現実は結果的なもの
本質とは何か
それは原因的なものにはなる
どんなときも人は
結果的なものしか
みれていない
万が一原因的なものが
現実であれば
それはもう揺るがないものに
なるからだ
だから現実は結果的なもの
今みて感じたことは
結果的なものになる
ならば原因的はものは何なのか
原因的なものは本質にもなるから現象面である結果を見るのではなくて原因的なものを私達は追いたいわけである
ならばどうすればいいのか
今回はそれについて考えてみたいと思う
情報も結果でしかない
現代は情報によって全ての価値観を構成している構造がどうしてもある
情報はいろいろな形でやってくるけれど、その発信者が原因となって結果として今私達が毎日受け取っている
例えばニュースなどになって伝わってきたりする
それは物語になったり、または体験談みたいな通称リアルと言われているもので伝わり疑似体験をすることなどあるだろうが
どれも全て結果的なものを私達の中での原因結果的プロセスを経て認識されているのであるが
ここで問題なのがより本質に近づくには原因的なものをつかまないとならないということがあるわけだから
この私達に伝わってくるものをより単純に構造だけで考えて原因的なものは何かを追求していかないとならないと思う
情報の原因は発信者の価値観
私達が世界と感じ現実はこれだと思うのは
私達が直接体験したものではない何かしらの情報的なものが多いのが現代だが別に体験して得られるのも五感という感覚器官から入ってくる情報にすぎないと解釈をもしするなら
それがある意味仮想的な情報(ニュースも実際みているわけではないからこれに入る)であっても五感から直接であっても結果的な情報からでしかどうやら人は認識できない構造になっているようだ
ニュースの場合はわかりやすく、それを書いた記者や発信している者の価値観というフィルターがかかるからその価値観が原因的なものだというになる
体験においては五感に伝わる情報が全てを決定するように思われるがそれがどういう意味だったのかというのはそれを受け取った本人たちの認識というある種主観みたいなものによってなされる
これはニュースによる記者の価値観と同じ作用ででてくるものであるのは理解してもらえると思うが
ただ記者が判断したのか自分が判断したのかの違いであってリアルな体験だからそちらの方が本質としての優劣は実はない
また聞きであってもそれは問題ないのである
また聞きか直接かで本質が判断されない
また聞きとなると二番煎じとか何か本質ではないことと思われがちだがそれはその発信者の価値と同等の価値を持つことが実は個性の違い文化の違いなどあってなかなか難しいために
そもそもの情報をゆがんだ形や部分的にしかとらえられないために起こるものでしかない
本質は何かというのを考えるとそれはどういう本質的な価値がそこにあるのかということで判断されるべきなのが
情報化社会では情報源やそれが発信された日時などで判断されてしまうことがよくあるわけだ
まずはこのような誤解から解放されて
価値がより本質的になることを中心として考えていかないとならないのであるが
それじゃ何か本質的価値になればいいのかということが問題になる
論理的にすっきりしていればそれが本質的らしさはあるが実はそれだけでもないのであるが
さらに私達は本質的なものは絶対に論理的でないとならないとも思っている論理的というのはわかりやすいということだけでしか実はない場合もあって
この辺からの本質の判断をするのは意外に難しいのである
本質的なものを探す旅についてはまた次回考えてみたいと思う
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