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35 まなざしについて

学校の先生は誰を見て仕事をしているのでしょうか。

1 子ども

2 大人(保護者・世間)

3 同僚

僕が思う方向性はこの3つです。理想は1の子どものためですが、どうもこれだけじゃうまく仕事ができないことがあります。先生は子どもたちのために働いているはずなのに。

おもしろい記事がありました。

いま学校を働きにくくしているのは外部への過度の配慮だと思います。保護者、大人、世間への説明責任ができるように生徒たちに接します。当たり前なのですが、過剰防衛がすぎてがんじがらめになっている学校も多いと想像できます。そういう先生方もおそらく多くいます。

校則がゆるくなる→気がゆるむ→違反とOKの境があいまいになる→いずれ違反も許容される→荒れる

この構図は教師が危惧する悪循環です。校則は安全に、しかも「楽に」学校生活を営む上で大切な装置だと僕は思っています。制服がなくなって困る子もきっといます。一方でなくてもいいとも思います。なくてもいいけど、困る子がいるならそっちに合わせるほうがいいのかな、僕もどちらかというとそちら寄りです。

子どものためを思って段階的にある校則を取っ払ってしまったら。

そうすると先の構図が発動するわけです。一度荒れると学校はたいへんです。授業どころじゃなくなります。真面目にやっている子たちが、その子たちだけが憂き目にあります。めちゃくちゃする子たちも本当はみんなといたい。みんなといたいからアホなことをしてしまうわけです。気を引きたい。両者が相容れることはほぼありません。間に立たされる先生たちはたいへんです。どっちにもいい顔はできません。僕も苦しい思いをしたことがあります。今でも記憶の端々に心を痛めた事象や言葉がよみがえることがあります。幸い僕はそれらと向き合えるので今は大丈夫です。それほど強烈な環境なのです。これは本当に怖い。

校則が厳しくなるとある意味で学校は静かになります。当然、抑圧されていますので多くの生徒は不満に思うはずです。でも、そのおかげで飛び抜けた事象は起こりにくくなります。痛し痒しです。

厳しくしたら生徒はおとなしくなるし、そうなると保護者も現象面では安心できます。そうして、やがては外の目を気にしすぎて今度は同僚とのせめぎあいが始まります。子どもへのまなざしはここにはありません。

こういう怖さを知りながら厳しく接している先生がいます。一方でそれを知らずにただ声を張り上げる人もいるでしょう。現象は同じですが、中身が全然違います。

学校はいつも仮想敵になり、抑圧、没個性、自由を奪う場、個性をつぶす環境として象徴的に負のロジックに現れます。いつも残念に思う瞬間です。

冒頭に述べた3つの視野以外に、社会や未来という視座でいくと、子どもを取り巻く先生や保護者、大人、世間がこのままでいいのかなと思います。生徒にハンドルをもっと取らせたらいいのに、と。ウチの学校はICTを活用して授業展開をしているので、僕はその延長線上でスマホも使っていいよと言っています。SNSやゲーム、好きな情報にアクセスしているかもしれません。でも、僕はそれでもある程度はいいかなと思っています。もちろん、ダメです。でも、いいかな。

子どものためを思いすぎて、過剰に子どもを守って安全地帯以外にやらない、過剰に厳しくしておとなしくさせる。子どものためという美辞麗句、子どものためという誰も疑わない方向性が子どもの声を遠ざけています。

子どもの本音はこちらも本音でいかないと出てきません。人間だからです。子どもの話を聴くいろんなテクニックがあるそうですが、僕はそんな難しいやり方を知りません。こちらが本音で話す。これが一番はやい。言えないこともあります。そういうときは「ごめん、言われへん」と言う。そうやってきました。

校則をゆるくしても荒れませんよ。知ってます。だからこそ、なぜそれができていないのか、できないのか、お互い攻撃的にならず話しあったらいいのにと思います。仮想敵である教師は頭がカタイ、厳しくしたら子どもが言うことをきくと思っている。そんな人もたぶんいますが、僕の知っている生徒指導に長けた先生方は皆、突き放すような、押さえつけるような厳しさでもって接しません。えてして、そういう先生方は発信をされません。これが実に悔しい。僕は中途半端な教師なので、すぐしたり顔でこのように何かを語りたくなります。

校則の面倒くささと相反する慈愛に満ちた先生方の、本当に心あたたまる子どもたちへのまなざしを少しでも外に届けたい。子どもの幸せを願うどうしで、同じ方向を見て子どもたちを育めたらいいなと思います。切実に。

スギモト