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恋の至近弾【3/8】初恋は美しすぎて(裏面)

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恋の至近弾【2/8】初恋は美しすぎて

大川さやか、旧姓は岸谷さやかです。

 私たちの話を聞いてくださって、ありがとうございます。私が今から申し上げることは、たぶん主人が言ったことと違うところがあると思います。

「はい」

「詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 はい。私の母は小学校三年の時に病気で亡くなり、その三年後に父は後妻、今の母と再婚しました。私は一人っ子です。

 新しい母は決して悪い人ではありませんでしたが、私はひたすら反発し続けました。父の関心が私より母に向かうのも面白くありませんでした。何だか家庭に自分の居場所がないような気がしていました。

 そういう複雑な精神状態の時に中学へ入学したわけです。

「なるほど」

 女子の友達はあまりできませんでした。入学してすぐに男子からチヤホヤされると、逆に軽いイジメにあったぐらいです。基本的には、ほとんど無視されていました。

「可哀想に」

「ひどいですね」

 家庭では淋しい、学校では相手にされない。そんな状況で私のことをまっすぐ見つめてくれたの主人の存在は、まさに心の支えでした。それで、いつも彼と一緒にいたのは、お聞きになった通りです。

 黙ってうなずく師匠と弟子。

 ようやく新しい母となじみ始めたのは、中学一年の終わりでした。母は、あかの他人である自分から逃げることなく、真剣に向き合ってくれました。テレビで継母が子供を虐待したというニュースを見るたびに、自分は何と幸せだったのだろうと、母には頭が下がる思いです。

 ただ、その頃、私には別の悩みがありました。それは父のことでした。父の病気です。

「どこか悪かったんですか?」

 いいえ。体は健康でした。父は女癖が悪かったのです。私を産んだ母も父の浮気には苦しめられたようでした。そのストレスが母の命を縮めたのではと思うと、今でもいたたまれない気持ちになります。父は後妻を迎えた後も次々と相手を変えては浮気を続けました。父と二番目の母は、毎晩大げんかです。怒鳴り合いの声を聞くたびに、私は部屋の隅で頭を抱えて泣きました。私をいつもなぐさめてくれたのは、実の父ではなく、新しい母の方でした。

「つらかったなあ、それは」

 日を追うごとに状況はひどくなってきました。ついに父は家を飛び出し、帰って来なくなりました。母は精神的に不安定になったのか、近所の人の誘いにのって、妖しげな新興宗教に入信してしまいました。そして、そこで自分も男をつくりました。私たちが住んでいた街で、宗教団体の支部長をやっていた初老の男でした。彼も妻子持ちです。

「ひどいですね」

「よくそれで、神だ仏だと語れるよな」

「文字通り、浮き世離れしているんでしょうね」

 思春期の私は世の中に信じられるものがなくなってしまいました。そうして人間不信になっていた、その頃です。性に目覚めた主人に迫られたのは。

「はーっ」

「すごいタイミングですね」

 まだ中二だったし、怖かったですが、拒んで彼に嫌われるのが怖かったのです。最初は恥ずかしかったし、痛かったのですが、すぐに慣れました。

 いじめがある学校や乱れきった家庭に私の居場所はありませんでした。考えることが嫌でした。何も考えることができませんでした。だけど、誰もいない場所で主人に抱かれている時にだけ、すべてを忘れることができました。

「師匠、なんだか、暗澹たる気分になってきますね」

「ちなみにな、このケースとは、ちょっと違う豆知識なんだけどな」

「はい」

「援助交際っちゅう、ふざけた名前つけて少女売春する子がいるだろ?」

「いますね」

「ほとんどの場合、親が浮気している」

「えーっ、そうなんですか?」

「これは本当の話だ。カウンセラーとか、児童相談員に訊いてごらん。皆そう言うから。性的に妙に早熟っちゅうか、子供が不純異性交遊に走る場合は、まず間違いなく親に問題がある。親は気づかれてないと思っているだろうけど、子供はわかっているんだ」

「なるほど」

「さやかさんの場合、相手が初恋の人だっただけ、ラッキーだったんだよ。一歩間違ったら、とんでもない道へ行ってしまう危険もあったわけだ」

「不幸中の幸いでしたね」

「ごめんなさい。続けてください」

 中学、高校と、私は彼が大好きでした。彼がいたから、生きてこられたのだとすら思います。でも・・・・・・。

「でも?」

 今は大嫌いです。

「えーっ?」

「あんなに頑張っているのに?」

 妊娠の時からお話しましょう。東京の大学に通うようになってから、私と主人の関係が大きく変わったのはお聞きになった通りです。

 住むところこそ別でしたが、彼と共に東京で暮らし始めた時、私は本当に幸せでした。これまでとは別の新しい世界が広がった気がしたのです。

 だけど、それもつかの間。大学生活に慣れるにつれて彼は冷たくなっていきました。すっかり人が変わってしまったのです。彼は私を部屋に呼ぶことはあっても、一緒に外出してくれることはほとんどありませんでした。金がないからというのがその理由ですが、言い訳に過ぎないことはよくわかっていました。

 たまに私を部屋に呼んでくれた時、彼の目は恋人を見る目ではありませんでした。それは、まるで飢えた犬が餌を見るようでした。ことが終わると、彼の態度は急にそっけなくなりました。私は少しでも長く彼の部屋に残りたくて、一生懸命料理を作ったり、掃除をしてあげたりしたものでした。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

  ちょうどその頃です。実は私にもいいなと思う男性が別にできました。夏休みにファミレスでバイトしていたんですが、そこで知り合った四つ上の男性です。彼は山形浩さんといいまして、そのファミレスの新入社員、つまり社会人でした。現場研修として、その会社では入社後一年間、新人は店舗に配属されるそうです。

 山形さんは仕事上でもいろいろと私の面倒を見てくれましたし、休憩時間にもいろいろ話をしたりで、私をとても可愛がってくれました。

 そのうち仕事が終わってから一緒に食事へ行くようになりました。悪いなと思いつつも、自分に彼氏がいることは言えなかったのです。男性は主人しか知らない私にとって、山形さんと過ごす時間はとても新鮮でした。彼は本当に真面目で純粋な人で、真剣に私に思いを寄せてくださっていることがわかりました。

 その頃も時々、主人の部屋に呼ばれていたわけですが、こんなことをしているのを山形さんが知ったら、どんなに悲しむだろうなと罪悪感を感じることがありました。

「うーん・・・・・・」

 ある日の仕事後、また一緒に食事をした後に、店の外で山形さんから交際を申し込まれました。とても緊張した顔だったのを覚えています。とても嬉しかったです。すぐにはい!と返事したかったのですが、主人のことを思い出して、それができませんでした。

 笑顔で考えさせてくださいと山形さんに答え、駅に向かって駆け出しました。走りながら私は、主人とはきっぱり別れて、人生をやり直そうと考えていました。

 山形さんと一緒にあれもしたい、これもしたいと幸せの想像はふくらむばかりです。そして幸せな気持ちにつつまれて電車にのった瞬間、体調の異変に気がついたのです。

「うわっ」

「たまらんなあ」

 すぐに原因はわかりました。神さま、どこまで私をいじめるのですかと絶叫したい気持ちになりました。

 一夜明けてファミレスに電話で病欠を伝え、近所の産婦人科に行きました。検査結果は、やはり思った通りです。涙が止まりませんでした。

 私は家に帰り、暗くなるまで、ひたすら泣き続けました。すっかり日が暮れた頃、ドアのチャイムが鳴りました。

 インターホン越しに返事をすると、そこにいたのは山形さんでした。きっと私の履歴書を見て住所を調べたのでしょう。昨夜の告白の後に私が休んだものですから、いても立ってもいられなくなり、来てしまったようでした。今だったらそんなことをすれば大問題でしょうけど、当時は個人情報の管理も甘かったのです。

 ドアを開けて、彼の心配そうな顔が目に入った瞬間、私は泣き崩れました。そして泣きながら、自分に起きたことを彼に伝えました。そして、ごめんなさい、ごめんなさいと何度も何度もあやまりました。

 しばらく沈黙の時間がありましたが、やがて山形さんの手のひらの感触がありました。私の頭を優しくなでてくれていたのです。顔を上げると、彼の目は真っ赤でした。泣いていました。

 やがて山形さんは黙ったまま、去っていきました。それが彼とお会いした最後です。あとで聞いた話によると、その後まもなくファミレスの会社を辞めてしまったそうです。

「そうか・・・・・・。こら、おまえまで泣くな!」

「すみません、師匠。つい」

 弟子はあわてて涙を拭いた。

 翌日は部屋に閉じこもって悩んでいましたが、やがて外に出て、あてもなく歩き回りました。そして気がつくと、主人の部屋の前に来ていました。そこから先は主人からお聞きになった通りです。

「しかし、その後は、ご主人も責任とってと言いますか、まあよくがんばったのではないですか?」

 弟子が涙声で訊いた。

 主人が、がんばった?とんでもないです。全然がんばってなんかいません。

「えっ?」

 彼は自分の夢や希望をすべてあきらめ、私と子供のために人生を捧げました。

「そうですよね?」

 それがむかつくのです。

「ええっ?」

 あの人は、すべてを私と子供のせいにして、ただ生きるだけ、何も考えないようになってしまいました。今の主人は生きる屍みたいな存在です。人として、男として、何の魅力もありません。

「はあっ?」

「そこまで言わなくても」

 極端なことを言えば、あの時、彼は私と子供なんか捨てて、やりたいようにやればよかったのです。生きたいように生きればよかったのです。今どき、女一人と子供一人だって、何とでも生きていけます。主人は、自分を犠牲にすることなんかなかったのです。

「うーん」

「ちょっと、おっしゃることが理不尽だと思いますけど」

 あの人、重たいし、恩着せがましいんですよ。おまえたちのために俺は何もかも我慢して頑張っているんだぞなんて、殉教者ヅラを見せられ続けて、本当にうんざりしました。

「まあ、ただ、それでご家庭が成り立っているわけだから」

「そうですよねえ」

 私は仕事をがんばるわけでもなく、趣味に没頭するわけでもない、ただ漫然と生きている今の主人が大嫌いです。私は毎日、魂の抜け殻と暮らしているんです。

 よく考えたら、そもそも私は中学の頃から、本当は彼のことなど好きでなかったのかもしれません。淋しくて、精神的に不安定だった時にたまたま寄ってきたから、つき合いだしたに過ぎないんですよ。きっと。

「最初にお聞きしたお話と、ちょっと違うような」

「これは彼女に限らず、女性すべてに言えることだ。ちょっと頭にくると、過去に遡って記憶を書き換えてしまう。男みたいに、あの時はよかったけど、今はちょっとなんて、ない。過去から現在に至るまでのすべてを否定にかかるのだ」

「強烈ですね」

 主人ががんばりたければ、がんばればいい、と私は思いました。それなら、こっちはこっちで好きにやらせてもらうだけです。

 彼は自虐的な生活を楽しんでいるようなので、お手伝いしてあげることにしました。まず、最初の頃は会社にお弁当を持たせていたのですが、週にひとつずつ、おかずを減らしていきました。彼はしばらく何も言いませんでしたが、ついにお弁当の中身がご飯と漬け物だけになった時、これではお腹が減ると、ポツリと言いました。

「終戦直後じゃあるまいし」

「で、どう言ったんですか?」

 思いっきり、キレてやりました。うちはお金がないの!贅沢したいんだったら、もっと出世して!そもそも、私はこんなに早く結婚したくなかった、もっともっと人生を楽しみたかったと泣きわめきました。

「修羅場ですね」

「女性が、そもそもという単語を使い出したら最後だ。たいていの場合、もう手がつけられん」

 彼は表情も変えずにわかったと言いました。それからしばらくは、その簡単な弁当を持たせ続けてやりました。

 ある日、会社の方から家に電話がありました。主人が倒れたというのです。病院に駆けつけると、倒れた原因は栄養失調だと言われました。そう言えば、その頃はずいぶん痩せていましたね。

「そんなに平然とおっしゃらなくても」

「朝は食パンと水道水で、夜に残り物がない時は、また食パンだったら、確かにそうなるかも」

 さすがに世間体が悪いと思いましたが、彼のためにおかずを増やすのは面倒でした。だから、昼食は市販の弁当を買ってもらうことにしました。

 あと、お小遣いも最初は一日千円でしたけど、これは一年に百円ずつ減らしていきました。子供の教育費にお金がかかるからと言って、五年かけて、お弁当の代金ぴったりにしたのです。文句は言わせませんでした。

「何たる執念というか、計画性」

「恐るべしやな」

 子供も大きくなりましたし、そろそろ私は自分のことを考えようと思っています。手に職をつけて、いつ彼と別れても生きていけるようにしたいのです。どこか、そのための学校に通いたいですね。学費がかかるでしょうから、主人にはがんばって稼いでもらわないといけません。ふふふ。

「不敵な笑みって、こういうのを言うんでしょうね」

「ご主人の力のない笑顔とは、えらい違いだな」

「しかし、中学一年生の、愛の告白がここまで来るとは」

「さて、まとめようか」

「はい」

「きみは、ここまで聞いて、どう思った?」

「最後の奥さんの話は、ちょっとあんまりですね。もしご主人がですよ、仮にさやかさんと子供を捨てて、自分の好きなことをやっていたら、無責任だって絶対非難されていたはずです」

「それは、そうだ」

「そう考えると、やっぱり、ご主人は可哀想じゃないですか」

「要はな」

「はい」

「奥さんが言った通りなんだ」

「えっ?」

「旦那の問題点は、頭を使わなかったことなんだよ」

「はあ」

「人間に必要なのは、まず自分の人生をしっかり生きること。他人のことを考えるのは、その後だ」

「・・・・・・」

「つまり、極端から極端に走ってはいかんということだ。彼女と子供を捨てて、自分だけのことを考えるのもいかんし、自分を殺してぼんやり生きてもいかん。考えることをやめた人間は腐っていく。一見、女房と子供のために生きているようだけど、実態は逆だ。女房と子供に依存しまくっているんだ。自分で考えることを放棄して、人にやらせとる。どこに会社の飲み会へ出るかどうかを女房に決めさせる奴がいる?そんなの怠慢であり、思考停止以外の何物でもない。そういう情けないところをまわりの人間は敏感に察しているよ」

「なるほど。まさに奥さんは気づいていたわけですね」

「両極端ではない、その途中のどこかに正しい道があるはずだ。しかも、それは状況によって変わることもある。今、一番ふさわしいこと。ベストではないけど、考えうる限りのベターな選択。それを探し求めて頭を使うことが、生きるってことだろ。違うか?」

「その通りですね」

「最初は仕方ないかもしれない。でも、自分ができる仕事、やってみたい仕事を追い求めることはできるし、もっとおかずや小遣いを増やせと女房と交渉することもできる。もちろん、成功するかどうかは、わからない。難易度はとても高い。でも、挑戦し続けなければならんのだ。最初から全部あきらめてしまったら、そんなの人間じゃない」

「よくわかりました。彼らは、これからどうなるのでしょうか?」

「守護霊、指導霊の腕の見せ所だけど、これは難易度高いなあ。きみ、自分ならどう指導するだろうと考えとけよ。今度聞くからな」

「はい」

「さて、そろそろ次行こうか。また、全然違うケースだ」

 一礼したさやかと入れ替わりに若い男が部屋に入ってきた。彼もまた、師匠と弟子に己の人生を語り始めた。

(この続きは)
恋の至近弾【4/8】カサノバの夕べ(前編) 


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