三つの試練(現代版 寿命のろうそく) 通読目安:1時間
-1-
ようやく、ここまで来た。
今まで俺を見下した奴ら、今の俺を見たら、全員が手のひらを返すだろう。
当然だ。
連中が一生かかって稼ぐより、はるかに多い金を、俺はもう手に入れた。
もう誰にも、馬鹿にさせない・・・
「・・・!」
目を覚ますと、白い天井と壁が視界に飛び込んできた。
夢・・・
いや、夢というより、過去と言ったほうがいいだろう。
今、夢の中で自分が言っていたことは、20年以上前に、会社の年商が100億円を越えたときに、実際に口にした言葉だった。
最近、過去を思い出すことが多くなった。
目を覚ましているときも、夢の中でも、過去がチラつく。
サラリーマン生活に早々に見切りをつけ、起業してから、40と数年。
三国元成(みくに もとなり)にとって、人生は金を稼ぐことだったと言ってもいい。
10年前に他界した両親は、人が良すぎる性格で、人に金を貸したり、詐欺師に騙されたりして、常に金がなかった。
誠実さを持って接すれば、人は必ずそれに報いてくれる。
そう言って、何度騙されても、人を信じ続けた。
実は両親も、信じてはいけない人間がいることが分かっており、それでも、今さら自分が間違っていたとは言いたくなくて、騙されても自分の信念を曲げようとしなかったのではないかと、大人になってから思ったが、三国が何度言って聞かせても、両親は自分たちの考えを変えようとはしなかった。
三国が社会的成功者となったあとは、金を貸してくれとか、こういう投資があると言った話は、必ず自分を通せと、かなり強く言っていたこともあり、晩年には、そういったことはなくなったが、人を疑ってばかりの三国に、両親は不満そうだった。
しかし三国は、そんな両親と、両親を騙す人間たち、子供のころはかなり生活が困窮していたという事実から、金があれば・・・という思いを強くして、常に金を稼ぐことを考えた。
高校を卒業して、普通に就職。
今のように、転職が普通ではなかった時代。
退屈ながらも、石の上にも三年と言われ、ひとまずそれに従ってはみたものの、まったくうまくいかず、自分はサラリーマンに向いていないと、早々に見切りをつけ、起業することを決断。
それから、どんな仕事かはこだわらず、会社を大きくするために何でもやった。
そして、紆余曲折あったものの、子供のころに貧乏を笑った連中や、起業することを笑った連中、全員が一生かかっても稼げない金を稼ぎ出し、両親の金銭的問題も解決し、自分の家族も、家も、欲しいものは何でも手に入れた。
しかし半年前。
体調不良が続き、病院で検査したところ、胃がんであったことが判明。
余命は、もって半年だろうと宣告された。
それを聞いたときは、確かにショックだったが、走り続けて、自分が求めたものはすべて手に入れ、後悔はない。
あとは、仕事から離れてのんびりと過ごそうと思っていた。
だが、財産の分配をめぐるやり取りの中で、家族や親族の醜さを目の当たりにして、これまでの自分の人生は正しかったのかという疑問が浮かぶようになった。
成功に至るまでの道の中で、人間の醜さはたくさん見てきた。
財界や政界の、一般人が知り得ない、魑魅魍魎が跋扈する世界も見てきた。
だから、人間の醜さなど、気にならなかった。その中で生きる自分も、魑魅魍魎の一部だとさえ思った。
それでも家族だけは違うと、どこかで思っていた。
家にいることが少なかったとはいえ、家にいるときはできるだけのことはしたし、生活に困らせたことは一度もない。
しかし、自分の死期が迫り、財産の話が出た途端、状況は一変。
そのことが、三国に自分の生き方について、疑問を投げかけることになったのだった。
「また、昔の夢を見たんですか」
病室の入り口のほうで、声がした。
見ると、秘書の新沼秀和(にいぬま ひでかず)が、ゆっくりと、静かな声で言った。
新沼は、三国が起業したときから共に走り続けてきた同志で、家族の醜さを目の当たりにした三国にとって、唯一心から信じられる人物と言える。
今年で71歳になる三国の一つ年下で、白髪頭をオールバックで綺麗に整え、髭を綺麗に剃った顔は、艶があり、背筋もピンとしており、かなり若く見える。
「ああ。
いかんな、どうも」
三国は、目を閉じ、口元を緩めながら言った。
「遺言の件は、私の方で整理します。
最終的にどのかたちで承認するかどうか、決めるのはあなたですが、
処理は私がするのですから、旅行に行くとかして、余暇を楽しんだらいかがです?
身体はそれほど辛くないのでしょう?
「そうだなぁ・・・ だが、スッキリしなくてな。
今のままでは、旅行に行っても楽しめない」
「どうすればスッキリできるのかが分かれば・・・」
「それが分からないから、身動きが取れないんだろうな」
「・・・」
「・・・」
沈黙が流れる。
そのことに、二人は奇妙な感覚を覚えた。
これまで、様々な困難があった。
仕事でも、プライベートでも。
困難に陥るのは、主に三国のほうだったが、新沼はそれを助け、二人で乗り越えてきた。問題解決に向かうとき、二人の間で会話が途切れることはなく、ときにぶつかりながら乗り越えてきたからこそ、成功という結果がある。
にも関わらず、三国の中で何が引っかかっているのか、これまで乗り越えてきたことに比べれば、はるかに簡単な答えのように思えることが、分からない。
「少し一人で考えてみる。
おまえも余暇を楽しめ、新沼」
三国は、少し寂しげな笑顔で言った。
「・・・分かりました。
では、また明日来ます。
もしどこかに出かける気になったら、私には連絡してくださいよ?」
「分かってるさ」
入り口の前で、会釈して出ていく新沼を見て、真面目な男だと、三国は思った。
社長と秘書という関係とはいえ、実質は友人のようなものだ。
もっと気さくに接してくれててもいいと、何度か言ったことがあったが、それは仕事をする上でマイナスに働く可能性があるからと、新沼は断り、三国が社長を引退した今でも、それを変えるつもりはないらしい。
「まあ・・・ アイツらしいと言えばそれまでか・・・」
三国は、窓の外を見ながら呟くと、テーブルに置かれた本を手に取り、しおりが挟まった場所を開いて、物語の中に意識を移した。
-2-
「お疲れさまです」
尾高慶吾(おだが けいご)は、明るい声で言うと、更衣室を後にした。
会社を出ると、雑踏に紛れ、駅までの道を歩く。
最近は、意識していないと、明るい声を出すのが難しくなってきた。
悩んだところで、状況が良くなるわけではないのは分かっている。
『普通に接してくれ』
そう言われているが、どうしても、先のことを考えてしまう。
「ダメだな、どうも・・・」
電車に乗り、窓のに映る自分の顔を見て、呟く。
兄の尾高優吾(おだか ゆうご)に、手術が必要だと分かったのは、二か月前のことだった。
生まれつき身体が弱かった優吾は、子供のころから心臓が弱く、病弱だった。よくわからないが、免疫力が普通の人より低く、体調を崩しやすいらしい。以前、医者にいろいろと説明されたが、何のことだか理解できなかった。分かったのは、免疫力が低く、そのせいで病気にかかりやすいということだけ。
それでも何とか、その身体とうまく付き合ってきたつもりでいたが、周囲の人間との違いや、病気を理由にやりたいことを諦めなければいけなかったことなど、徐々に蓄積されたストレスは、少しずつ優吾の身体を蝕んでいったのだろう。
二人が小学生のときに、両親が事故で亡くなり、病弱なまま施設で過ごすことになったことも、一つの理由かもしれない。
心臓の手術と、免疫力を上げる治療をすれば、助かる可能性はある。しかし二人には、そのどちらを受けるだけの経済的余裕はなかった。なけなしの貯金を使っても足りないし、助けてくれる身内もいない。その現実を考えると、慶吾には、普通に接することは難しかった。
働いて状況を変えることを考えなかったわけではない。
今も、懸命に働いてはいる。
だが、仕事を掛け持ちし、休みなく働いたぐらいでは、手術費用はともかく、治療を維持することは難しい。
誰を責めるわけにもいかず、自分を責めても解決せず、今では、少しずつ現実を受け入れていくしかないのだと、二人とも思い始めていた。
特に優吾は最近、悟りを開いたように、静かに運命を受け入れようとしているように見える。
「ただいま」
兄と二人で住む、2Kのアパートに着くと、慶吾は明るい声で言った。
「おかえり」
弱々しい外見からは想像できない、力強い声で、優吾が言った。
6畳の和室には、中央にテーブルが置かれ、その上にノートパソコン、座椅子が2つ。
キッチン側の端にはタンスが置かれ、その上には小さな棚が置かれている以外、何もない。
布団は押入れに仕舞われており、空いているほうには服が掛けられている。
「今日はどうだった?」
「どうって・・・
まあ、いつもどおりだよ。
清掃の仕事は、それほど代わり映えしない」
「そうか。
でも、自分なりにやり方を工夫してみるとか、できることはあるんじゃないのか?」
「そりゃまあ・・・ね」
座椅子に座り、本を読んでいる優吾に、悲愴感はない。
自分の命の先が見えていて、対処法がありながら、それができないという、何もかもどうでもよくなるような状況の中にも関わらず、慶吾は、優吾が人や物に八つ当たりしたり、愚痴を言ったりするのを見たことがなかった。
「兄貴は強いな・・・
昔から思ってたけど、弱いのは身体だけで、本当にメンタルが強い」
「強い・・・ そうなのかな。
俺は、そう思ったことはないんだ。
そもそも、強いってどういうことなんだろうと思う。
負けないことが強さなのか、勝つことが強さなのか、それとも・・・」
「また難しいことを・・・」
「はは(笑
悪い、ついな・・・」
優吾は、病気を宣告されるまでは、外に出て仕事をしていた。
体調を崩しやすく、休むことが多かったから、会社からはあまり評価されていたとはいい難いが、それでも、出社しているときは、いろいろとアイデアを出したり、しっかり仕事をしていたので、クビになるようなことはなかった。
今は、自宅でできる仕事をネット上で受けており、稼ぎが多いとは言えないが、それでも、二人の一ヶ月の食費ぐらいは稼いでいる。
「飯を作るよ」
慶吾は立ち上がると、キッチンに向かった。
食事を済ませると、風呂に入り、何となくスマホで動画を見ているうちに、寝る時間になる。
「・・・」
布団の上に横になっても、いつも一時間ぐらいは眠れない。
兄のためにできることがあるはずだが、何をすればいいのかわからない。
いったい俺に、何ができるだろう。
学歴もない、スキルもない。
スキルを身に着けようにも、何を勉強すればいいのかも分からないし、そもそも、自分に身につけられるとも思えない。
ふと思い立ち、宝くじ買ってみたこともあるが、当選発表と同時に、紙くずになって以来、買っていない。
兄をこのまま死なせたくないのに、そのための行動ができない自分が、たまらなく情けなく、どこかで諦めている自分が嫌だった。
ピー ピー
「・・・」
鳴り響く目覚ましを止め、枕に顔をつけたまま、無理やり身体を起こす。
外はまだ薄暗い。
例年を越える猛暑が続いた夏が終わって、いつの間にか、日も短くなった。
最近、朝起きるとふと、いったい自分はなんのために生きているのかと考えることが多くなった。
兄が生きている間は、いろいろ考えながらも生きていくのだろうが、もし兄がいなくなったら・・・?
いったい俺は何のために・・・?
結論は、いつも出ない。
ただ、そうなったときのことを考えると、漠然とした不安と恐怖が湧いてくる。
(考えてもしょうがないか・・・
俺の頭じゃ、どうせ答えなんて出ない・・・)
まだ寝ている兄を起こさないように準備すると、慶吾は仕事に向かった。
「おはよう、慶吾」
職場に着くと、松村が挨拶してきた。
「おはようございます」
松村は、慶吾が所属しているチームのリーダーで、清掃員を現地で指揮している。
他のグループでは、指示するだけで自分はほとんど仕事をしないリーダーもいるが、松村は積極的に仕事をこなし、チームメンバーの育成にも余念がない。慶吾が今の仕事を続けられているのも、松村のチームであることが大きい。
「よし、じゃあ行くか」
今日の現場やスケジュールについて説明する、チームごとの簡単な朝礼が終わると、松村は言った。
清掃道具で足りないものがないかを確認すると、慶吾と松村、もう一人の清掃員を乗せた車は、会社を出た。
-3-
三国の会社が入っているビルの一室で、新沼は、遺言の処理を進めながら、どうにかして、三国の最後の願いを叶えてやりたいと思っていた。
何より、三国には恩がある。
もっとも本人は覚えていない・・・いや、当然だ。
分かるはずがない。
"あのとき"と、一緒に仕事をしだしたときとは、見え方が違うのだから。
(今はそんなことを思い出している場合ではない・・・)
三国は、今のような、どんよりした気持ちを持って人生を終えることを、
決して望まないだろう。だが、じゃあどうすればいいのかも分かっていない。自分が何を求めているのか見えず、多少の苛立ちも感じる。
何を望んでいるのか・・・
そこを汲み取るのも、秘書としての役目と言える。
(あまり時間はない。
汲み取っても、そのときにはできないようなことだった場合、後悔を残して死なせることになる。
それだけは・・・)
「ん?」
昼食に出ようと、エレベーターの前まで来ると、清掃員がビルを掃除しているのが目に入った。
(・・・掃除か・・・
三国さんは仕事人間だし、あちこち旅行に行ってリラックスするより、仕事をするほうがいいのかもしれない・・・
いや、といっても、フルで働くのはさすがに身体がキツイか・・・ でも少し手伝うということで会社側と話せれば・・・)
「なるほど・・・ こういうやり方もあるか・・・ すごいね、今までより効率がいいし、汚れも落ちる」
あれこれと考えていると、そんな言葉が耳に飛び込んできた。
見ると、清掃員のリーダーらしき男と、部下らしい男が、何やら話している。
「ありがとうございます」
「これ、よく思いついたね」
「昨日の夜、兄と話してて・・・
仕事はどうだったと聞かれたので、清掃の仕事だから、特に代わり映えしないと答えたら、工夫次第で違くなると言われて・・・
それで・・・」
「なるほど、そういうことか。
・・・その感じだと、お兄さんの体調は回復に向かってるのかい?」
「・・・ものすごく悪化してるとか、そういうことはないんですが、回復に向かっているというのは・・・
手術しない限り、やはり・・・」
「そうか・・・」
エレベーターは何度か来ていたが、新沼はスマホを取り出し、電話しているフリをしながら、二人の話を聞いていた。
失礼だとは思ったが、何となく気になったのだ。
「ああ、失礼、清掃員さん」
突然声をかけられて驚いたのか、二人の清掃員はビクっとして、姿勢を正して新沼のほうを向いた。
「すみません、ちょっと掃除の仕方のことで話してまして・・・
すぐに再開を・・・」
「ああいや、いいんですよ。
代わり映えしないだろう清掃の仕事も、工夫次第で面白くなる。
本当にそのとおりだと思いましてね。
慣れると、中々そのやり方を変えようとしないのが人間だから、
失礼ながら、感心したんです」
「ありがとうございます。
私は現場の責任者ですが、思いついたのは彼でして、私も関心していたところです。
いやいや仕事をする人間が多い中、素晴らしいですよ、本当に」
「松村さん、そこまで褒められると、ちょっと恥ずかしいです・・・(笑」
「いやでも、本当のことだからな」
「君の名前は?」
「え?
俺ですか・・・?
・・・尾高慶吾です・・・」
「ありがとう。
ああ、私はこのビルの11階にオフィスを借りてる会社の人間で、新沼と言います。
じゃあ、引き続き仕事がんばってください」
「あ、はい・・・
ありがとうございます・・・」
ちょうど着いたエレベーターに乗り込むと、新沼は1階のボタンを押した。
先程思いついた、三国に清掃の仕事を・・・
というアイデアは、頭の隅に追いやられ、別の考えが、脳内で急速に勢力を広げていた。
調べてみなければ分からないが、うまくすれば、三国に最高の最期を迎えさせることができるかもしれない・・・
エレベーターを降りると、新沼はスマホを取り出して、コールボタンを押した。
-4-
「・・・面白い提案だが、それでいったい何が分かるんだ・・・?」
新沼の提案を聞いた三国は、訝しげな表情で言った。
「あなたの望んでいるものが得られるはずです。
私も、あなたが何を望んでいるのか、はっきりとは分かりませんが、ここ最近のあなたを見ていて、思うところがありまして」
「それはなんだ?」
「私の提案がうまくいけば、そのときに分かるはずです」
「・・・分かるはず・・・か。
まあ、自分が何を望んでいるのか分からない俺が、グダグダ言うのもあれだが・・・ 教えてくれてもいいんじゃないか?」
「いえ、今私の憶測を伝えるよりも、実際にやってみたほうがいいと思います。
私が憶測を言えば、あなたはそうかもしれないと思うでしょう。
それではダメです。
答えは自分の中から見つけないと」
「カウンセラーみたいなことを言いおおって・・・
俺には時間がないんだぞ・・・」
「結果はすぐに出ますよ。
もしうまくいかなければ、また次です。
動きながら考える、ある程度決めたら行動する。
これまでもずっと、そうやってきたでしょう」
「・・・まあそうだがしかし・・・」
「私が信じられないと?」
「いや、そうじゃない、信じているとも。
ただ・・・ 何をやろうとしているのか、自分でも把握できていないのが、不安なんだよ。
会社を始めてから、自分の会社がどこに向かっているのか、何をしようとしているのか、ずっと把握していたんだからな・・・
分からないことがこんなに不安だとは思わなかったよ・・・」
「一つ、経験を得たということではないですか」
「ふん、うまいこといいおって・・・(笑
分かった、おまえに任せる」
「ありがとうございます。
ではさっそく、準備にかかります」
ドアの前で頭を下げて、新沼が部屋を出ていくのを見送ると、三国はベッドに身体を横たえ、天井を見つめた。
自分が何を求めているのかも分からず、新沼の狙いが何なのかも分からない。こんなことは初めてだと、三国は思った。
自分が歳を取ったことを思い知らされるようで、悲しい一方で、新沼の提案に対しては、どうなるのか分からないながらも、面白さを感じた。
結果どうなるかは、兄弟次第ではあるのだろうし、知り合った縁ということにして、金を援助すれば、それはそれで気持ちいいかもしれない。
だがそれでは、何か違う気がした。
何が違うのか、はっきりとは分からなかったが、そうじゃないのは分かった。
「遊んでいるみたいで悪いが、俺には俺の目的がある。
それに、偶然の出会いで、何の苦もなく見返りもなく、幸運が転がり込んでくるほど、世の中は甘くない」
つぶやきながら、右手を掲げるように上げた。
どうなるか分からない。
しかし、一週間前より気分が上向いているのは確かだ。
「今日はよく眠れそうだ」
三国は身体を起こすと、読みかけの小説を手にとって、消灯時間を待った。
-5-
ちょっと一緒に来てほしい。
突然知らない男と女に声をかけられ、慶吾は何が起こったのか理解できなかった。
いや、実際は今も、理解できていない。
二人の表情は柔らかく、悪意は感じないが、何なんですかと問いかけても、何も言わない。
心臓がバクバクする。
ひょっとしたら殺されるのか・・・
まだ死ぬわけにはいかない、俺なにかしたっけ?
この人たちはなんなんだ・・・?
二人について歩きながら、頭の中にいろいろな考えが浮かんだ。
『こちらへ』
着いた先は、おしゃれなカフェだった。
何度か横目に見たことがあったが、自分には縁がないと思っていたカフェ。
そして、そこに一人の男が座っていた。
なぜか、他にお客はおらず、貸し切りのように見える。
「あなたは・・・」
カフェに一人でいるのは、先日のビル掃除のときに会った、新沼と名乗った年配の男だった。
「こんばんは、尾高慶吾くん。
こっちにきて、座ってくれ。
今、コーヒーを用意してもらう」
新沼が手を挙げると、ウェイターが頷き、カウンターのほうへ歩いていった。
「あの・・・ いったいこれは・・・」
「驚かせて申し訳ない。
今日は、君にある提案があって来た。
私から出向いてもよかったんだが、君の上司である松村くんも、私の顔を見ているからね。
会ったときに、何をしにきたかを説明するのは、少々厄介でね。
君に来てもらった。
驚かせたと思う。
申し訳ない」
「あ・・・ いえ・・・
いいんです、それは・・・
でも、なぜ俺を・・・?
提案って・・・?」
「君には、お兄さんがいるんだったね。
心臓の病気で、このままだと長くない・・・
手術すれば治せるが、その資金がない・・・」
「・・・!
なぜ・・・ それを・・・」
「気味が悪いと思う気持ちは分かる。
だが、落ち着いて聞いてほしい。
私は君とお兄さんを助けたいと思っている。
そのための提案だ」
「助けたいって・・・
お金を援助してくれるってことですか・・・?」
「そうだ。
だがもちろん、条件がある。
私が出す条件を飲み、クリアしたなら、手術の費用は全額出す。加えて、最高の病院で手術し、術後のケアも受けられるように手配する」
「ちょっと待ってください・・・
頭がついていかないです・・・
費用を出してくれるのは、もちろん嬉しいし、ありがたいです。
でもそんなことをする理由が分からない・・・
なぜ兄のために・・・?
あなたにいったい何の得が・・・」
「そのあたりのことは、君が私の提案を受け、それをクリアし、費用を受け取ることになったときに話そう。
提案を聞いて、無理だと思ったら、受けなくてもいい。
コーヒーを楽しんで、帰って構わない。
どうする?」
「どうするって言われても・・・」
「提案を聞いたあと、無理だと思うなら受けなくてもいいんだ。受けて、クリアできなくても、君に何かを求めたりはしない。
どうかな?
提案を聞くかい?」
「・・・はい」
「よし。
では話そう。
私がこれから言う、3つの試練をクリアしてほしい。
条件を満たした上でね。
3つクリアできたら、費用を受けられる。
まず一つ目は・・・」
そう言うと、新沼はジャケットの内ポケットから紙を取り出し、慶吾に差し出した。
「これは・・・?」
「開いてみてくれ」
「・・・」
「地図・・・?
でもこれ、山の中ですか・・・?」
「そう。
まずはそこに行ってほしい。
それが、1つ目の条件だ」
「でもこれ・・・
いったいどこですか・・・?
地図には、地名とかそういうものは何も・・・」
「ああ、そうだったね。
それは、群馬県のどこかの山だ。
山のどこかに、私の雇い主が避暑地として作った小屋がある。
そこに行ってほしい。
着いたら、次の条件を伝える」
「着いたらって・・・
どこの山かも分からないのに、どうやって・・・」
「それを考えるのは君だ。
たどり着くまでの費用はこちらで持つ」
そう言って、新沼は茶封筒を差し出した。
「交通費と必要なものを買うのに、50万円入っている。
それで十分足りるはずだ。
小屋への到着期限は、明後日の18時。
考える時間、買い物をする時間もある。
待ってるよ。
ああ、それと、このことは、お兄さんに話してはいけない。
君はこれから一週間、外泊して、3つの条件をクリアする。
いいね?」
新沼はそう言い残し、席を立って店を出ていった。
一人残された慶吾は、呆然としていた。
いったい、これは何なんだ・・・
この紙切れ一枚で、山小屋にたどり着けと・・・?
こんなことをして、意味があるのだろうか・・・
この50万円を別のことに使ったほうがいいのではないか・・・?
様々な疑問が浮かんだが、新沼はもういないし、このままお金を持ち逃げするわけにもいかない。
念のため、会社に電話してみたところ、一週間休みと聞いている、その間の給料も出るとのことだった。
どういう理由でそうなったのか、聞こうかと思ったが、止めておいた。
電話の向こうの相手も、きっと分からないだろう。
(とにかく、できることをやってみよう・・・)
今わかっているのは、群馬ということだけ。
ひとまず、今日のうちに群馬に行こうと、ルートを調べ、電車に乗った。
現地に着くと、安いビジネスホテルに泊まって、地図を広げた。
「・・・さっぱり分からない・・・
どうやって見つければいいんだ・・・
山って言ったって、たくさんあるのに・・・」
ピリリリリリリッ
スマホに表示された優吾という名前を見て、慶吾は出るのを躊躇った。
今の状況を聞かれたとき、なんと答えればいいか、
まだ何も考えていない。
「・・・もしもし・・・」
「慶吾、おまえ、何かあったのか?」
「いや・・・
それがその・・・」
「会社の人から、別の支店で欠員が出て、急遽そっちに行ってもらったと連絡があったけど・・・」
「いや、そのとおりだよ。
もしかしたら、一週間ぐらい帰れないかもしれない・・・ 欠員の人が早く復帰できれば、もっと早く戻れるかもしれないけど・・・」
咄嗟に嘘をついたが、同時に胸がズキンと傷んだ。
だが、もし本当のことを話せば、チャンスはその時点で消える・・・
新沼のことを本当に信じていいのか、こんなことをやって意味があるのか、半信半疑ながら、それでもその可能性に賭けてみたいと、自分はそう思っているのだと、慶吾は初めて気づいた。
「・・・そうか。
わかった。
おまえがそう言うなら・・・
俺のことは心配するな。
もし何かあれば、連絡もする。
だから、仕事をがんばれ。
有能な働き手だと思われてるから、急遽出張って話になったんだ。
おまえは評価されてる。
仕事に集中して、チャンスをものにしろ」
「ああ・・・ わかってる・・・」
「じゃあな」
電話が切れると、慶吾は複雑な気持ちになった。
兄は、俺が嘘をついていることに、きっと気づいている。
そのうえで、何か事情があると想像して、いつものように励ました。
「ごめん・・・ 兄貴・・・」
『チャンスをものにしろ』
兄は、そう言った。
電話で話したような仕事ではない。
信じていいのかどうかも分からない、本当にチャンスなのかどうかも分からないもの・・・ それでも、兄の言葉は、慶吾の中に、しっかりと刻まれた。
「よし・・・!」
慶吾は、再び地図に目を戻すと、その場所を特定するために、スマホで情報収集を開始した。
-6-
三国は、自分の身体が弱っていくのを感じていた。
病室にいるからか、それとも病気が進行しているからなのか、おそらくはどちらもなのだろうが、今になって初めて、死期か近づくという状態がどういうことなのかを知った。
「・・・あまりい気分のいいものじゃないな・・・(笑
まあ当然かも知れないが・・・
いや・・・ 心残りがあるからそう思うのか・・・」
ベッドから起きて、窓の外を見ながら呟く。
木に止まる鳥のさえずりも、風の音も、歩く人たちの話し声も、もうすぐ何も、聞こえなくなる・・・
コンコンッ
ドアを叩く音がして、新沼が入ってきた。
「始まりましたよ」
いつもどおり、あまり感情のない表情で言う。
「例の兄弟の話か?」
「ええ。
どうなるか、まったく想像はつきませんが・・・
弟の慶吾は、決して能力がないわけではありません。
ただ、コンプレックスが強いのか、自信に乏しく、あらゆることに対して消極的で、あまり自分から行動しようとしません。
それを克服できないと・・・」
「・・・なるほどな・・・」
「体調はいかがです?」
「死期を感じるようになった。
痛みが増したとか、そういうことはないんだが、死が近づいていることを感じる・・・
・・・もうあまり、時間はないのかもな・・・」
「まだ早いですよ。
これまで、ご自分の思う通りにやって、結果を出してきたんです。
最期まで、やりきりましょう」
「・・・」
新沼は、あの兄弟がダメだったら、次の方法を考えようと思っていた。
だが、もうそんな時間はないのかもしれない。
そう悟った瞬間、自分の考えは本当に正しかったのか、もっと別の方法があったのではないかと思い始めた。
単純に、死ぬ前にできることをすべてやる、みたいな話であれば、雇い主である三国のためにできることは、たくさんあった。
しかしだからこそ、迷ってしまう。
選択肢が一つなら、そこに全力を注げばいいのに・・・
三国が起業したころのことを思い出す。
あのときは、選択肢は多くなかった。
やるしかなかった。
あの頃に戻りたいかと言われれば、戻りたくはない。
しかし、今よりもはるかに単純だった。すべてが。
「・・・」
もし慶吾が、50万円を持って兄の元へ帰っても、新沼は咎めるつもりはなかったし、その可能性もあると思っていた。
でも今は、やり遂げてほしいと思う。
彼自身と、三国のために・・・
-7-
「あれか・・・
はぁ・・・ はぁ・・・ はぁ・・・」
腕時計に目をやる。
デジタル時計は、17時32分を示している。
外はかなり暗くなってきているが、もう小屋は見えている。
慶吾は、棒のようになった足を励ましながら、一歩一歩進み、小屋の前まで来ると、呼吸を整えた。
コンコンッ
「・・・誰もいないのか・・・?」
小屋は、その小屋を建てるためだけに切り拓いたのだろう、開かれた場所に、ポツンと建っており、金持ちが作ったにしては、豪華さのようなものは感じない。
「思ったより・・・ 地味だな・・・」
小屋というには大きい気もするが、外観はすべて木で出来ていて、二階建てでもなく、キャンプ場にあるコテージのようにも見える。
「新沼さん・・・?」
呼びかけるが、返事はない。
「・・・入っていいのか・・・?」
外は少し冷えてきている。
このまま外にいれば、風邪では済まない可能性もあるし、何より、疲れ切った身体を休めたい。
「入りますよ」
誰もいないのだろうと思いつつ、一応声をかけてドアに手をかけると、あっさりと開いた。
「・・・開けておいてなんだけど、なんか不用心だな・・・
まあこんなところに人なんてこないだろうけど・・・」
そう口にしたあとで、慶吾は少し怖くなった。
誰もいない・・・
ここで何かあっても、助けはこない・・・
発見されるのは、死んだあと・・・
「いや・・・
そもそも死ぬなんてことはない・・・
大丈夫だ・・・」
小屋の中に入ると、灯りが勝手についた。
「・・・すごい・・・」
中は、外観からは想像できないほどキレイだった。
真っ白なシーツのダブルベッド。
180cmぐらいあるキャスター付きの本棚が2つ。
テーブルもソファもおしゃれで、艷やかな黒っぽい石でできた、セパレート型のキッチンもある。
「・・・」
新沼は小屋と言っていたが、慶吾にとっては、こんな家に住みたいと思うような作りだった。
「これは・・・?」
テーブルの上に置き手紙があり、新沼の署名があった。
小屋の中のものは何でも使っていい、まずはゆっくり休むといい、と書いてある。
「親切なことだ・・・」
冷蔵庫には肉や野菜、卵などがあったが、疲れすぎて食欲もなく、シャワーを浴びると、そのままベッドに横になって寝てしまった。
「・・・」
『おい、慶吾がいるぞ』
「・・・?」
『なんでアイツがいるんだよ。
誰が呼んだんだ?』
「・・・」
『呼びたくなかったんだけど、しょうがねぇだろ。
頭数揃えないと試合にならねぇんだから』
『そりゃそうだけど・・・』
『ボール回さなきゃいいんだよ。
ただの数合わせだし、いないものとしてやろう。
あの変な鼻も見ながら話したくねぇし』
『そうそう。
それに近寄ると貧乏伝染るぜ』
『ギャハハハハハハハッ!!』
「・・・!!!
はぁ・・・ はぁ・・・ はぁ・・・ は・・・ はぁ・・・」
目が覚めると、すぐに自分が、家ではない別の場所にいることはわかった。しかし、どこにいるのか分からず、さらに悪夢の残り香が追い打ちをかける。
「なんだ・・・
俺は・・・
落ち着け・・・ 落ち着け、俺・・・」
しばらくすると、鼓動は徐々に落ち着いていき、呼吸も普通にできるようになった。体中に汗をかいているが、自分がいる場所も思い出し、状況は理解できる。
「ったく・・・
なんであんな夢を・・・」
汗ばんだ身体を、冷たい風が吹き抜け、身震いした。
隙間風だろうか・・・
小屋の中に入ったときは、そんなものは感じなかったのに・・・
『おい、誰だよ、慶吾を呼んだの』
「・・・!?」
部屋の中は真っ暗だ。
山の中だからというのもあるだろうが、おそらくはまだ夜中。
小屋には他に誰もいないはず・・・
そして、もう夢からも覚めているはず・・・
『俺は無理だって言ったんだよ。
でもアイツ、来ちまったんだよ。
兄貴を助けるためとかなんとかで』
「・・・!!」
『何勘違いしてんだろうな。
自分にそんなことできる力があると思ってる』
その声は、確かに暗闇の中から聞こえる。
小屋には誰もいないはずだし、何より、慶吾はその声を知っていた。
忘れたくても忘れられない声・・・
『笑えるな。
貧乏で頭も悪いくせに、病気の兄貴を助けるとよ。
気持ちだけじゃどうにもならねぇこともあるって、誰か慶吾に教えてやらなかったのかよ(笑』
『俺は教えてやったぜ。
おまえには無理だってな。
でもできると思っちまったらしい』
徐々に目が慣れてきて、声の主を探す。
すると、ちょうどベッドの位置からまっすぐに見えるキッチンのあたりに、何か青っぽいものが動いているのが見えた。
ほとんど黒に近い青で、はっきりとは分からないが、確かに何かがいる。
「だ・・・誰だ・・・!!」
『おいおい、誰だ、だってよ』
『なんかむかつくな』
『アイツ、いつから俺らにあんな口聞けるようになったんだ?』
『お仕置きが必要だな』
「・・・!!!」
青黒いものが、徐々にベッドのほうに近づいてくる。
「俺は・・・
兄貴を助ける・・・
そのために来たんだ・・・
もう・・・ お前らになんか・・・」
言葉とは裏腹に、心臓は、破裂するのではないかと思うほど、激しく動いている。
もう一生分動いたのではないかと思うほどに。
『無理なんだよ』
その声が耳元で聞こえた瞬間、目の前に崩れかけた人間の顔が、それも、知っている人間の崩れかけた顔が見えて、慶吾は悲鳴をあげた。
「来るな・・・!
俺はここに残る・・・
絶対に・・・ 俺は・・・」
「慶吾くん」
「・・・!」
名前を呼ばれると同時に、まぶたの向こう側に灯りが見えた。
「・・・新沼さん・・・」
恐る恐る目を開けると、そこには新沼がいた。
「ひどい悪夢を見ていたようだね」
そう言う新沼の顔は、一昨日見たのとは別人のように冷たく、人間と対峙しているとは思えない。
「どこにいたんですか・・・?
それに、今のは夢では・・・」
「今のが、2つ目の試練だ」
「え・・・?
じゃあ・・・ 2つ目の試練も越えたと・・・?」
「いや、違う。
最初に言っただろう。
一週間は外泊だと。
この小屋であと6日。
君は毎日悪夢を見る。
そして悪夢は、徐々に凶悪に、リアルになっていく。
とても夢だとは思えないほどにね・・・
それを乗り切ることが、2つ目の試練だよ」
「・・・あれが・・・
あと一週間も・・・」
「苦しいかね?
だが、今見たものはほんのさわりだ。
一日一日、深刻なものになっていく」
「・・・」
「トラウマを伴う悪夢は、恐ろしいものだろう。
とても夢とは思えない」
「・・・」
「自分がそれに耐えられるか、悩んでいるね。
では、もう一つの選択肢をあげよう」
「もう一つの選択肢・・・?」
「キッチンの奥に、もう一つ部屋がある。
その部屋には、1000本の蝋燭がある。
その中の一つに、君のお兄さんの名前、優吾と書かれた蝋燭がある。
それを、部屋に入ってから10分以内に探し出し、部屋の中央にある祭壇に乗せる。
もしそれをクリアできれば、3つ目の試練をやることなく、君の勝ちになる」
「それなら・・・!」
「ただし」
「・・・!」
「1000本の蝋燭には、すべてに名前が書いてある。
同じ名前はないが、似ている名前はある。
そして残念なことに、部屋はそれほど広くなく、蝋燭は床に置いてある。
すぐに倒れるようにはなっていないが、大きなもの・・・ 人間サイズのものがぶつかれば倒れてしまう。
倒れただけなら戻せばいいが、もしそれで火が消えてしまった場合、火が消えた蝋燭に名前が書かれていた人間は、何かしらの理由で死ぬ」
「え・・・?」
「無論、事故や病気という形になるから、君が殺人犯として捕まることはない。
その点は安心していいが、自分の不注意で、見知らぬ誰かが死ぬ可能性があることは、頭の片隅に入れておいたほうがいいだろうね」
「そんな・・・」
「そして当然、それは君の兄の蝋燭にも当てはまる。
もし、兄の蝋燭の火が消えてしまった場合、君が家に戻る頃には、兄はこの世にいない」
「・・・!!!」
「助けるはずの兄を、自分の手で・・・
ということにもなりかねない。
蝋燭を倒しても、君自身には何の影響もない。
何も得られないが、君自身に何かが起こるわけではない」
「・・・」
「だが一週間の悪夢を選べば、どんどん凶悪になる悪夢に、君自身が耐えられず、壊れてしまうかもしれない。
そうなれば、3つ目の試練は受けられず、失敗に終わる」
「・・・でも・・・
蝋燭を倒したら人が死ぬとか、悪夢がずっと続くなんて、そんなこと・・・」
「信じられないかね?」
「だって、そんなことありえない・・・」
「では、君がさっき見た、青黒いものは何だと思う?」
「・・・え・・・?」
「あれは夢ではない。
悪夢には違いないが、寝ているときに見る夢とは質が違うものだ。
目を覚まして逃れることはできない。
次に蝋燭だが、信じられないなら、
キッチンの先に部屋に行って、見てくるといい。
そして、試しにどれかの蝋燭の火を消してみるといい。
その名前の主のところへ連れていき、実際にどうなったかを見せよう」
「・・・なんでそんな・・・
あんたはいったい・・・」
「そんなことは、今はどうでもいい。
今重要なのは、やるのか、やらないのか、だよ」
「俺は・・・」
「どうしても、どちらも選べないなら、ここで止めるというのも、一つの手だよ」
「・・・!」
「この小屋に辿り着いただけでも、大したものだ。
ほとんどの人間は、この場所に対する情報量の少なさから、諦めるか、文句を言うかで、たどり着けない。
自分の頭で考え、行動することをしないからだ。
ネット検索で答えが出なければ、それで諦めてしまう。
だが君は違う。
不足した情報を自分で考え、集め、時間内にここに辿り着いた。
私は、その結果を高く評価している。
今ここで止めても、君の人生は大きく変わると約束しよう」
「どういう意味ですか・・・?」
「君が勤めている清掃会社から、私の会社に移ってもらい、出世コースに乗せる。もちろん、出世コースと言っても努力は必要だが、大きなチャンスは得られる。普通の人間が、ほしくても巡ってこないようなチャンスがね。
お兄さんを助けることはできないが、彼が死んでも、君の人生は続く。
家族であっても、他人であることに変わりはない」
「・・・」
「人のための人生を生きている人間は不幸だ。
本人はわかっていないが、自分の人生を犠牲にしたことを、なんらかの形でその相手にぶつけてしまう。
夫、妻、子供、親、兄弟・・・
どんな相手であってもね。
だから、君がここでギブアップして、自分の幸せな未来を選んでも、一部を除き、分かっている人は君を責めない。
もっとも賢い選択かもしれないよ」
「・・・」
「5分あげよう。
5分で決断を下すんだ」
「・・・」
5分・・・
たった5分で、兄や自分の命に関わることを決めろというのか・・・
そもそも、新沼の言っていることをすべて信じていいのだろうか・・・
蝋燭の火だの、悪夢だの、とても現実とは思えない。
しかし、さっきの悪夢のリアルさは・・・
それに、自信満々のあの態度から察するに、おそらく本当に、キッチンの奥には蝋燭の部屋がある・・・
そう思わずにはいられない。
否定しても、そう信じてしまっている自分がいる・・・
じゃあ・・・
どれを選ぶんだ・・・
悪夢が一週間、それも、どんどん濃くなっていく・・・
俺は、それに耐えられるんだろうか・・・
もし耐えられなければ・・・
蝋燭はどうだろう。
10分あれば、見つけられるだろうか。
優吾という名前は、そんなに多くない気もするから、名前を見ていけば、見つけられるかもしれない。
けど、もし探している間に、他の蝋燭を倒してしまえば、そして火が消えてしまえば、関係のない人を死に至らしめることになってしまう・・・
『人のための人生を生きている人間は不幸だ。
本人はわかっていないが、自分の人生を犠牲にしたことを、なんらかの形でその相手にぶつけてしまう』
先程の新沼の言葉が、頭に過る。
悪夢で狂っても、蝋燭を倒してしまっても、俺は兄を・・・ 優吾を恨むのだろうか・・・
考えてみると、俺は自分のためと思ってやったことがほとんどない。
子供のころは兄の後ろを追いかけ、今は兄のために仕事をして、兄のための人生を生きているといってもいい。
自分の幸せ・・・
不思議な話に思えるが、考えたことがなかった・・・
自分が出世コースに乗ることも、そんなチャンスが巡ってくることも・・・
「・・・時間だ。
どうするか決めたかな?」
「・・・出世コースにしようかと思いました。
けど、やっぱりできない・・・
確かに新沼さんの言うとおり、誰かのために人生を生きたら、あとで後悔することもあるでしょう。
それを、その人のせいだと考えることもあると思う・・・
でも・・・
それでも俺は、兄が好きだし、これまで何度も助けてもらった。
俺にとって、かけがえない、たった一人の家族です。
だから、何としても兄を助けたい。
とはいえ、一週間の悪夢に耐えられるほど、俺は強くない・・・
だから、蝋燭を見つけます・・・」
「・・・その過程で、見知らぬ誰かの命を犠牲にする可能性もあるし、自分の手で兄の命を消してしまう可能性もある。
それも覚悟の上かな?」
「・・・もちろん、そうならないようにします。
でも・・・ もし失敗したら・・・
そのときは、受け入れます、結果を・・・」
「・・・分かった。
では、キッチンの奥にある部屋に生き、兄の名前が書かれた蝋燭を探し、それを祭壇の上に乗せるんだ。
部屋に入ってから、10分がカウントされ始める。
10分経ったら、結果がどうあれ、部屋の外に出される。
ルールはそれだけだ」
「・・・わかりました」
慶吾は、何度か深呼吸をすると、キッチンの奥の部屋に向かって、ゆっくりと歩き出した。
「・・・ふぅ・・・」
部屋の前で、もう一度深呼吸をする。
ギィィィィ・・・
ドアを手前に引き、中に入ると、ドアを閉めた。
途端、部屋の中で灯る、無数の蝋燭が見えた。
数え切れないほどの蝋燭が、ゆらゆらと火を灯している。
「・・・すごい・・・」
幻想的な風景に、一瞬目を奪われたが、すぐに現実を取り戻し、優吾の名前が書かれた蝋燭を探し始めた。
部屋の中は、歩くことはできるが、蝋燭同士の隙間は、人一人歩くのがやっとぐらいで、早歩きするのも難しい。
強い振動を与えれば、蝋燭は倒れ、火が消えてしまうかもしれない。
「どこにある・・・」
見落とさないように、倒さないように、時々腕時計を気にしながら、蝋燭に書かれた名前を読んでいく。
「くそ・・・!」
5分を過ぎても、優吾の名前が書かれた蝋燭は見つからない。
中央にある祭壇に乗せればいいのだということは分かったが、肝心の蝋燭が見つからない。
デジタル時計の秒数が、一つ時を刻む度に、焦りが増していく。
「あれか・・・?」
優吾の優という字が見えて、近づく。
残り時間は2分。
他の蝋燭に比べると、火の勢いが弱く、ちょっとした刺激で消えてしまいそうなほど、心細い。
「あ・・・!!!」
焦ったせいか、優の名前の書かれた蝋燭のライン上にあった蝋燭に触れてしまい、危うく倒しそうになった。
しかも、優の書かれた蝋燭も、目的のものとは違った。
「・・・あと1分・・・」
諦めの気持ちと同時に、もういっそのこと、倒れてもお構いなしに、優吾の蝋燭を探そうか、見ず知らずの人間の命より、優吾の命のほうが、自分にとっては遥かに重いのだから、それでも・・・
「・・・!」
慶吾は、その考えを振り払うように頭を横に振ると、まだ見ていないところを見るために、身体を反転させた。
「・・・あった・・・!!」
自分の踵のあたり、もう少しで触れてしまうぐらい近くに、尾高優吾と書かれた蝋燭があった。
時計を見ることなく、すぐに蝋燭を手に取る。
勢いよく持ち上げたせいで、一瞬炎が揺らいだが、何とか持ちこたえ、祭壇へ急いだ。
もう少し・・・
もう時間は過ぎてしまったのか、それともまだ残っているのか・・・
躓きそうになりながらも、慶吾は蝋燭を祭壇に置いた。
恐る恐る、時計に目をやる。
10分を7秒過ぎている・・・
間に合ったのか、間に合わなかったのか、分からない。
気づくと、部屋の外、蝋燭の部屋の前にいた。
「・・・」
新沼がいるほうへ、一歩足を進めるたびに、鼓動が大きく、早くなる。
「・・・結果は・・・?」
新沼の前まで来ると、慶吾は恐る恐る聞いた。
その表情からは、失敗なのか、成功なのかは読み取れない。
「蝋燭が倒れた。
君の兄のものではなく、他の人のものがね」
「え・・・?」
「最後に、祭壇に蝋燭を乗せるときに、足がかすったんだ、その蝋燭にね」
「だが・・・
安心していい。火は消えていない。
転んで擦り傷ぐらいはあるかもしれないが、命に関わることはない」
「・・・良かった・・・
・・・あの・・・ 兄の・・・ 優吾の蝋燭は・・・」
「・・・火は灯っているよ。
時間は、10分ちょうど」
「10分ちょうど・・・
それは・・・」
「・・・成功だ。
1秒でも過ぎたらダメだったが、10分ちょうどなら、問題ない。
試練クリアだ」
「・・・じゃあ・・・!」
「お兄さんの治療費は出す。
君の勝ちだよ。
いや、勝ち負けの話ではないかな。
君は見事、試練をやり遂げた。
素晴らしかったよ」
「本当に・・・ 兄の治療費を・・・」
「ああ、約束する。
今日はゆっくり休んで、明日の朝、ここから出て手続きに行こう。
お兄さんも呼んでね」
「え・・・?
でも、兄は何も知らないのに、突然そんなことを言われても・・・」
「君のお兄さんは、一部始終を見ていた。
君が一週間ほど帰らないと、私から直接伝えたとき、理由を聞かれてね。
うまく誤魔化そうとしたんだが、誘導されてしまった。
そうしたら、全て見せてほしいと。結果に関係なく、自分のために体を張ってる弟の姿を見る義務があると言ってね。
君のお兄さんもまた、大したものだ」
「兄貴が・・・ そんなことを・・・」
「ああ。
だから、お兄さんはすべて分かっている」
「・・・敵わないな、兄貴には・・・(笑」
翌朝、新沼は慶吾を連れて小屋を後にすると、部下に優吾を向かいに行かせて、病院で合流した。
「手術の日も決まった。
手術をする外科医も、腕は私が保証する。
君の人生はまだ続くんだ、優吾くん。
それも、病気のない形でね」
新沼は、小屋で見たのとは別人のような優しい顔と口調で言った。
「ありがとうございます」
優吾が頭を下げたが、慶吾はお礼を言ったあと、
腑に落ちない顔をで口を開いた。
「・・・あの、新沼さん・・・」
「ん?」
「なぜ、僕らを助けようと思ったんですか・・・?
あんな試練まで用意して・・・
あなたはいったい・・・」
「・・・私の雇い主のためだ」
「雇い主?」
「そう・・・
私の雇い主は、余命わずか・・・
もう手術でも治すことはできない。
彼は、たくさんの事業を展開するグループ会社の社長でね。
私は長年、彼の秘書を務めてきた。
40年近く、全力で駆けてきて、ありとあらゆることを経験し、やりきったと思っていたんだが、死を目の前にして、見たくないものを見てしまったせいで、すっかり沈んでしまってね」
「見たくないもの・・・?」
「成功するためには、醜いものもたくさん見なければならない。
ときには、自分もその一部なのだと感じることもある。
しかし、それでも信じるものがあれば、心まで魑魅魍魎に染まってしまうことはない。
彼にとって信じるものは、家族だった。
外でどんなことがあっても、家族との関係だけは、そういったことに侵されないものだと思っていた。
しかし、彼の死が近いことが分かったとき、家族は、莫大な財産の配分を巡って、醜い争いを始めた。それは、彼が成功するまでの道のりで見てきた、成功してからも度々目にした、醜い魑魅魍魎と、なんら変わらなかったんだ・・・
彼は絶望し、すっかり老け込んでしまってね。
そんな気持ちで死にたくはないと思ったものの、自分が何を求めているのか、彼には分からなかった。
だが、私には何となく分かっていた。
彼が求めているものが・・・」
「いったい、何を・・・?」
「可能性だよ、人間のね」
「可能性・・・?」
「目の前に大きな欲を提示されたり、極限状態に陥ると、人間は2つの反応を示す。
もっとも美しい姿と、もっとも醜い姿。
新沼さんの雇い主は、ずっと醜いものを見てきた。
そして、唯一違うと思っていた家族の中にも、それを見てしまった。
人間を信じられなくなった彼は、そんな気持ちでこの世を去りたくなかった。
人間の可能性・・・ どんな状況を目の当たりにしても、欲望に負けず、自分の信念を突き通す・・・ そんな人間の可能性を見たかった。
そして、そのための人材に、俺たちを選んだ・・・
そういうことですよね、新沼さん」
優吾が言うと、新沼は目を見開き、少し沈黙したあと、口元を緩めた。
「君は本当に、大した男だな。
慶吾くんの信念にも敬服したが・・・
君たち兄弟は、素晴らしい兄弟だよ。
今のような生活に甘んじていていい人間ではない。
君たちのおかげで、彼も穏やかな気持ちでこの世を去れるだろう。
本当に、ありがとう」
そう言うと、新沼は深々と頭を下げた。
その後、慶吾と優吾の二人は、三国の病室に行き、少し話をして、家に帰ると、また日常を始めた。
経済的には特に何も変わっていなかったが、二人とも、これまでとは顔つきが違っていた。
そして、それから二ヶ月後。
優吾の手術は無事に終わり、その二週間後に、三国は息を引き取った。
死の一週間前には、三国は再び二人を呼び、自信を持って人生に挑めと言い残した。
自分たちの可能性を信じろと。
慶吾は新沼に対して、いったいこの人は何者なんだろうという疑問が残っており、優吾もまた、同じことを思っていた。
だが、深くは聞かないことにした。
新沼が何者であれ、三国は最期まで新沼を信頼し、新沼もまた、三国の信頼に応えてみせた。
新沼が何者であっても、二人の間に強い絆があることは間違いなかった。
そう、慶吾と優吾のように。
やがて、二人は会社を作り、大きな仕事を成し遂げることになるが、いつも、三国に言われたことを心に留めていた。
『人間はいずれ、必ず死ぬ。
死ぬときに、笑って死ねるように生きろ』
みなさんに元気や癒やし、学びやある問題に対して考えるキッカケを提供し、みなさんの毎日が今よりもっと良くなるように、ジャンル問わず、従来の形に囚われず、物語を紡いでいきます。 一緒に、前に進みましょう。