねてくる良子をごまかし、仕事に戻った。しばらくして、後ろから声をかけられる。

「中川さん、資料ありがとう。助かったよ」

 隣の課、営業二課の陣内宏から声をかけられる。先日、私が客先に提出した提案書を参考にしたいと言われたので、さっきメールで送ったところだった。

 陣内はコンマ数秒ほど、私の目をじっと見つめ、ニッコリと微笑む。いつものように、そこには何か暖かい感情があった。

 三十過ぎまで独身だったからといって、私だって全くもてないわけではない。こうして好意を寄せてくれる人は今もいるのだ。……と一応、プチ自慢をしておく。

「多少は参考になりましたか?」

 私は笑顔を返す。女友達から言わせるとヘナッとか、フニャッと表現したくなるそうだ。男が一番弱い顔だよ、それと言われた。

 ちょうど良子が席を立った後、陣内は小さな声で私にささやいた。

「今度、お礼させてください」

 彼は返事も聞かずに立ち去った。

 こういうシチュエーションは時々あった。もっとも自然に誘えるからだろう。だが、私は一人で誘いに応じたことはなかった。適当に受け流すか、同僚も誘って男女複数の飲み会にしてしまうのだ。

 私はため息をつくと、さっきケンジが立っていた場所をじっと見た。


 その晩も夢の中でケンジに会った。幼稚園の制服を着ている。

「ケンジくん、どうして会社に来たの?」

 私はケンジをつかまえようとするが、坊やはキャーキャーとはしゃぎながら、逃げ逃げまわった。

 やっとつかまえた時、ケンジは笑顔で言った。

「ママ、大好き!」

 ケンジを抱きしめた。もう放さないから!

 でも、そのままケンジがいるわけもなく、朝起きると、私はやはり一人だった。たまらない絶望感。思わず掛け布団を抱きしめる。そして、いつの間にか泣いていた。

 

 その日は休日だったので、私は外出した。ひと頃続いた休日出勤も最近はなく、助かっている。忙しい時はこの業界に男も女もない。女性の営業だって、徹夜する日もある。給料は男女一緒だけど、仕事量も全く同じだ。このへん、IT系の企業は非常にドライである。

 開館時間の直後に入ったため、美術館はまだ空いていた。心おきなく、私は大好きな印象派の絵を楽しんだ。高校まで美術部だったこともあり、休みには今も水彩画を描いたりもする。

 映画が趣味と言う友人は多いけど、絵が好きな人は少なかった。もっとも、私は映画だろうが、美術館だろうが、一人で行くことは全く苦にならない。他人のペースや趣味にとらわれず、心ゆくまで楽しめるからだ。

 私は一人でも生きていける、かねがね私はそう思っていた。いつも彼氏や友人がそばにいないと駄目なタイプでは、全くなかった。人といる時はいる時なりに、一人の時は一人なりに人生を楽しめる方なのだ。

 気に入った絵の前でしばらく立ち止まっては、ゆっくりと次へ進んだ。これぞ、まさに至福のひととき。今日の展示会は私が大好きな画家の個展であり、前から楽しみにしていたのだ。

 一枚の絵の前に、見慣れた後ろ姿があった。隣の課、営業二課の課長、村山貴文だ。陣内の上司である。村山はバツイチで、まだ再婚せず独り者だ。たしか子供はいないはず。

 村山は絵の世界に入り込んでいて、私に全く気がつかなかった。彼も一人で来ているらしい。見た目は若く、とても四十半ばには見えない。初めて見る私服姿は、いつものスーツと同じぐらい似合っていた。 

 村山が見ていた絵は私も大好きな一枚だった。男女数名がにぎやかに船遊びをしている風景。絵の人物たちは、心から人生を謳歌しているように見えた。そして、その絵をじっと見つめる村山の口元にも、ほのかに微笑みがあった。

 私が彼の方へ歩み寄り、声をかけようとした、その時。

「ママ」

 後ろから呼ぶ声。振り返ると、ケンジがいた。

 この時も、どうしてすぐにケンジとわかったのかは、後から考えてもよくわからなかった。なぜなら、そこにいた彼は大人だったからだ。セーターとジーンズ姿で、たぶん私と同年配。満面の笑顔を浮かべている結構ハンサムな青年になっていた。

 私は固まったまま動けなくなった。ケンジは小声で私にささやく。

「ママ、お楽しみ中のところごめんね。よかったら、ちょっとお話させてもらえないかな。ぼく、あんまり長いこといられないんだ」

 呆然とケンジの後に従い、中庭に出た。雲一つない快晴。春の芝生は青々としている。二人で木製のベンチに座った。人が見たら恋人同士だと思うだろうか?残念、実の親子なのよ。年は近いけど。

 私は何も言えないまま、ケンジをじっと見た。優しい目をした、とてもかんじのいい男性。たぶん、これまでの人生は、とても幸せだったのだろう。お母さんは、未来の私はこの子をちゃんと育てたんだ、きっと。

「ごめんね。びっくりしたでしょう。このまえは幼稚園だったもんね。次はランドセル背負って来ると思ってた?」

 幼稚園とか、小学校とかいう問題ではなく、まだ生んでいない息子とベンチに座っていることがありえないのだが、まだ私は何も言えなかった。

「ぼくは今、ママと同い年だよ。大人のぼくから見て、ママがこんなにきれいで嬉しいよ」

「……」

 あとで考えると、この言葉には大きな意味があった。だけど、その時は何とも思わなかった。

「いろいろあって、ママの人生にしばらくの間、時々お邪魔することになりました。お騒がせして申し訳ない」

 ペコリと頭を下げるケンジ。

「あなた、タイムマシンでも発明したの?」

 私は何とか言葉を絞り出したが、ケンジは笑い出した。

「まさか。ママの子だよ。理数系が駄目なのは親と同じだって」

「じゃあ、どうやって?」

 ケンジはちょっと考えた。

 私の息子、同い年だけど、私が生んだ息子……。わけがわからなかったが、私はこの状態を嘘だと否定する気になれなかった。目の前にいる彼は間違いなくケンジ、まだ生まれていない自分の息子だと実感できたのだ。

「詳しいことは言っちゃいけないんだ。あと、ママの未来についても、ぼくは教えることができない」

 当然ながら、私はなたの父親は誰?と質問をしようとしていたので、思いっきり出鼻をくじかれた。

「あたしは結婚どころか、彼氏もいないのに……本当に子供ができるの?」

「ここにいるじゃん」

「えーっ、そんなの生殺しじゃない。何か教えてよ!」

 自分の子供相手にだだをこねるのも変だったが、仕方なかった。

「じゃあ、言える範囲で。ぼくが生まれた世界では、ママがとってもいい男性を選んだよ」

 ちょっと、引っかかる言い方だった。

「ぼくが生まれた世界ではって、そうじゃない世界もあるってこと?あたしが変な男と結婚して、思いっきり不幸になっている……」

 ケンジは喜代美の目を見ながらうなずいた。

「もっと悪いのも」

 それ以上は聞かなくてもわかった。ケンジが生まれていない世界のことを言っているのだろう。私が結婚しない世界。いや、しても子供が生まれないないことだって、あり得るし。私は結構SFを読んでいたので、多元宇宙の話を知っていた。あらゆる可能性の数だけ、平行した宇宙が存在するという理論のこと。

 頭が痛くなってきた。じゃあ、ここにケンジがいるからといって、私が結婚できて、子供を生める保証などないということか。

「わかった!あたしを助けに来てくれたのね?」

 ドラえもんとセワシくんみたいにと言おうとして、飲み込んだ。そのたとえが通じないかもと思ったのだ。

「そうなるといいな」

「……」

「ぼくがああしろ、こうしろと具体的に教えることはできないんで、最後はママ次第なんだ。それと……」

「それと?」

「ママもぼくにいろいろ教えて欲しいんだ」

「何を?」

「人生について、ママが知っているすべてをさ。ぼくはこれから、いろんな年齢の姿でママに会いに来ます。ぼくだって、ぼく自身の人生で悩んだり、迷ったりしてるんだよ」

 当たり前の話だったが、神出鬼没のケンジがそうなのは、ちょっと不思議に感じた。すべてを知り尽くしているわけではないのか。

 ケンジは名残り惜しそうに立ち上がった。

「ごめん。そろそろ時間なんだ。またすぐお会いしましょう」

 私は引き止めようと手を伸ばしたが、届かなかった。

 ケンジは数歩歩き出すと、くるりと私の方に向き直った。

「ママ、またね」

 爽やかな笑顔を残して去って行った。追いかけようとしたが、すぐに姿を見失ってしまった。

 

 ある日の夜。私は陣内と二人で食事をしていた。お礼の誘いにのったのだ。以前、テレビで見たこともある、ちょっとこじゃれたイタリア料理店。

 男性と二人で食事するのは、久しぶりだった。早くケンジを産まなければと焦ったわけではなかったが、ちょっとだけ何か行動を起こしてみたくなったのだ。

 飲んで、食べて、それなりに笑いもあったし、会話はとぎれなかった。しかし、その晩の話題は、すべて会社や仕事のことばかりだった。私は趣味の話も陣内にふってみたが、そちらは全く広がらない。彼はゴルフをやるようだったが、残念ながら、私はそちらには全く関心がなかった。

 陣内は二軒目に行こうと誘ってくれたが、断って帰宅した。


 帰宅後、シャワーを浴びて浴室から出てくると、ダイニングのテーブルにケンジがいた。

「また、小さくなっちゃったの?」

 小学校の中学年ぐらいに見えるケンジは、算数の宿題に夢中だった。

「ねえ、ママ」

 ケンジは顔を上げた。

「ぼくがやっているこの問題って、大人になってから役に立つの?」 

 ちょっとおかしかった。自分も小学校の頃、そう思っていたからだ。大人のケンジも言ってた通り、この頃から数学が苦手らしい。

「どれどれ、見せて」

 ケンジの教科書を手にとった。小学四年生の算数。内容は角度、少数、分数、面積……。よかった。このぐらいならついて行ける。

「これはねえ、全部役に立っているよ。たとえば、ケンジくんが、おうちを買う時。どのぐらいの広さがあるか、面積を測らないとね。間違って小さなおうちを買っちゃったら、損でしょ?」

 わかったような、わからないような解説だったが、ケンジはにっこりと微笑んだ。そして、再び宿題に挑む。私はケンジの練習問題をチェックして、間違えていたところは丁寧に解説してやった。

 宿題が全部終わると、ご褒美だと冷蔵庫からプリンを出してやった。歓声を上げて、むしゃぶりつくように食べるケンジ。子供が無心で食べる姿、それは何と幸せな光景だろう。私はつかの間の母親気分を満喫した。

 食べ終わったケンジは荷物を手に元気よく挨拶した。

「ママ、ありがとう。そろそろ帰らなきゃ」

「もう帰っちゃうの?まだいいじゃない」

「また来るよ。バイバイ」

 止める間もなく、ケンジはドアを開けて隣の部屋に行ったかと思うと、もう消えていた。テーブルの上には、私とケンジが食べたプリンの空き容器だけが残っていた。

 

 翌日、陣内から、またメールで食事の誘いが来た。私は、はっきり返事をせずにごまかした。彼は社内の女性間でも人気があり、私も決して嫌いではなかったが、二つ返事でまた行きます!と答える気にはならなかったのだ。かと言って、きっぱり断るのも早い。いずれにせよ、少し時間をおいた方がよいと感じていた。

 美術館で会った村山は、最近何となくよそよそしい。隣の課だが、以前はあれこれと話しかけてきたし、アイコンタクトもよくあったのに。私はじっと村山を見つめてみた。彼と目が合ったが、すぐにそらされた。 

 

 帰宅して、部屋着に着替えて振り返るとケンジがいた。私は吹き出した。

「今度は高校生?」

 やや長髪でニキビの跡がある好青年。我が息子ながら、やっぱりハンサムだ、とまた思った。テーブルで勉強しているのは算数じゃなくて数学だった。のぞきこむと、微分・積分みたいだった。私も大の苦手だった、あれ。

 ケンジは、うんざりした顔で私を見上げた。

「ママ、これって社会に出てから、役に立ってる?」

 小学生の時と同じ質問だ。

「たってない」

 私は即答した。

「やっぱり」

 ペンを投げ出すと、頭の後ろで手を組むケンジ。

「意味がないよね。なんでこんなことやらすんだろ?」

 私はケンジの前に座った。

「私も高校生の時、そう思ってた。それにもし、意味があるとしたら……」

 ケンジは、私の顔をじっと見た。

「人生には、無意味なことをやらなきゃいけない時もあるってことね」

「えーっ。嫌だな、そんなの」

「世の中、自分の思い通りばかりにはならないのよ。特に仕事するようになってごらんなさい。なんで、こんなことやるのって思うことの連続だから」

「ふーん」

「あれやって、これやってって、いろんなことを頼まれる。でもね、仕事って、頼まれたことをきっちりやることなのよ」

 ケンジは納得できない顔をしていた。

「仕事はお金をもらうからそうかもしれないけど、これはどうなんだろ?」

 と、参考書を持ち上げる。

「それも広い意味で、ケンジの仕事よ。社会人になってお金をもらうために、学校でここまで勉強しておいてくださいっていう、社会のルール」

「……」

「あなたがいくら嫌だって言ったって、その試験で合格しないと、学校を卒業させてくれないでしょ?」

「うん」

「じゃあ、やらなきゃ」

「理不尽だなあ」

「そう思ったら、あなたが社会に出て、ルールを作る立場にまわればいいのよ。でも、そのためには……」

「これをちゃんとやっとかないとね」

 ケンジは訳知り顔でニヤリとした。

「やり過ぎないでね。必要最低限でいいの。どうせ、学校を出たら忘れちゃうから」

 二人で声を上げて笑った。息子というよりは、弟と話している気分だった。

 夕飯のためにスパゲッティを作った。二人分の食事を作るのは、何とやりがいのあることだろう。味つけにも気合いが入る。

「おいしい!」

 ひと口食べて、ケンジは満面の笑顔になった。

「よかった」

 まだ、食べれるでしょうと、冷蔵庫にあった残り物を全部出してやる。よっぽどビールで乾杯してやろうかと思ったが、高校生に酒を飲ませてはまずいので、グッと我慢した。

 食事をしながらケンジの高校生活について、いろいろ質問してみた。当たり障りのないことには答えるが、肝心の点は、すべてはぐらかされた。高校名とか、住んでいるところとか。まあ、男が口が堅いのは悪いことじゃない。

 ケンジは、テーブルに出したものをすべてペロリとたいらげた。私は嬉しくなって、食後のコーヒーを入れた。

「ねえ、ママ」

 ケンジは、心なしか、ちょっとモジモジしている。

「ん?」

「ママに女性として、アドバイスをいただけたらと」

「何?何?」

 思わず笑顔になる。ケンジが照れながら話したところでは、学校に好きな子がいるらしい。その子と距離を縮めるには、どうすればいいかというのだ。

 私はケンジの顔をじっと見る。このぐらいの年の男の子は、母親にこんな相談をするものなのだろうか?よっぽどのマザコンじゃない限り、たぶんしないだろう。異性へのアプローチなんて、典型的な親離れの行動だし。

 ケンジの今の年齢であれば、私は五十歳を超えているはずだ。だが、ここにいる私は、その歳より二十は若い。ケンジにしてみれば、母親というよりは、親戚のおねえさんみたいに感じるのかもしれない。

「そうね、まず……」

 ちょっと赤くなったケンジが私を見る。可愛いなと思った。

「たくさん、話しかけて、親切にする。そして、じっと見つめるの」

「……」

「女ってね、男の人が自分に興味があるかどうかって、すぐにわかるのよ」

 息子に何を教えているんだ、私は。

「で、しばらくしたら……」

「……」

「少しの間、知らん顔をしなさい」

 ケンジは意外そうな表情を浮かべた。

「女は、無視されることが一番嫌いなの。ずっとアプローチしてきた男の人が急に距離を置いたら、すごく気になるから」

 私は話しながら、村山のことを思い出していた。

「そこがねらい目よ。そこでまた優しくすると、相手はグッとくるわけよ」

 ケンジはメモでも取りかねない顔で、私の話を聞いていた。

「あと、大事なのは、本当に好きだったら、ちゃんとデートに誘って、そこでちゃんと言うことね」

「付きあってくださいって?」

「そうよ。電話やメールじゃ駄目。面と向かって、言葉で言うの。男なんだから、当たって砕けろよ。断られたらどうしよう?なんて、ウジウジしていたら、もてないから。はっきり言いなさい」

 ケンジの目はキラキラと輝いていた。

 まるで、恋愛の達人になったような気分だった。三十過ぎて彼氏もいない女の台詞とは、到底思えない。

「よし、ママ、頑張ってくるよ」

 彼は笑顔で立ち上がった。

「結果を教えてね。応援してるから」

 ケンジは私に片手を挙げて挨拶すると、ドアを開けて別の世界へと帰って行った。

 たぶん、最終的にはケンジの恋は実らないのだろうな、と思った。可哀想だけど。一時的には彼女とつき合うことになるのかもしれない。だけど、その先、結婚まで到る可能性は一パーセントもないだろう。だって世の中、初恋の相手と結婚できる人はほとんどいないのだから。

 でも、どうなんだろう?学生の時に初めて恋をして、相手に告白してOKをもらって、そのまま別れることもなく、時がたって結婚。人生で一度だけの恋が成就。それは理想的な人生と言えるのだろうか?何の起伏もないことは幸せなのだろうか?

 私にはそうは思えなかった。人生を十分に生き尽くした老人なら、波乱のない人生がいかにありがたいかわかるのだろう。そう、何も起きなかった幸せ。だけど、それは振り返って過去を見る視点である。その境地へ達していない、現在を生きる私たちは、とてもどん欲だ。時にはさらなる刺激を求めて、今ある幸せを捨ててしまうことだってある。この先には、もっといいことがあるはずだって。それは自分だけとは限らない。恋愛相手だって同じ。今の彼氏や彼女に退屈したり、他の異性に目移りしたりすることは、常にあり得ることなのだから。

 この世の大多数の人々は、みんな失恋とか別離といった古傷をどこかに抱えて生きているはず。だけど、つらいことや失敗があったからこそ、出合うちょっとした幸せをありがたいと思えるのではないか。

 ケンジ、たくましく生きるのよ。


 数日後のこと。私は泣いていた。映画を見ながらである。隣の席には陣内がいたが、私はすっかりその存在を忘れていた。

 何回目かのお誘いを断り切れず、それならばと、見たい映画があったので、終業後に陣内と一緒に見に来たのだ。その作品はアメリカ映画だが、ハリウッド大作ではない小品だった。シネコンにはかからない、単館での上映である。

 先日じっくり話したところでは、陣内は本も読まなければ映画も見ない、文化的なものとは無縁のタイプだった。その彼が、私の好む映画を見たら、どんな感想を述べるのか?と、ちょっと興味があった。会社や仕事の話はし尽くしたので、食事の時の会話のネタになるかもと思ったのだ。誘ってみると、意外にも彼はあっさり承諾した。

 映画館へ着くと、すぐに彼はポップコーンとジュースを買ってくれた。彼にとって、映画館とはそういうところらしい。私はふだん、映画を見ながら飲食しないのだが、せっかくなので、ありがたくいただいた。

 上映開始。作品はまさに私のツボであり、終わりの方は涙が止まらなかった。基本的にはコメディが好きなのだが、たまにはこういうシリアスなのもいい。

 エンドロールが終わり、場内が明るくなる。作品世界に没頭していた私は、自分に連れがいたことを思い出した。あわてて、隣を見る。

 寝ていた。陣内は爆睡していた。私は呆然と、彼の顔を見た。

 ふだん映画を見ない彼が、もし私と同じように感動してくれたら、もっと気持ちが近づくかも……という期待も、どこかにあった。もちろん、自分の趣味を押しつけるつもりはない。誰にだって好き嫌い、合う合わないはある。だけど、私が誘った映画で寝ることはないじゃない。映画と、心から感動していた自分を侮辱されたようだった。

 もはや、彼とは一分だって一緒にいたくはなかった。私は彼に声をかけずに帰り支度を始めた。気配に気がついた陣内は目を覚ます。私の表情を見て、ギョッとした顔をした。

「ごめん、ちょっと寝ちゃった」

「……」

「最後、どうなったの?」

「別に」

 興味があるなら、寝ないでよ。

 私は陣内を残して席を立った。彼はあわてて追いかけてくる。

「ねえ、ご飯どこへ食べに行く?」

 行くわけないじゃない。私は映画を一人で見たんだから、あなたもご飯は一人で食べて。

 あれこれ話しかけてくる陣内に構わず、私は無言ですたすたと出口へ向かった。そこで、村山と鉢合わせした。この映画を一人で見に来ていたのだ。

 目が赤かった。彼も映画を見て泣いたのだ。

「あっ、課長……」

 さすがに上司とばったり会った陣内はバツが悪そうな顔をした。でも、それは村山も同じ。彼は一瞬、私の目を見るとすぐにそらし、陣内を見た。

「こんなところで会うとは……」

 陣内は口だけで笑ってみせた。馬鹿。誤解されるじゃない。

「じゃあ、邪魔しちゃ悪いから」

 村山は立ち去ろうとしたが、私は彼の腕をつかんだ。

「ご飯まだですよね?一緒に行きましょうよ」

 陣内はえーっという顔をしている。ざまあみろだ。

「だって、デートでしょ?」

「デートじゃありません!映画を見に来ただけです」

 映画を見に来るのがデートじゃないかと、内なる声がツッコミを入れたが、どうでもよかった。ここで村山を放したら、取り返しのつかないことになる気がしたのだ。 

「そうですよ、課長、行きましょう」

 陣内が社交辞令まる出しの口調で言った。このサラリーマンめ。 


 結局、私が強引に拉致する形で村山も居酒屋に連れて行った。三人の不思議な飲み会。最初、男二人は見るからに居心地が悪そうで、何だかおかしかった。

 三人で乾杯すると、村山と私はすぐ映画の話で盛り上がった。途中から寝ていた陣内は、当然ながらついてこれない。二人しか見ていない映画の話に集中するのばマナーとしてどうかと思うが、三人とも同じ映画館にいたのだ。寝ていた方が完璧に悪い。

 陣内が映画館で寝ていたことについては、村山と私から、さんざんからわかれることになった。

「女性と映画に来て、普通は寝ないだろう」

 上司からそう言われては、彼も立つ瀬がない。村山も映画に感動していたので、寝てしまった陣内には軽くイラッとくるものがあったようだ。

 村山はかなり映画を見ていることがわかった。好きな作品として挙げたうちの何本かは、私のそれとかぶっていた。話していて実に楽しい。アルコールのせいもあり、私は気分が高揚してきた。

「何だか、俺より課長の方が、中川さんと合うみたいだな」

 陣内が自嘲気味につぶやいた。そんなことないと助け船を出して欲しかったのだろうが、私は放っておいた。

「そうみたい。ねっ、村山さん!」

 村山に笑顔を向ける。彼は私の目を見て微笑を浮かべたが、すぐに視線をはずした。陣内は、すっかりいじけている。この場では、酒だけが彼の友達だ。

 陣内がトイレに立った時、私は村山に尋ねてみた。

「村山さん、先日、国立美術館にいらっしゃいましたよね?」

「中川さんもいたよね」

 村山は、私がいたことを知っていたのだ。

「邪魔しちゃ悪いと思って、話しかけなかったけど」

 そんなに怖い顔で絵を見ていたかしら。確かに私は、好きな物の前では、まわりが見えなくなってしまうところがあるのだけれど。

 村山が何か言おうとした時、顔を赤くした陣内が帰ってきた。さっきから一人で黙々と飲んでいたからだ。彼は私たちに頭を下げた。

「さっ、今夜は飲みましょう。すみません、教養のない男で。すみません、教養のない部下で。」

 陣内は、もはや、ただの酔っぱらいになっていた。


 翌日の午前中。夕方の顧客訪問に備え、私はオフィスで提案書作りに没頭していた。本日は部長が同行するため、それなりに気合いを入れる必要があったし、いろいろ考えることもあった。提案内容自体はシンプルだったが、相手が、とてもややこしい顧客なのだ。

 その日は朝から同僚たちは皆外出していて、まわりに誰もいなかった。

「ちょっと、お願いがあるんだけど」

 隣を見ると、横にケンジが座っていた。うわっ、また会社に来た。

「社会人……」

 紺色のスーツに赤いネクタイ姿のケンジは、見るからに新入社員という感じだった。うちの新人より、ういういしい。

「ママ、ぼくが作った資料をチェックしてもらえないかな。今日、はじめてお客さんのところへ行くんだ」

 ケンジはサラリーマンになって、私と同じ営業になるんだ。

「えーっ、会社に先輩とか、上司とかいないの?」

 と言いながらも、悪い気はしなかった。

「いるんだけどさ。伝説の営業ウーマンと呼ばれたママに見て欲しかったんだよ」

 口が減らないのは母親譲りか?私は、オフィスでこちらを見ている人がいるかと見渡してみたが、誰もいなかった。相変わらずケンジは私以外には見えないのだろうか?それを確かめるすべはない。誰かを呼び止めて、こう訊くわけにもいかないだろう。

「すみません、隣にいる、この子が見えますか?まだ産んでない私の息子なんですけど」

 水子じゃあるまいし。

「どれどれ、見せて……ふーん」

 その提案書にはケンジの会社名がなかった。普通なら記載があるだろう場所が、不自然に空白になっている。内容は新発売となる機能性食品の紹介。彼はメーカーか、商社のどちらかに勤めているらしい。

「初めてにしてはセンスがいいじゃない」

 ケンジは嬉しそうな顔をした。

「でも、ちょっと詰め込みすぎね。もっとシンプルにしなきゃ」

 息子なので、意図していることはわかった。サービス精神が旺盛で、あれもこれもと情報を満載し過ぎてしまうのだ。

 私は資料を添削してやり、いくつか基本的な注意を与えた。この種のプレゼンテーション資料を作る際には、どんな業界でも共通して言えることだ。字は小さくし過ぎるな、真っ赤な字は、できるだけ使ってはいけない、矢印の図形を使う場合は、一ページ内ではできるだけ同一方向に……。

 ケンジはふんふんとメモを取り、私の話が終わると、にっこりと笑った。

「先輩、よくわかりました。ありがとうございます!」

「先輩じゃなくて、ママでしょ」

「いや、ここでは人生と社会人の先輩だよ」

 彼は立ち上がる。

「もう行くの?」

「がんばってくるよ。忙しいところ、邪魔してごめんね」

 ケンジは笑顔で片手を挙げる。

「じゃあ、また」

 去って行こうとした。

「ケンジくん」

 私は彼を呼び止めた。振り向くケンジ。

「このまえのあれは、どうなったの?」

「あれって?」

 けげんな顔をするケンジ。

「高校二年の時の、彼女」

 と、言って、はたと気がついた。私にとっては数日前のできごとだが、彼に取っては五~六年前の話なのだ。

「ああ、あれね。そうだ」

 ケンジは複雑な表情を浮かべた。

「ママが想像した通りだよ」

 私が口を開こうとした時、後ろから声がした。

「中川さん」

 振り返ると、陣内だった。神妙な表情を浮かべている。ハッと、もとの方向を見ると、ケンジはもういなかった。

「昨日はおつかれさまでした。最後の方は記憶がないんだけど、何か失礼なことを言わなかった?」

 思わず、ぷっと吹き出してしまった。確かに陣内は飲み会の最後はベロンベロンであり、村上にタクシーに乗せられて家へ帰ったのだ。同じ町に住む村山と私は、一緒に終電で帰った。

「大丈夫よ。楽しかったです」

 酔った姿は、その人の本当の姿だ。私は酔った席だから……という言い訳を認めない。その意味では、陣内は善良だった。全く裏がない。つまらなければ、女性と見に来た映画の途中でも寝てしまうぐらいなのだから。彼のことをちょっとだけ可愛く思えてきた。

 陣内は、迷惑をかけたから、また映画か食事に行こうと誘ってきた。適当に生返事をして仕事に戻る。昨日、結果的に楽しい夜となったのは村山のおかげだった。彼と会わなかったら、私はムッとしたまま自宅で一人飯を食べていただろう。

 その村山がオフィスに戻ってきた。陣内があわてて駆け寄り、昨日彼に借りたタクシー代を返していた。村山は私を見て、軽く微笑んだ。

(この続きは)
まだ見ぬケンジ【2/2】後編 
※リンク作成中


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