7月7日は世義寺「柴灯大護摩」の日
世間では七夕の7月7日は、伊勢、特に外宮(豊受大神宮)の門前町である山田地区においては、伊勢の名刹・世義寺(せぎでら)で柴灯大護摩(さいとうおおごま)が行われる日です。いにしえの時代ほどではないにせよ、そこそこ人出もあり、夜は露店で賑わいますが、残念なことに山田地区以外の方々、ましてや観光客にはほとんど知られていないお祭りだと思います。
このnoteは、伊勢神宮における神仏習合の歴史をテーマに記事を書いています。伊勢神宮が現代のように仏教色を排除された姿になったのは、明治初期の廃仏毀釈以降のことであり、江戸時代には何百という寺が内宮(皇大神宮)、外宮の周辺に蝟集していました。
当時の人々にとって神仏への信仰は分け隔てのあるものではなく、伊勢神宮の神様にまつわる寺院や仏像を拝み、読経することは当然のこととして行われていました。
世義寺も伊勢神宮と関連が深かったそうしたお寺の一つで、教王山 神宮寺 宝金剛院というのが正式な名称。真言宗醍醐派のお寺です。
ピンと来る方も多いでしょうが、醍醐寺は神仏習合の教派である修験道、つまり山伏の総本山の一つであり、伊勢神宮周辺のお寺は、このように真言密教や修験道のお寺が多かったことが一つの歴史的な特徴になっています。
これは、内宮と外宮からなる伊勢神宮を、曼荼羅の胎蔵界と金剛界に見立て、天照大神を大日如来の化身と考えた両部神道が、鎌倉時代以降、一つの大きな信仰の形として成立し、世に広まっていたことと関連します。
世義寺の寺伝によると、8世紀、奈良時代に聖武天皇の勅願によって行基が開祖したとのことですが、正式な記録には残っていません。古代・中世の宗教史に詳しい荻原達夫博士は
「(世義寺は)神宮寺また宝金剛院という別号があったともいうが、天平の開創というのみで、くわしいことが全然わからず、ただ鎌倉時代に存在したことは、『通海参詣記』・『神祇秘抄』によって知られるのである。」
「(明治初期に、廃仏毀釈、修験道廃止によって急速に没落してしまったが)没落したため一層わかりにくくなっているが、没落以前でも一向にその由緒は明かでなかったのであり、いずれは大和の長谷寺・室生寺などに関連するものがあったのであろうが、それを明示しないところを見ると、民間信仰としての面が最初から濃厚だったのではないかと思う。」
と書かれています。
お伊勢参りは江戸時代に全国的に定着し、流行しますが、その助走期間として、鎌倉時代や室町時代から修験者や山伏によって伊勢神宮の神威は全国に伝えられ、やがて彼らが宇治山田で布教するするようになると、その拠点がいつしかそれが寺院と呼べるほどの規模になった、ということなのでしょう。
これはこれでいけないことでも、伊勢神宮を汚すようなことでも全然なく、ただただ民間の素朴な信仰 ~神仏への加持祈祷による現生利益~ がいかに力強く伊勢神宮を支えていたのかを証左するものと言えます。
柴灯大護摩では一日のうちに何度か護摩が焚かれるのですが、ちょうどこの時はお昼12時からの厳修で、猛暑日の晴天、恐ろしいほどの暑さの中で、ご住職と修験の皆さん、そして多くの参拝者が般若心経を読誦して、世界平和、家内安全をお祈りしていました。
本堂ではご本尊の愛染明王も拝み、心が休まる夏の一日でした。
せっかく伊勢に来られたら、ぜひこうしたあまり有名ではないけど歴史のある場所にも訪れていただければと思います。
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