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ガール・レディ・バード

あら、可愛いわね。
片田舎の6月。白いカッターシャツを着て自転車を押して坂を歩いていたら、ちょうど花の水遣りに出てきた近所のおばさんに微笑まれた。
視線の先を見ると、いつのまにか自分の左胸にワンポイントの刺繍があった。天道虫だ。
気恥ずかしさに小さくなりながら、あまり揺らさないようにゆっくりと歩いてみたけれど、すぐにその名の通り南西の空へと羽ばたいた。冴えない僕に嫌気がさしたんだろう。
おばさんは時折こうして名前も知らない僕に話しかけてくれる。初めて言われたのが「そんな暗い顔してちゃダメよ。若いのにもったいない」だったのは、励まされたと同時に半分ショックだったのでよく覚えている。他人から見て分かるくらい俯いて歩いてるんかい、俺…。

ひばりの矢って童話を知ってる?太陽なんか目指したっていいことなんて無いのに。
ほら、こうやって何でも皮肉にしてしまうのが既に人としてダメなんだよな。
せっかく来た幸運の象徴はすぐに飛び去ってしまった。おまえが暗いせいです。あーあ。

市民球場が見えてきた。もうひと頑張りすれば下り坂になる。
ちょうど練習が終わったらしい。うちの学校のグラウンドは狭いから、週に何度かはここでソフトボール部員たちを見かける。今日はちょっと早いんだな。
視界の左側に同じクラスの山中紗也が現れた。一瞬目が合ったけど話したこともなかったし、すぐに目を逸らしそのまま歩き出す。
コミュニケーションが苦手な人間あるあるなのだが、こういう時本当はどういう対応をするのが正解なのか毎回わからない。
そしてほぼ100%、知らない人の顔をして通り過ぎる。感じが悪いと思われようが仕方がない。特に明るく友達の多いタイプの人間とはなるべく関わりたくないという気持ちが大きすぎる。下手に会話して、翌日の教室で「珍しい奴と喋った」的なおもしろネタにされても嫌だし。

おーい、という声が左後ろから聞こえた。
漫画で登場人物がビビった時に出てくる、びくりという効果音が頭の中に浮かぶ。
山中が片手を上げ、こちらに向かって走ってくる。その表情は穏やかであるものの、どうしても嫌な想像ばかりしてしまう。僕は彼女に何かしてしまっただろうか…。覚えが無い。というか普段ほとんど誰とも話さず、放課にも小説を読んだりして過ごすので覚えがあるはずもない。
彼女は勉強はできないし、いつも笑いを取ることを優先するタイプの生徒だが、友達は多かったし容姿もわりと整っていたはずだ。
別にまじまじ見たわけじゃないから多分だけど。
非常事態に直面した時、それを信じられずにその場を離れられなくなってしまう現象があるらしいが、まさにその縮小版みたいなことが己の身に起こっていた。あまりにも小規模すぎるけれども。

どうしていつも下を向いて歩いてるの?
山中は僕に追いつくと、そう不思議そうに尋ねた。丸くて茶色い目に、いじわるな敵意のようなものは見えなかった。
別に、何でもないよ。
見つめられておどおどとそう答える。「人生が楽しくないからです」という活字が一瞬脳裏に打たれたが、言葉にできるはずもない。
ふーん、と言って僕から少し目線を外す。
この隙だ、ちょうど下り坂に差し掛かっていた。無言で自転車のサドルに跨る。

次の期末テスト、連覇できるといいね。
がんばれ!

何でおまえが俺の学年末の順位知ってんだよ、ていうかおまえががんばれよ。と言えたら良かったんだが、眉間に皺を寄せて山中の人の良さそうな顔を睨みつける位が精一杯だった。

あははっ。遂に漕ぎ出した僕の左後ろから短い笑い声が聞こえた。愉快そうでいて、少し寂しそうな声。
彼女は僕に話しかけたことを後悔しただろうか。そのことを後悔しかけた自分にギョッとした。スピードを上げた。
クラスメイトと話したのが久しぶりすぎて思わず頭の中で会話を反芻してしまったが、そういえば「いつも下を向いてる」ってことは「いつも」を知ってるってことだろうか。全然気が付かなかった。
別にこんなことで動揺なんてしない。アイドルグループの歌なんかで「女に話しかけられただけで舞い上がりまくってる男」目線の歌詞を見かけるが、突然話しかけられたらまず恐怖を覚えるのが当然だろう。

ああ、でも目は綺麗だったな。無邪気で愛らしい人の事をお茶目という言葉で表すが、その意味はちょっと分かってしまった気がする。
だけどそれが何だっていうんだ。
さらにスピードを上げた。

翌日の教室で、山中が僕と話したことをネタにすることはなかった。
一学期末のテストで、僕はまた学年一位を取った。


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