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36 知的財産と対価 (学校の先生編)

他の編はないのですが、ここ数年の僕の問題意識です。

たとえば学校が芸術鑑賞で外部にお願いするとき、あらかじめ予算があります。「この額でお願いします」と委託し、それで契約して来てもらいます。

「この額でお願いします」と、こちらが言って応じてもらって。先方が主に学校を相手にして活動されている団体ならいざ知らず、「この額」で折り合えないときは「学校がそんなにお金を出せるはずがないやん」と言ってぶつぶつ。著名な方を呼んで話をしてもらうときもそう。折り合えないときは「向こうが法外な要求をしている」と言わんばかりの反応です。

さてさて。

最近は「え、こういうのでもお金を取れるのか」というビジネスが席巻しています。デジタル、オンラインの分野では肖像権、版権がNFTで取り扱われる。「ここから先は月額1200円で…」という記事も目にするようになりました。価値のあるものに対価を支払ってそれを得る。考えれば当然の論理が、学校という場では機能しにくいように思えるのです。

学校だから安くしてもらえるとか、生徒対象だからタダでとか、時と場合によればありますが、これは知的財産を軽視しているようにも見えます。友人や親戚、兄弟と話をしていると僕なんか本当にわかっていないなあ、と思うことが多々あります。正当なサービス、指導を受けたいのなら対価を。当然ですよね。

サブスクを利用するようになって、月々、年間、という視点でお金の価値を捉えるようになりました。先日同僚と枕の話になり、オーダーメイドの枕が数万円するのが高いかどうかの話題になりました。「点」で見ると確かに高価。でも10年も保証期間があるという「線」で見るなら、月々いくら、年間でなら、と計算してみると月に300円ほど。これが高いのかどうか。そこからやっと個人の感覚です。

ちょっと逸れました。学校では授業技術の練磨、生徒指導のノウハウ、進路指導の多様性の担保など、昔から続く学校文化のただ中にいます。いまだに。そこでその数々の技術が生徒の一体何のためになるのか、彼らの将来の何に寄与するのか、そういう視点で見ていくと僕などはまだまだだなと感じます。

経済的な問題に必ず直面するはずのこの社会の仕組みで生きていくなかで、自分の居場所とか、人と人とのあたたかさとかを教えていくのが学校のはずです。学力だけでいいのなら学校は今の学校じゃなくてもいい。

価値の創造。既存の文脈から行間を感じ取って、隙間や不足感を感じ取ってそれを仕事にしていく。僕は国語なので、社会のいまから逆算して国語でできることをしていきたいと考えています。じゃあディベート、ディスカッションすればいいって、そう安直でもないのが言葉の世界であり、国語の奥深さです。脈々と受け継がれてきた知的財産を継承すべく僕らの仕事があります。知的財産には対価がともなう。そこへの敬意があって、この社会が回っているのじゃないかなと思うわけです。

ああ、うまく言えない。この手の話題でまた書きます。みなさん、僕を鍛えてください。

スギモト