仕事⑥ 〜外国で外国人と働く〜

2018年6月、僕は台北に赴任した。台湾に来るのはこれが2度目だった。1度目は大学のゼミの卒業旅行にて。その頃から5年の歳月を経て再来だった。30℃超えの熱気、緑緑しい山々と海とを有した美しき島国。別名フォルモサと呼ばれるその島国は多くの歴史建造物を持ち、「食」を文化の中心とし、九州と同面積の土地に2,400万もの人々が密集して生活している。騒々しい北京語を聞き流し、僕の外国での生活がはじまった。

はっきり言って海外で生活することは僕の人生プランにはまったくなかった。でもなぜ行ったのか。その答えは10年後に分かると思った。10年後の自分のために行った。26歳。人生について真剣に考え始めて1年。僕の人生には大きな挫折がないことを知っていた。挫折がないこと=大きな挑戦をしていないのだ。台湾は自分にとって挑戦だった。自分を嫌な環境において辛い思いをするための挑戦。会いたい人に会えない、言葉も分からない、そんな環境にあえて身をおいて1人で打開していくことができるのか、を見つめ直す機会でもあった。

台湾の会社は本部に25名、30店舗に75名の計100名の従業員という小さな会社だ。僕は日本人1人で副社長の役割。この年までは日本人が日本にいながら現地MGTを執ってきたが、台湾人に社長を変え、より現地化を図っていくために僕が赴任した。まずこの社長がとにかくインパクト大。足の先から首元・手の甲までびっしりと彫り込まれた全身入れ墨。和彫からタトゥーまで。日本なら間違いなく反社扱いされるがこの国では特別変わったことではない。

台湾に赴任して2週間。僕は日々の小さなストレスに少しずつ消耗していた。そしてここからの3ヶ月間、想像もしていなかった苦しみに襲われる。体に異常が出た。どれだけ寝ても朝がしんどい。手足のしびれ、眩暈、蕁麻疹、息切れ、悪寒、味覚障害。明らかに自律神経が乱れていた。
心では何となく分かっていることが体にははっきり出ていた。この頃といえば心の余裕を奪われていた。いきなりの環境変化、業務の変化、経営からのプレッシャーに、中国語の上達、現地での挨拶回り、何から手をつけていけばいいか、自分を見失っていた。

そこには自分の完璧主義な一面がマイナスに働いていた。なぜ1人でできない?なぜ言葉が分からない?自分を責めてばかりで人に頼ることも出来ない。そして勝手に台湾人に苛立っていた。彼らにとっては日本のやり方が理解できない。だが、僕は日本のやり方を押し付ける。それでいつも社長と喧嘩になっていた。僕にとって台湾人が敵だったのだ。情けなかった。毎日会社に行きたくなかった。

そんな僕を見かねたのか、ある日社長と飯に行った。正直その日もギクシャクしていて酒が入るとまた喧嘩しそうで行きたくはなかった。そろそろ飽きてきた床がギトギトの台湾居酒屋。高カロリーで味の濃い食べ物を持ち込んだウィスキーで流し込む。お互い酔いも回り始めた頃、社長が独特の日本語で言う。

「あなた今しんどい。言葉も分からないし、仕事もいっぱいのストレスあります。体調よくないのも見て分かります。そんなに抱え込まず大丈夫ですよ。皆さん味方です。でも日本のやり方は分からない部分ある、でもそれはあなたのせいじゃない。ゆっくりでいいです。」

そして彼自身もかつて香港に5年駐在していた時の話をしてくれた。「私も30歳の頃、5年間香港行く。誰も友達いない。香港には日本人8人の駐在員と香港人。私1人だけ台湾人です。英語も苦手だし日本語も今よりもっと下手。しかもタトゥーいっぱいです。変な人の目で見られます。(笑) 昼ごはんもいつも1人。とても辛いよ。」

僕はどうやって乗り越えたのかを聞いた。すると彼は意外な話をした。「台湾は私の時代は2年間軍隊行く。とても厳しいです。理不尽に殴られます。でも皆やめません。辛いけど、辞めるのは簡単ですよ。そう思ってやりました。その時の経験です。ただこの考えは少し古いかもしれない。」

その経験を僕は古いとは思わない。むしろそれは若者に欠如している部分だ。自分もこれまで社会人になって何度も何度も悔しい思いをした。でもその度に辞めるのは簡単だと思っていた。その初心を思い出させてくれた。

そして彼は言う。「でも香港のときは5年目でようやく皆さんから認められました。外国人が外国で仕事するのはやっぱり大変です。私も知ってる。時間かかります。だからストレスは感じないでください。」

僕は大事なことを忘れていた。この国では自分は外国人。そして改めて自分の弱さを知った。無意味なプライドの鎧はいつまでも着ているもんじゃない。

独りよがりで解決しようとしたことに問題があった。まず言葉の出来ない自分を受け入れ、謙虚な姿勢で接することが必要だ。周囲に助けを求めることができるようになったことで色々うまくいくようになった。1人で出来ることなんか限られている。これを実感した。出来ない部分は補い合えばいい。

日本時代、あれだけ謙虚さがなければ仕事はうまくいかないということを実感しておきながらまた同じ過ちをおかす。僕は台湾にきてやっぱり挫折した。また情けない自分に出会った。でもどこへ行っても支えてくれる人がいる。それに頼れるようになった。そしてそれらをバネにまた強くなれた。

次回が最後。続。

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